車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 兵庫県旧南淡町(南あわじ市)

2021年05月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・兵庫県

旧三原郡南淡町(なんだんちょう)は兵庫県南端、淡路島南部に位置した街です。洲本市、三原郡西淡町・三原町、大鳴門橋により県を跨いで徳島県鳴門市に隣接。瀬戸内海(播磨灘)と太平洋の両方に面し、福良港からは鳴門渦潮の観潮船が出航。沖合にある沼島は「古事記」の国生み伝説で知られ、瀬戸内海国立公園域にある灘黒岩水仙郷は、多くの観光客に人気です。タマネギや野菜栽培、養豚が盛んで、ワカメ、ハマチ、ノリの養殖も行われ、諭鶴羽山地南麓ではビワ、ミカン、スイセン、電照菊が栽培されています。「町の木:ウバメガシ」「町の花:水仙」を制定。

 

明治22年(1889)、町村制の施行により、三原郡賀集(かしゅう)村・阿万(あま)村・北阿万村・福良町・沼島村が発足。

1934年、阿万村が町制を施行、三原郡阿万町が発足。

1955年、三原郡賀集村・北阿万村・阿万町・灘村が合併、三原郡南淡町が発足。

1955年、南淡町・福良町・沼島村が合併、改めて三原郡南淡町が発足。

2005年、緑町・西淡町・三原町と合併して南あわじ市が発足。

マンホールには「大鳴門橋」と「渦潮」それに「町の花:水仙」が美しく描かれています。

昭和31年(1956)1月26日制定の町章は「3つの波頭をもって、「南」と海辺の町を表し、町民相互の融和と協力を象徴したもの。」旧公式HPより

国生み神話に「伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神が天上の「天浮橋(あめのうきはし)」に立って、「天沼矛(あめのぬぼこ)」をもって青海原をかき回し、その矛を引き上げたところ、矛の先から滴り落ちる潮が凝り固まって一つの島となった。これがオノゴロ島で、二神はその島に降りて夫婦の契りを結んで国産みを行った。」  沖合にある勾玉形の島「沼島(ぬましま)」には、天沼矛に見立てた奇岩、おのころ山に鎮座して二神を祭る「おのころ神社」が存在し、それをもってオノゴロ島を沼島とする説が残されているそうです。

撮影日:2010年9月20日

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ご当地マンホール in 兵庫県南あわじ市

2021年05月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・兵庫県

南あわじ市は兵庫県最南端、淡路島の南部に位置する市です。2005年1月11日、三原郡三原町、緑町、西淡町、南淡町が新設合併して誕生しました。洲本市、更に大鳴門橋で徳島県鳴門市に隣接。市域は兵庫県域の約2.7%を占め、南部と西部はそれぞれ紀伊水道、播磨灘に面し、北部の先山山地、南東部の諭鶴羽山地、西の南辺寺山塊に囲まれ、中央部には三原平野が広がっています。また、紀淡海峡には、周囲約10キロメートルの沼島が浮かび、兵庫県下の自治体で唯一太平洋に面した市です。「道の駅・うずしお」展望所から見る「大鳴門橋」。その先に見えるのが鳴門市、こうして目の前に見ると、本当に徳島県は目と鼻の先にあるんだと実感します。「市の木:黒松」「市の花:日本水仙」を制定。

キャッチフレーズは「「食」がはぐくむ ふれあい共生の都市(まち)」

マンホールは南あわじ市の市章と市名に、旧緑町の「町の木:ウバメガシ」「町の花:梅」「町の鳥:鶯」がデザインされています。

2005年1月11日制定の市章は「「淡路島の『A』と、それを取り囲む輪は、「食づくり ひとづくり まちづくり」を意味とするふれあい共生をイメージし、豊かな自然の恵みを生かして希望・躍進に満ちたまち」を表したものである。自然の恵みを緑で、希望・躍進を青で表現している。」公式HPより

