車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

高山:ふらりそぞろ歩き~其の三 in 岐阜県高山市

2020年03月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

3日目となった高山の町歩きもいよいよラスト。今更ですが、伝統的な町並には、国や自治体の文化財に指定された建物が多くあります。江戸時代を髣髴させる町中で一際異彩を放っているのが、昭和11年(1936)に建てられた「飛騨高山 天狗総本店(国登録有形文化財)」。妻飾りに描かれた天狗の鏝絵は、特にご亭主殿の目を引いたようです。

特別に国や自治体の指定が無くても、思わず振り返ってしまう建造物は沢山あります。一見何の変哲も無いように見えるこのお店、私にはとてもお洒落に感じました。

上のお店とはまったく別の場所ですが、蔵を利用した素敵なディスプレイの店舗も何軒か拝見させていただきました。自主規制して商品の掲載はしていませんが、並んで写真に納まりたくなるようなお店に出会うと、無条件で嬉しくなります。

町歩きの途中に見かけたこんな歯医者さんなら、絶対に無駄に抜いたり削ったりなんてしないだろうな・・。最近、近代的かつ大人数のスタッフが売りの歯医者で、抜かなくても良かった歯を抜かれ、もの凄く嫌な思いをした私、一度抜いてしまった歯は元に戻せないんだぞ!!😭

本町2丁目のCCボックスに、とてもユニークなモニュメントを見つけました。彼の名は馬頭組の火消し「勇みの丁次」。本町2丁目のシンボルキャラクターなんだそうです。モニュメントにしてしまうと色々制限があって「アレ」ですが😅、イラストではかなりの美形。

モニュメントの下の柵に「馬頭」と題された二種の、馬の絵がありました。調べたところ、町内にある「山桜神社」は、主君を火事の危機から救った「名馬:山桜」の厩舎跡に創建された神社で、鎮火などの守護神として崇められています。「山桜」の死後は馬頭様として崇められ、松倉山馬頭観世音の縁日には「馬頭の紙絵馬」を奉納。その年ごとに祈願をした後、家の玄関を入ったところの壁に貼るという風習ができました。この「馬頭様紙絵馬」、絵柄は様々でしたが、私達がお邪魔したどのお店にも貼られていて、とても興味深く拝見させていただきました。火消しの馬頭組は、ここからつけられたんですね。

気になる建物、気になる置物・・・・書き上げれば際限ないのは、それだけ高山の町歩きが素敵だったと言う証かもしれません。保存されたフォルダの画像を見ながら、今年こそは絶対に再訪を果たしたいと、しつこく心に誓うのです。そしていつも、ガッカリ溜息をつく羽目になるのです😣

心に誓うと言えば・・・楽しみにしていた「宮川の朝市」ですが、前日の日程が思ったよりもはかどったからという理由で、ご亭主殿ときたら、急遽、高山迄足を延ばし・・結局、朝市のアの字も味わえず・・・・風に羽をあそばせる鷺の姿が妙に心に残りました。その後この件は事あるごとに蒸し返されて、ご亭主殿を「いぢめる」材料になりました😄

訪問日:2012年5月17日

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高山:ふらりそぞろ歩き~其の二 in 岐阜県高山市

2020年03月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

見て面白いと思うものは人それぞれですが、我が家のご亭主殿、感性が似ているのか、それとも長い年月の間に私のツボに慣らされてしまったのか、街歩きの折々に、唐突に面白い発見をして楽しませてくれます😊

鍛冶橋の上にある手長足長の銅像、手長足長は出雲神話で簸川(ひのきかわ)の川上に住んだ足名椎(あしなづち)とその妻手名椎(てなづち)をモデルにしたとされています。なぜ「八岐大蛇」神話のヒロインである櫛名田比売(くしなだひめ)の両親の名がここに出てくるのか・・・しかもこんな「変わり果てた姿」で(大爆笑😆)

観光客が多く訪れる場所には、その土地ならではのお土産ショップが並び、見て歩くだけでも楽しいのですが、油断すると直ぐにお財布が緩むのが難点 😓 こちらはうさぎの雑貨:高山うさぎ舎の「うぼぼ」。キャラクターはこのお店だけのオリジナルで、「サルぼぼ」ならぬ「うぼぼ」・・・・まぁ、可愛いから何でもOK😆

「兎ぼぼ」があるなら「牛ぼぼ」だって有りですよね?、何といっても飛騨は「飛騨牛発祥の地」なのですから😊

布キャップ専門店の店先、入り口で頑張るマネキンさんのインパクトががあまりにも強くて、ご亭主殿、すっかりメロメロ 😍

こちらもご亭主殿の心を鷲づかみにしたマネキンの「獅子」。売り物よりもインパクトが強いってどうなの?・・・と言うか、何のお店だったっけ??