南あわじ市子育て応援シンボルキャラクター『ゆめるん』。海に囲まれた淡路島のように、青いおくるみに包まれた赤ちゃんです。黄色い前髪は太陽と鳴門の渦潮をイメージ。“子育てにやさしいまち” をPRしています。

毎年、1月1日から2月下旬まで開園される南あわじ市の「灘黒岩水仙郷」。約500万本の日本水仙と一緒に来園者を出迎えてくれるのは、水仙郷キャラクター『すいせんなんちゃん』。(2010年1月9日、灘黒岩水仙郷にて)

南あわじ市最南端、淡路島側の門崎(とさき)と四国側の孫崎(まごさき)とを結ぶ鳴門海峡は、潮の干満によって生じる 「大うず潮」が有名です。観光の目玉でもある「大うず潮」ですが、航行する船舶にとっては極めて危険なもの。

道の駅「うずしお」に隣接した門崎(とさき)に点灯する白亜四角形の「門崎灯台」。昭和39年3月25日に設置、初点灯されて以降、瀬戸内海と紀伊水道を結ぶ海上交通の重要な道標として今日に至っています。

道の駅:うずしおの入口手前に建立されていた山口誓子の句碑

【渦潮を 両国(ふたくに)の岬(さき) 立ちて見る】

撮影:2010年9月18日

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目指せ!快適車中泊~4(車中泊四度目)

2021年05月29日 08時00分00秒 | 車中泊の色々

目指せ!快適車中泊~4~、今回は9月に実行した二泊三日の淡路島への旅です。

この旅では、小さすぎて使い道の無かったPC用の小さな扇風機を持参してみました。乾電池式なので家庭の扇風機ほどの威力はありませんが、それでも風があるのは意外と嬉しいものです。

三日間、一度も雨に降られる事なくマンホール収集に寺社参拝等々、とても快適な旅となりましたが・・・問題はやはり暑さです。なんと言っても一番の失敗は、この季節の車旅にも関わらず、網戸を持参するのを忘れた事。準備は入念にしていても、忘れては何にもならず、出発前リストの作成を心に誓いました😠

二日目の道の駅では、あまりの暑さに窓を開けてしまったのですが、虫の侵入を許してしまい・・虫の羽音と言うのはどんなに小さな音でも、耳について眠れません。耳栓をして音から逃れても、微妙に顔に触れる感触は、最悪以外の何者でもありませんでした。もちろん、顔に触れると言う事は虫に刺されるという事で、それも最悪な事態です。

次回の旅では、防虫ネット以外の防虫対策も真剣に考えねばなりません。
候補としては「どこでもベープ」「おでかけカトリス」「アース 蚊とりミスト 4角にチュッと 25ml」・・場所をとらずに何処でも使える防虫グッズ、これは夏場に限らず必要なアイテムです。

それと、スーパーやコンビニはどこにでもあると思いこんでいた私達、今回はそれが落とし穴になりました。確かにスーパーはあったのですが、時間的な所為なのか、お弁当類が全部売り切れ。
普通のご飯も売っておらず、ご亭主殿は、唯一売れ残っていたお握りにお刺身での晩御飯。問題は、超がつくほど偏食家の私・・・晩ご飯として食べられるものが何も無いのです!!近くにコンビニもなく、飲食店もない状態(あっても焼肉店などで、私は匂いだけで卒倒しかねません)、仕方なくパンで済ませましたが・・これは真剣に、車中での食糧確保を考えないといけません・・・さて何か良い方法は・・

車泊日:2010年9月18日~20日

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海上自衛隊舞鶴総監部 in 京都府舞鶴市

2021年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

20世紀が幕を開けた1901年(明治34年)10月1日に開庁した「舞鶴鎮守府」。その後いくつかの大きな戦争を経て、今は海上自衛隊基地の要となった舞鶴市。

「海軍記念館」は舞鶴総監部内にある展示施設で一般に公開されており、受付で見学の申し込みをすると見学証を渡されます。ご亭主殿、後ろ姿が心なしか嬉しそう😄

こちらの海軍記念館は、自衛隊員の教育に資することを目的として、昭和39年(1964)に舞鶴地方総監部大講堂(旧海軍機関学校大講堂)の一部を利用して設置されたもの。