町歩きの途中で見かけた、祭礼の様子を描いたと思われる絵。もしかして上の獅子は、この獅子舞がモデルなのかな?

祭礼と言えば、町中で見かけた「屋台蔵」。高山祭りの屋台はこの中で解体されること無く保存されています。説明に掲載された美しい屋台を見ていると、人の多さが嫌いで祭りを敬遠してしまうご亭主殿も、心が動くようです。(屋台蔵と説明は別々)

豪華絢爛な屋台を彩る彫刻の数々、さて、この獅子の飾りは何処で見たものだったのか・・流石に8年も前の事なので記憶が・・・😓

観光地と言えばお約束の「顔出しパネル」、もちろん商店街のあちこちでミーハーな観光客(私たち)の足を引き止めてくれます。

高山の町歩き、フォルダを見返しながら「何と言ってもダントツはこれだよね」と、珍しく意見が一致した「とある理髪店」。ウインドウ越しの中の様子に釘付けの私たちを「どうぞ、中に入って見ていって」と、声をかけてくださったご主人に誘われて・・・いや~~~!!外で見るよりも更にパワーアップの店内に、テンションがあがりました😲

そもそも足を止めたきっかけは、壁から飛び出す龍の鏝絵。何とご主人の手作りだそうで、他にも紹介しきれないほど沢山の画像があるのですが、見るもの聞くもの、ただただ驚き。

美女の等身大看板収集が趣味との事で、実は彼女たちの為の住まいも別にあるとか。それに関してのテレビ取材も受けたそうで、当時の録画映像や、趣味と本職を兼ねた養蜂の話しなど、ついつい長居をしてしまいました。あれから八年ですが、今も沢山の美女に囲まれ、更にパワーアップされている事でしょう。その節は本当に楽しい時間を有難うございました。(顔出しOKの許可は頂きました)

しつこくもまだまだ続く「高山町歩き」続きは高山:ふらりそぞろ歩き~其の三で。

訪問日:2012年5月17日

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高山:ふらりそぞろ歩き~其の一 in 岐阜県高山市

2020年03月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昨日に続いての町歩きは上三之町。この通りの初夏の風物詩は、「久田屋」さんの藤の花。と言っても前もって知って訪ねた訳ではなく、全くの偶然。この美しい情景にはしばし言葉をなくしました。

2012年の訪問ですから、もう8年も前の話になるのですが、今でも高山の町歩きで一番心に残ったお店はと聞かれたら、間違いなく「藤の花暖簾のお店」と答えます。

店名は多分・・覚えていません😅 季節の花が一番綺麗な時期に訪れる事ができたというのは、まさに幸運でした。

昨日のブログの最後に登場した「秋葉様」。実際に高山の町歩きをしていると本当に沢山の「秋葉様」に出会います。数寄屋風の構えが美しい「洲岬屋」さんの前、見事な枝振りの松に守られるように鎮座される「秋葉さま」、1枚の絵の中にすっぽりと納まったような人力車は、客待ち?それとも休憩中?

石灯籠のような「秋葉様」は寛保3年(1743)の創建。

「高山市政記念館」前の「秋葉様」は延享3年(1746))の創建。アップで無いのが残念。

朝市通りの端にあった「秋葉様」、その気になって探せばもっと沢山見つけられたのでしょうが、限られた時間であれもこれもの旅、これ位が限界でしょう。

宮川沿いのどのあたりだったか?「飛騨の山の水」。もう一つは中橋の袂にあった「飲料水」。どちらも柔らかくてまろやかで美味しく頂きました。

水といえば、このからくり人形は、水の力で動いているそうですが、幾ら待っていても一向に動く気配が有りません。柵には動かなくても無理に動かさないようにと貼紙😓 動いているところ見たかったけど・・残念!

銅像とか碑には妙なアンテナが働いてどうにも素通りできない私。高山陣屋前の中橋公園で、「飛騨の匠 韓志和(からしわ)木鶴大明神」と書かれた不思議な像を見つけました。

説明では「飛騨の匠の一人と伝えられる彫刻の名手で、平安時代初期に自作の木鶴に乗り込み中国に乗り込み、時の皇帝に入神の妙技を見せたと言われる伝説上の人物」とあり、その手にはノミと槌が握られています。

高山陣屋近くには「青雲 若き日の山岡鉄舟」と刻まれた銅像もあります。飛騨郡代であった父や母と共に飛騨に赴き、10歳から17歳までの間を高山で暮らしていたそうで、この像はその縁に寄るものと思われます。

「いわきの早蕨(さわらび)」で有名な和菓子処「いわき」。看板が乗った屋根の上で下界を見下ろすのは、瓦製の大黒様、船の上から身を乗り出す大黒様、物思いにふける目で遠くを見る大黒様。夢中になって「いわきの早蕨」を買うの忘れました😥。

大黒様」と言えば、鍛冶橋の袂で小槌を振る大黒様、後ろには【 夏の日や   鍛冶屋の歴史 橋の名に 】

町歩きで見つけた「あんなもの&こんなもの」続きはまた明日。

訪問日:2012年5月17日

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飛騨の小京都 in 岐阜県高山市

2020年03月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昔懐かしい町並みが今も数多く残る高山市。城下町の中心にあり、商人町として発達した上町、下町の三筋の町並みは「三町伝統的建造物群保存地区」の呼び名で、国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

市のHPによれば、「高山市上一之町・上二之町・上三之町・片原町・神明町4丁目の各一部と、下二之町大新町、高山市下一之町・下二之町・下三之町・八幡町・大新町1丁目・大新町2丁目・大新町3丁目・大新町4丁目の各一部」と記載があり、住居表示だけを見てもかなりの広範囲にわたります。

私達が丸一日をかけて費やした町歩きが、何処のどの通りだったのか、今となっては全く不明ですが、それでも僅かにこの辺りは「大新町一丁目」だったはず、でも間違いないかといわれれば・・・明快に「ハイ!」と言えません😓

宮川沿いの道を行きつ戻りつ、気になる角を折れて曲がって、行き着いた先々の景色に感動した高山の町並は、まさに飛騨の小京都と呼ばれるに相応しい。ちなみに私の個人的な感想でいうなら、観光地化してしまった京都の表の町並には、こんなにしっとりとした風情はありません。

町歩きの先々で紹介される特別な建物、私も真似て幾つか紹介してみます。まずは明治12年(1879)築の「日下部家住宅」。江戸時代の建築技術が集大成された美しい佇まいは、全国でも第一級の町屋として国指定重要文化財に指定されています。

「日下部家住宅」に隣接するのは、明治40年(1907)に建てられた「吉島家住宅」。江戸後期頃から生糸繭の売買などで栄えた家柄で、洗練された町家の佇まいは景観の重要な位置を占めており、同じく国指定文化財の指定。

屋根に取り付けられた卯建(うだつ)の見事な事、ちなみに卯建とは、小屋根のついた防火壁の事を言いますが、実は一口に卯建といっても、多種多様な形式があり、それだけで十分に観光の表役者になれる存在なのです。

ふらふらと、特に決められたコースで無い路地を歩くのは、迷子になりかねない危険も有るけど😅、単純に面白く、時間があっという間に過ぎてゆく感じ。

日本家屋の板塀越しに見えるお宅が、洋風の建物だったり、でもそれが妙にしっくり馴染んで見えるのも、この町ならではの魅力かもしれません。

一際立派な建物は、三町伝統的建造物群保存地区の南端・神明町4丁目に建つ「高山市政記念館」。明治28年から昭和43年まで町役場・市役所として利用され、その後昭和61年まで公民館として使用されていました。

和洋折衷の2階建て総檜造りの建物には、高山で最初に導入された「硝子障子(ガラス窓)」が嵌め込まれ、当時の町の勢いを物語っています。建物・その他は『旧高山町役場 附棟札及び新築関係書類』として、高山市文化財の指定を受けています。