展示内容は、旧日本海軍の資料約500点の他、明治34年(1901)に設置された舞鶴鎮守府の初代司令長官『東郷平八郎元帥』に関する資料。撮影禁止のためそうした画像はありませんが、玄関の外から見えた旭日旗と『東郷元帥』の銅像だけは、記念に画像に納めさせて頂きました。

充実した館内展示の見学を終えたら、次は今回の舞鶴車泊旅のメイン「海上自衛隊艦艇 一般公開」。あの憧れの海上自衛隊ミサイル護衛艦(イージス艦)「みょうこう」に乗船するのです😄 申し込み受付をするご亭主殿の横顔がさらに嬉しそう😆

時間が来るまで岸壁内の見学。憧れの自衛隊艦が目の前に聳える様は爽快以外の何者でありません。どれを見てもカッコいい!!😆 ボキャの貧困さをお互いに笑いあいながら、でもやっぱりカッコいい!😆😆!

おお!!「みょうこう」だ。私たちあれに乗らせて頂くんだよね~😆😆

いよいよ乗船。グレーに塗られたタラップの手すりをしっかりと握って、まさしく初めの一歩。見るもの全て、手に触れるもの全てが新鮮で力強く、二人ともまるで子供のように大喜び。

居合わせた隊員の方に質問をすれば、どんなに些細な事も、それはそれは丁寧に答えてくださり、元々、自衛隊の皆様には感謝の気持ちを抱く二人でしたが、今回の経験で更にファンになりました。

乗船している間中、興奮のしっぱなし。どれを見てもこれを見ても、「凄いね~」いわゆるミリタリーオタクではないのだけれど、これはもう全くの別物。

艦上にはためく旭日旗の下で記念写真。もう最高の気分です。ちなみにこの美しい旗を指して戦犯旗なんぞと戯言をぬかす輩がいますが、ふざけるな!!😡 サッカーの試合で負けた腹いせに猿真似をして、日本チームを侮辱した馬鹿が責任逃れにほざいた戯言!それをきっぱりと断罪しなかった日本側!その事だけが今も業腹です!

初めての乗船体験を終え、改めて、自衛隊隊員の方々に心から感謝を伝えたいと思います。この国を守ってくださる貴方方の存在を、どれほど眩しく、頼もしく思っているか・・何度も何度も頭を下げて、そうして風になびく艦上の旭日旗に別れを告げました。

訪問日:2010年7月10日

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引揚記念公園 in 京都府舞鶴市平

2021年05月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

舞鶴と言えば何故か思い出すのが「岸壁の母」の中のこの台詞。「港の名前は舞鶴なのに・・・何故飛んで帰ってきてはくれぬのじゃ?」
昔から年齢詐称を疑われるほど懐メロが好きだった私😅、ある日友人に誘われていったカラオケ喫茶で、岸壁の母を歌ったら、その場にいた見知らぬ高齢のご婦人が、突然声を上げて泣き始めました。おそらくお身内のどなたかに似た境遇の方がいらしたのかもしれません・・・それから何年も立ってこの場所に立ったとき、ふっと、その時の事を思い出しました。

昭和20年8月15日、終戦を迎えた日本は苦難に満ちた復興への第一歩を踏み出します。しかし、その歩みの中に加われない多くの日本人が、中国、ソ連、千島などに残されていました。その数、兵隊350万人、民間人310万人・・およそ660万人余。舞鶴港への引揚は、昭和20年10月、引揚第一船「雲仙丸」により2100人の引揚者が入港。それを皮切りに、昭和22年に旧ソ連からの引き揚げだけで、約20万人が舞鶴の地を踏みました。

しかし、極寒のシベリアで抑留されている人々を残したまま、昭和25年、ソ連からの引揚が中断。引揚事業が再開された後は、舞鶴港だけが国内唯一の引揚港として引揚者を受け入れ。昭和33年、引揚者472人を乗せて帰国した「白山丸」が、最後の引揚船となりました。

終戦から13年、舞鶴港は66万人余人の引揚者と1万6千柱の遺骨を迎えいれたとありましたが、全国の引揚者の人数を足しても、100万以上の人々が祖国の土を踏むことは出来ませんでした。終戦から25年を経た昭和45年、平和への願いを後世に伝えようと、引揚港を見下ろす丘の上に引揚記念公園を整地しカリヨンの鐘を設置。昭和63年には、舞鶴引揚記念館が完成しました。

日ソ中立条約を一方的に破棄し侵攻したソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された方々を待ち続けた何万人もの「岸壁の母」。帰らぬ我が子を待ち続ける母の思いを歌い上げたこの歌は、舞鶴市を引き揚げの街として全国に知らしめたのです。

舞鶴湾奥北東部の平湾に、二羽の鶴をイメージして架けられた、斜張橋「クレインブリッジ」。主塔は鶴のくちばしを、ケーブルは羽をイメージして設計されたそうです。

引き揚げの拠点となった舞鶴平湾・・・波一つ無く穏やかな海面を見ていると、人々の慟哭が風に乗って聞こえてくるような気がします。どうぞ、外地に残されたすべての御霊が、懐かしい日本の地にお帰りになられていますように🙏🙏

訪問日:2010年7月9日

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赤れんが倉庫群 in 京都府舞鶴市北吸

2021年05月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

舞鶴の観光案内やパンフレットに、必ずといって良いほど出てくる景色が、明治33年から大正10年頃にかけて旧海軍が築いた「北吸赤レンガ倉庫群」

魚雷庫、兵器廠予備艦兵器庫など旧海軍関連の施設から、トンネルや橋脚などの生活基盤まで、舞鶴では日本が近代化を進めていく為の礎として、様々な赤レンガ建造物がつくられました。それから100年余りの時が流れ、そうした近代化遺産は舞鶴市の観光拠点として現代に復活したのです。

ここは明治36年に建設された「魚雷庫」。現存する日本最古級の鉄骨煉瓦建造物であり、現在は「赤れんが博物館」として煉瓦の歴史や、世界各国の煉瓦などが展示されています。この建物を初めて訪問したのは、2005年10月の事。美しい赤レンガの倉庫群が見たくて、ご亭主殿と初めての片道100k超えのバイクタンデムでした。

美しい曲線を描く赤レンガのトンネル、イギリス積みやフランス積みの美しさ。以来、すっかり煉瓦建築に魅了され、今日に至っています。

こちらは明治35年に建設された「旧海軍兵器廠予備艦兵器庫」、今は「舞鶴市政記念館」として活用されています。

コの字型に三つの倉庫が並ぶ光景は、舞鶴の観光パンフレットではすっかりおなじみとなりました。記念館に並行して建てられた、左の倉庫は、「旧舞鶴海軍兵器廠弾丸庫並小銃庫」。現在は「赤れんが3号棟・まいづる智恵蔵」として活用。 奥に見えるのは「旧舞鶴海軍軍需部第三水雷庫」で現在は「赤れんがイベントホール」。そして左右対称で右に長く続く倉庫は、「旧舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫」、現在は「赤れんが4号棟・赤れんが工房」として活用、ともに重文の指定を受けています。

まるでそのまま絵葉書になりそうな一場面・・・赤レンガに赤いポストはこれ以上ないほど似合っています。これでツタが絡まればパーフェクト😊

北吸浄水場の配水池に上屋、旧軍港引込線北吸隧道、建部山砲台跡に神崎ホフマン窯。海軍工廠として駆逐艦などを建造していた造船所、いくつもの橋梁、いくつものトンネル・・2005年当時は、倉庫群を見るのが精一杯で、他の建造物は次の機会に譲ったのですが、4年経って再訪してもやっぱり見に行けませんでした。最初の時はバイクだったので、暗くなる前に家路に着かなければならなかったという理由。二度目は、予定した場所の全部で、思いがけないほど時間をとられてしまった為。