「藤井美術民芸館」には、高山市の医師『藤井糺一(ただいち)』が大正中期から約70年にわたり収集した、安土桃山時代からの古美術品等、約2,500点が収蔵・公開されています。今回は興味の度合いと時間の関係で素通り😓

八軒町に残る国指定史跡「高山陣屋」は、高山城主:金森氏の下屋敷の一つ。金森氏が上ノ山(山形県)へ移されて後は、幕府直轄地の役所となり、代官や郡代などによる政治が執り行われてきました。

明治に入ってからは、県庁、郡役所、支庁、県事務所など、代々地方の役所として使われてきました。このような郡代役所の建物が残っているのは全国でも高山市だけだそうです。

町の主要な通りに出ると、修学旅行らしき一団が、眩しいほどの若さを振りまいて近づいて来ました。派手で五月蝿いだけの団体観光客は苦手ですが、何故か制服姿の集団は、古い町並みにとても良く似合っています。何かの拍子に聞こえるお国言葉に、かってそんな姿で見知らぬ観光地を歩いた自分の制服姿が重なり、泣きたいような甘酸っぱさを思い出させてくれるのです。

町の辻のささやかなお社は、櫻山八幡神社社号標の右手に鎮座されていた「鳳凰台組秋葉社」。長い説明ですが【秋の高山祭 (十月九日 土日)には、祭りの華ともいうべき屋台が十一台出ます。この一台、一台の屋台を維持管理するのが屋台組みと呼ばれる町内組織です。屋台組みには組内の火防鎮護と町内安全を願って、古くから秋葉神 を祀る風習があります。この秋葉神は鳳凰台組内の火伏せの神として遠州秋葉山本宮 よりご分霊を勧請して深く尊崇され、篤い信仰を集めてきました。祭神は、迦具土神(かぐつちのかみ)又の名を火産霊神(ほむすびのかみ)とお呼びします】

火防鎮護の神として人々に敬われてきた「秋葉様」。実はこのような社は、大小の違いはあるものの、この高山の町歩きのいたるところで目にする事ができます。日本三大美祭の一つにも数えられている「秋の高山祭り」を支える屋台組組織。その方々によって大切に受け継がれてきた火伏せの秋葉信仰・・何処かの番組の台詞ではないですが「日本って良いなぁ~」😄

訪問日:2012年5月17日

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櫻山(さくらやま)八幡宮 in 岐阜県高山市

2020年03月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

高山市桜町に鎮座される「櫻山(さくらやま)八幡宮」。御祭神は『応神天皇』、相殿に『熱田大神・香椎(かしい)大神』を祀ります。例祭:八幡祭は「秋の高山祭」として全国に知られており、11台の屋台が町を巡る曳き廻しや、布袋台のからくり奉納など、伝統的な祭行事が楽しめます。

【仁徳天皇の御代(377年頃)、飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という凶族が天皇に背いて猛威を振るい人民を脅かしていた。征討将軍の勅命を受けた難波根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)は、官軍を率いて飛騨に入った(日本書紀)。武振熊命が、当時の先帝応神天皇の御尊霊を奉祀し、戦勝祈願をこの桜山の神域で行ったのが創祀と伝えられる。大永年間(室町時代、16世紀)京都の石清水八幡宮より勘請したが、戦乱により荒廃。元和9年(1623)高山領主金森重頼は、江名子川から発見された御神像を八幡神と奉安し、社殿を再興し神領地を寄進した。明治8年高山の大火により、末社秋葉神社を除きほとんど消失したが、同年33年までに境内復興が完了する。】櫻山八幡宮公式HPより

往古、神域には数百本の桜樹が花を競ったと伝えられる「櫻山八幡宮」。御神紋もそれに相応しい桜紋ですが・・・これは多分「丸に八重大和桜」。

石造の二の鳥居は享保15年(1730)、青銅製の社号額と共に飛騨代官『長谷川忠崇』によって奉納。

「逆さ桐の灯籠」、石灯篭の火袋の下に掘られた桐の紋が、一ヶ所だけ逆向きに掘られています。意図的に不完全なところを一ヶ所作っておくことで、まだ完成していないので壊れないと言う呪いを表すのだとか。石に彫られた紋なので鮮明ではありませんが、右下が正しい向きの桐紋。