それでも柵にしがみつきながら眺めていた自衛隊艦、二度目の舞鶴では乗船が出来ました。多分一生の思い出になったと思います😊

海上自衛隊「海軍記念館」の見学と、護衛艦「妙高」の一般公開、明日のブログで

訪問日:2005年10月28日&2010年7月10日

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ふらり~舞鶴の町歩き in 京都府舞鶴市

2021年05月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

舞鶴市字西の寺町界隈、どこと言う当ても無くのそぞろ歩きで、とても面白いものを発見しました!

細工瓦が大好きな二人、それは何も屋根に乗っかっているものに限ったわけでは有りません。たとえば古民家などでたまに見かける「鍾馗さん」。何と二階の窓の側にずらっと並んでいるではないですか😲

鳩・鍾馗・鳩・鍾馗・鳩と勢ぞろい😲。こちらの鍾馗さん、全く同じ物と思ったのですが、よく見ると左手の拳の位置など、微妙に違っています。

何か問題でも起こしたのでしょうか?神妙に頭を下げる鳩、何となく偉そうに説教でもしているような鳩・・並べた画像がたまたま面白かったので。

大きな寺社などでは鬼瓦が睨みを利かせ、本尊や境内を魔から守ってくれると言いますが、では鬼に睨まれてはじき返された魔は・・・という事で、お寺と向かい合う家では、鬼よりも強い「鍾馗」を屋根に据えて魔を防ぐ・・では、両方に弾き飛ばされた魔はどうなるのか気になるのですが・・。

それはさて置き、もしかしたら他にもあるかなと思って気にして歩いたおかげで、もう一体発見!

鍾馗さん・・・と言うより、おとぎ話に出てくる森の小人さんといった風情😄。確かに鍾馗さんの必須アイテムは揃っているのですが、先の鍾馗さん共々、これは本当に珍しく楽しい発見でした。この一帯は鍾馗さん不毛地帯と聞いていたので、知り合いの鍾馗コレクターさんには朗報だったようです。

折角の寺町散策、素通りもどうかと言う事で参拝させて頂いた「長久山:妙法寺」。総欅造りの本堂は文久二年(1862)の建立だそうです。

続いて「随心山 :浄土寺」。浄土寺は昭和21年(1946)に火災で伽藍を焼失。唯一残されたのが、二層の楼門の上層を鐘楼とした山門。

舞鶴市字南田辺に建つ「田辺城」大手門。「田辺城」は別名を「舞鶴城」とも呼ばれており、大手門は1997年に復興されたものです。

こちらの鬼瓦が何ともユニーク。もしかして角度の所為なのかもしれませんがこの飛び出したおでこ・・・おでこの所為で怖さも半減ですね。

資料館に展示されていた中から一つ。田辺城代々の城主の中では、歴史上一番有名であった『細川幽斎公座像』。彼に関しては一家言がある御亭主殿、まるで見てきたように歴史を紐解いてくれます。

田辺城大手門の近くには「田辺藩校・明倫館」の正門が、市立明倫小学校の正門として今も現役で残されています。

「明倫館正門」の近くに建立された「教練天覧之御跡」の碑。碑文には「昭和8年北陸大演習御統監の天皇陛下は、舞鶴重砲兵大隊教練を天覧された際に、招聘は感激し同隊営庭の中央に設置したが、大東亜戦争の終結により昭和26年戦後復興視察の御巡幸の折、この地に移設し昭和28年に当地に移設の碑を建てた。」

訪問日:2010年7月10日

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三柱神社&笠水(うけみず)神社 in 京都府舞鶴市

2021年05月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

舞鶴市伊佐津に鎮座される「三柱(みはしら)神社」。御祭神は『火産霊神 、奥津比古神、奥津比売神』。境内には三つの社殿が東に面して並び、中央に「三柱神社」向かって左(南)が「粟島様」。右(北)が「稲荷神」と並びます。

「江戸末期の加佐郡旧事記に「三宝荒神 村の西田ノ中森ノ 内ニ有リ」とあり、明治になってから「三柱神社」と改名。粟島社のほこらの中にある天保十一年(一八四〇)の棟札に「粟島」ではなく「淡島明神」と 書かれている。「淡島様」はイザナギ、アザナミ両神の国生みの神話では、一番目に生まれた 「水蛭子」、二番目に生まれた「淡島」。この二つの生命は流産又は死産児の霊で、現在でも 水子地蔵尊が信仰を集めているように、江戸時代には「淡島様」として女性の信仰を集めてい た。」境内案内より

岡崎量産型の後方、社殿前より神域を守護される狛犬さん一対、お小さいながらも独特の風貌をもち、会えて良かったと思わせてくれる存在です。

社殿の左に鎮座されていたことから「粟島社」と思われます。神域を守護されるのは、岡崎量産型狛犬一対。

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舞鶴市公文名に鎮座される「笠水(うけみず)神社」。御祭神は『笠水彦神・笠水姫神』の夫婦神。

「1人の武者修行者が通りかかり笠を置いて一服。そのまま眠って夢を見た…喉が渇き水が飲みたい!地面を杖で叩くとチョロチョロと水の音。武士は笠で水をすくい、心ゆくまで飲んだ。「この地に宮を祀れ。名を笠水と名のれ」と藤の木に彫って旅立った。また丹後風土記には「宇介美都(うけみず)」の訓が振られ、また真清水の湧く所から「真名井」とも記す。」舞鶴の名所旧跡より

社殿の前より神域を守護されるのは、出雲丹下系の狛犬さん一対。小さいながらにもしっかりした顔立ちです。

こちらの建物は社殿から少し離れた場所にあったものですが、中にお社らしきものが鎮座されているように見えます。

さらに木製の神殿狛犬がその両脇より神域を守護されています。もう少し仔細に内部を確認できればよかったのですが、神域故、これが精一杯でした。

社殿の石段に刻まれた石碑には、旧漢字で「十倉村・真倉村」と刻まれています。いずれも江戸期~明治22年に存在した村名で、京街道における田辺領最南端の村の名です。

参拝日:2010年7月10日

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慈恵山:円隆(えんりゅう)寺 in 京都府舞鶴市引土

2021年05月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

愛宕山の山すそにある真言宗御室派寺院「慈恵山:円隆(えんりゅう)寺」。『阿弥陀如来・薬師如来・釈迦如来』の3尊を本尊とします。府有形文化財の「三つ棟造り」総門は宝暦3年(1753年)の建之とされ、脇間の前後には四天王像が安置されています。

『慈恵山記』によれば「長徳年中(995 - 999年)、皇慶の開創という。最盛期には院坊70を数えたが、文治4年(1595年)の山崩れで堂宇を消失。江戸時代に入り、田辺藩の藩主であった牧野家の保護を受けて栄えたが、万治2年(1659年)と享保17年(1732年)に火災に遭い、建物をすべて類焼したが、主な仏像などは信者が運び出し無事だったといわれている。そのため、「丹後大仏」といわる阿弥陀如来坐像など、多数の平安時代、鎌倉時代の仏像が今も残っている。境内に現存する建物はその後の再建である。」Wikipediaより

現在の本堂は 天明6年(1786年)、多宝塔は宝暦元年(1751年)。地元の大工『林田伝之丞房章』らによって建之されました。特に境内に残る多宝塔の亀腹を瓦葺にするなど、独創的な建築として価値が高いといわれています。

ちなみにこの丸みを帯びた屋根の部分を「亀腹」と呼ぶ事は、この時初めて知りました😊

境内にはこれらと同様に京都府指定有形文化財となった宝暦10年(1760)建立の「鐘楼」や 元文2年(1737)建立の「鎮守堂」もあったのですが、画像に残し忘れたようです。