神門に続く大石段は、長さ330センチの19段がすべて一枚岩で造られています。その先、神門の左右より神域を守護されるのは、まだ新しい狛犬さん。

 拝殿の向かって左隣、右から末社「照前神社:天満神社・稲荷神社・琴平神社」。画像の都合上、紹介の順番はバラバラ。

画像左は「末社:照前神社」御祭神は『浪速根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)』。両面宿儺討伐の戦勝祈願に應神天皇の御尊霊を奉祀され、当宮を創祀された神とされます。

画像右は「琴平神社」 御祭神は『大物主神・崇徳天皇』。社殿の天井には天狗の絵があり、それにロで噛んだ紙を投げつけて天井につけば、病気が全快すると言い伝えられています。

「末社:稲荷神社」、御祭神は『倉稲魂命』。江戸時代の始め、衣食住の太祖「万民宝栄の神」として深い信仰を受け、ご神威の高い伏見稲荷神社のご分霊を勧進して奉祀。

社殿前から神域を守護される「稲荷のお狐様」、さほど古いものではないと思われます。

「末社:天満神社」、御祭神は『菅原道真公』。宝暦四年(1754)に京都の北野天満宮より勧請。天神様には必須の「筆塚」。

「大原代官寄進の灯籠」。側の説明を要約すると「大原紹正は天領飛騨第十二代目の代官で、明和三年(1766)に着任して飛騨一円の統治にあたった。崇神の念強く、安永七年(1778)に灯籠一対を奉納。安永二年(1773)、幕府の苛酷な検地命令に反対して起こった一揆を鎮圧、再検地の強行で飛騨国を増石した功により郡代に昇格した。」と・・・農民にとっては鬼の代官ですが、そういう時代だったのです。

手水舎の「大手水石(おおてみずいし)」は、明治十年(1877)十月 上宝村の石工:『朝岩平吉』が一個の石を刻んだもので、「寒澄清徹」の銘があります。

昭和63年に現在地に移転された絵馬堂。周囲の壁には崇敬者より奉納された沢山の絵馬が架けられています。いずれも奉納絵馬の名に相応しく古今様々な「神馬」が描かれています。

絵馬に描かれた「神馬」も素敵ですが、社紋の腹掛けをつけた「神馬」も凛々しくて美しいですね。

絵馬殿の後方に「秋葉神社」への石段があり、その両脇に護国タイプの狛犬さんが神域を守護されています。他にも狛犬の奉納はあったのですが、ご亭主殿は見向きもしませんでした。狛犬さん達・・すみません😔

境内から見えていた建物は、高山祭の実物屋台を常設展示する「高山祭屋台会館」。江戸時代後期、大輪の牡丹のように花開いた高山祭の屋台は、国指定重要有形文化財に指定されています。

参拝日:2012年5月17日

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飛騨民俗村・飛騨の里 in 岐阜県高山市

2020年03月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

今日のブログは、まだ私たちが車中泊に目覚める前の話。主にバイクタンデムの後部座席を主たる移動手段としていた頃の事です。バイクタンデムで出かけられる場所はどうしても限定され、行く先も近場の同じような場所。そんなある日、車移動で高速を使えば、行きたいと言っていた飛騨だって日帰り出来ると提案されました。

初めて走る東海北陸自動車道からの景色、初めて立ち寄るSA・PA。中国道・山陽道しか知らなかった私にとって、窓から見える景色はそれだけで別世界でした。

36個のトンネル(数えた)に驚嘆しつつ、3時間半かけてたどり着いた目的地は、高山市上岡本町にある「飛騨民俗村・飛騨の里」、正式名称は「飛騨民俗村」。この景色を見ただけで、もうすでに感動・感激モード😭

「飛騨の里に移築された茅葺き屋根の民家は6軒。合掌造り家屋と入母屋造り家屋に分けられます。茅葺き民家は飛騨地方でも豪雪地域にあたる北部、旧大野郡白川村・荘川村、旧吉城郡神岡町・宮川村・河合村などに多く見られました。なかでも白川・荘川の茅葺き民家は屋根が合掌した手の形に似ていることから「合掌造り」と呼ばれています。飛騨の里では、旧若山家・旧西岡家の「切妻合掌造り」の建物と旧吉真家に代表される「入母屋造り」の建物を公開しています。厳しい自然と向き合った飛騨のくらしが 合掌造りを生み出しました。」公式HPより

眼前に広がる「五阿弥池」は、昭和初期に新宮地区の水田用の貯水池として造成されたもの。緑の山々を背景にした池の面は、写しこんだ山の緑よりも深い碧に染まっています。池の畔にあるのは、旧高根村大字中洞から移築した水車を利用した粉ひき用の「わらび粉小屋」。当時は、わらび粉の採集、製造時には山中にあるこの小屋に住み込んで作業をしたそうです。後方に見える合掌造りの建物は、白川村大字長瀬より移築された「ハサ小屋」。収穫物の乾燥と作業に使われていました。

切妻造、板葺石置屋根の建物は、岐阜県指定重要文化財「旧新井家」。旧清見村池本の小鳥川沿いに建っていた農家で、江戸時代後期の建造とされています。1階軒下から突出した腕木の先の白い胡粉は高山の町人の中でも「旦那衆」と呼ばれる裕福な家のみに、塗る事を許されたものでした。

画像の左手、切妻造、板葺石置屋根の「旧田中家(国指定重要文化財)」。江戸時代の国学者『田中大秀』は、高山一之町で薬種商を営む「田中屋」の三男として生まれました。財産家だった田中家は商売のかたわら冬頭村(現高山市冬頭町)に田畑を所有し、小作人に貸し与えていました。この建物はそれらを管理する「田舎(でんしゃ)」として用いられていました。

「旧田中家」の手前右にあるのは、高山市一之宮町山下より移築された「旧中藪家(県指定重要文化財)」。軒高が低く、勾配がゆるい板葺石置屋根。 旧中藪家では、囲炉裏のあるオエから作業場のニワまで、床板を張らず、土間のままで生活していました。こうした床形式は「土座形式」といい、江戸時代中期以前に遡るといわれ、飛騨地方の民家の中でも非常に古い形態といえます。この日は、数少ない「クレヘギ」職人である『山口末造氏』による、クレヘギ作りの実演を見せて頂くことができました。( クレヘギは屋根に葺く板葺材)

山の水を引いた洗い場。ここで野菜や食器などを洗っていたのでしょうが、冬場はさぞかし寒くて冷たかったでしょうね。それでも川で直接・・に比べれば格段の設備であったと思われます。

昭和33年(1958)、御母衣ダムの建設によって水没する事になった「旧若山家(重要文化財)」。昭和34年に大野郡白川郷下滝村から高山市に移築され「飛騨民俗館」として一般公開。飛騨の古い民家・農山用具などの保存の足がかりとなりました。

建物の2階は主に「おカイコさん」の飼育場として活用されていたそうで、その広さに驚かされましたが、何よりも、緻密に作り上げられた合掌造りの構造をじっくり見せて頂けたことに感動😍。

飛騨民俗村の建物の中では「旧若山家」の人気が一番高く、内部の見学を終えても人の姿が途切れることはありません。たくさんの観光客がひっきりなしに訪れ、記念の一枚のシャッター係を仰せつかります😅 で、お礼にとシャッターを押してくれます😄

でも流石に裏手に回って来る人はいませんね。良い景色なのに・・

1996年から約3ヶ年かけて飛騨の里に再移築された「旧若山家」。移築に際して当時の風景を忠実に再現するため、家のまわりには石垣、川、段々畑、裏の池などがつくられたそうです。

旧若山家の西側に建つのは、旧河合村大字保から移築した「立保(たてほ)神社拝殿と舞台」。立保神社は鈿女・白山・国作大神社の三社を合祀した神社で、三社の拝殿を集めて建てられました。上を拝殿、下に舞台、もうひとつを神饌殿として使用。飛騨の里に移築した際にこれを楽屋にして、花道でつなぎました。「神様に奉納する神事」は、雪深い地で暮らす人たちにとって、実はとても大切な娯楽の一つでもあったのです。