寺社建築と言えばほぼ例外なく見つけられる細工瓦。それが古い建物であればその形もまた格別な趣があります。これらは総門・多宝塔などで見かけた細工瓦です。海亀と龍が圧倒的に多いのは、いずれも水を呼ぶ・・火災よけの呪いがあるのでしょう。

ちょっと変わったところでは「三面鬼瓦」を発見。これは他所でも多分目にしたことはないと思います。

「波乗り兎の線彫り」、もう少しくっきりと画像に残せればよかったのですが・・・

最後は恒例の飛び獅子の細工瓦ですが、顎の下の線彫りの球体は何を表しているのでしょう?。いずれにしても「円隆寺」の細工瓦。多宝塔の亀腹とあわせて、瓦好きには必見です。

参拝日:2010年7月10日

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朝代(あさしろ)神社 in 京都府舞鶴市朝代

2021年05月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

舞鶴市朝代に鎮座される「朝代(あさしろ)神社」。御祭神は『朝代大神(伊弉諾尊)』

「御祭神は日本民族の祖先神であり初めての夫婦神として結婚の道を開かれて人間生活に不可欠なあらゆる物をお産みになりました。また禊ぎ祓えにより罪穢を祓い清新と発展の方向を示された貴い神様であります。 当神社の御創建は約千三百年前の天武天皇白鳳元年九月、淡路国日ノ少宮をお遷したのに始まります。 近世に入り、城下町田辺(舞鶴)の氏神様として歴代藩主の崇敬篤く、神輿・鳥居などの奉納が続き、士民を挙げての秋の祭礼は大いに賑わいました。また、昭和三年には府社に昇格、「朝の参りは朝代さまよ」や「日毎夜毎の朝代参り」などと民謡にも唄われ、広く崇敬されております。 江戸期の大火に類焼し、元文四年に再建の御本殿(付・再建文書)が平成五年に舞鶴市の文化財に指定されております。」境内社記より

神社入口に立つ一の台輪鳥居、その両脇より神域を守護されるのは明治34年(1901)10月再建の出雲丹後系狛犬さん一対。大きく開けた筈の阿形さんの顎は剥落してしまい、その豪快さを見ることは出来ません。出雲丹後系の狛犬さん、特に阿形の場合、このように下顎から先が剥落しやすいようです。

神社入口の石段より神域を守護されるのは、明治23年(1890)11月吉日建立のの狛犬さん一対。吽形さんは美しい角を持ち、これまでのタイプとは全く異なった独特の風貌は岡山の備中辺りでお目にかかります。個人的には大好きな顔立ちをされています

朱塗りの両部鳥居を潜り左に進むと、平坦地と石段が連続したそれなりに距離のある参道が続きます。

境内入り口より神域を守護されているのは、文政9年(1826)丙戌11月吉日建立の舞鶴市最古の出雲系構えの狛犬さん一対。長い年月を過した体はすっかりと丸みを帯び、そしてやはり阿形さんの下顎から先は剥落しています。

拝殿前より神域を守護されるのは、明治31年(1898)6月19日建立の出雲丹後系の狛犬さん一対。

弊殿脇より神域を守護されるのは「はじめ」に近い風貌の狛犬さん一対。場所的に角度が選べない為、その表情はあやふや。

元文9年(1739年)に再建された本殿の縁に座り、さらに深くご祭神を守護されるのは、木製の神殿狛犬一対。何となくちぐはぐさを感じさせる顔立ちは、もしかしたら全く別の一対からチョイスしたのかもしれません。

境内には「天満宮、大国神社、梅宮神社、松尾神社、祇園神社、疫神社、稲荷神社、須賀神社、多賀神社、工匠神社、奥姫稲荷神社、塩釜神社、恵比須神社」の境内社が鎮座されています。その全部を残せなかったのがちょっと悔やまれます。

撮影日:2010年7月10日

 

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