飛騨北部の豪雪地帯にあった茅葺き入母屋造りの「旧八月一日(ほづみ)家(市指定重要文化財)」。旧大野郡荘川村にあった西願寺の庫裡として建築。室内では飛騨地方で用いられた「ソリ」が多数展示されています。飛騨地方においてソリは、積雪の多い冬期間の最も重要な運搬手段であり、用途に応じて様々な種類のソリが考案され、用いられていました。

屋根部分の破風の中には、「鼻小屋」と呼ばれる小さな屋根付きの出窓が設けられており、屋根裏の採光に使われていました。

旧八月一日家の横に立つ「鐘堂(大正6年建築)」は、揣岸寺(臨済宗妙心寺派・都竹清隆住職)より寄付されたものです。

「旧冨田家(県指定重要文化財)」は飛騨市神岡町杉山、飛騨地方と富山を結ぶ越中東街道沿いにあり、「茂住(もずみ)鉱山」の仕送人として荷物や牛馬の中継を営んでいました。家の構造はチョウナ造りと呼ばれ、中央部分の居住空間を高く抜いて右側に中二階を設けた、茅葺き入母屋造りの飛騨地方北部の建築様式を色濃く伝えたものです。

暖かな日差しが差し込む縁側近くの部屋では、地元の方による「飛騨さしこ」の実演が行われており、小物の販売もされています。

ある種のテーマパークでありながら、ここには確かな人の息遣いが残されています。使い込まれ、鋼鉄のように固くしまったた土間の土の色、わずかに残る柱の小さな傷・・そこには確かに「家族」の暮らしがあったのです。

実りの田の向こうに見えるのは「匠神社」の石鳥居。本殿は旧河合村保にあった「鈿女(うずめ)神社」を移築したもの。覆殿は旧宮川村加賀沢の「白山神社拝殿」、丹生川町からおいでになった「狛犬さん」・・・いずれも飛騨の里のために各地から集められて作られた神社だそうです。

コットン・・コットン・・・水の流れに促されて水車がゆっくりと回っています。静かな山間の村にこれほどふさわしいバックミュージックが他にあるでしょうか。

丘の上に祀られていた小さなお社も・・・・きっと何処からか移されてきたのでしょう。神は人の敬いによって神になると言われます。このお社に鎮座される神が永遠に神であられますように・・

最後の茅葺民家は白川村加須良より移築された「旧西岡家(県指定重要文化財)」。この時は茅葺屋根の補修もしくは修繕がなされており、内部の見学はできませんでしたが、別の意味で興味深い経験が出来ました。旧西岡家があった加須良地区は白川村最北の集落、峠を一つ越えれば富山県五箇山の上平村に至ります。

白川村・・五箇山・・・この時思ったのです。絶対にいつかそこに立って、人の暮らしの中にある合掌集落を見たいと。・・・この願いは飛騨民俗村訪問から7年後。5月の白川村、10月の五箇山訪問で叶えられました。

訪問日:2005年9月24日

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ご当地マンホールとマンホールカードA&B in 岐阜県高山市

2020年03月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

高山市(たかやまし)は岐阜県の北部、飛騨地方に位置する市です。2005年2月1日に周辺9町村を編入合併。これにより、市町村面積は全国で最も広い自治体となりました。飛騨市、郡上市、下呂市、大野郡白川村に。さらに東で長野県大町市、松本市、木曽郡木曽町、富山県富山市、西で石川県白山市、福井県大野市と四つの県に隣接。市の東側には飛騨山脈、西側には両白山地がそびえ、中心市街地は険しい山に囲まれた高山盆地にあり、国際会議観光都市に指定。市の中心市街地には国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定された江戸時代以来の城下町・商家町が続き、その景観は「飛騨の小京都」とも呼ばれます。「市の木:イチイ」「市の花:こばの三つ葉つつじ」を制定。

キャッチフレーズは「やさしさと活力にあふれるまち「飛騨高山」」

明治22年(1889)、町村制の施行により、大野郡高山町・灘村・大名田村・上枝村が発足。

1892年、大名田村が、大名田村、灘村、大八賀村に分離。

1923年、大名田村が町制を施行。大名田町となる。

1926年、大野郡高山町が、灘村を編入。

1936年、大野郡高山町と大名田町が合併、市制を施行し高山市が発足。

1943年、高山市が大野郡上枝村を編入。

1955年、高山市が大野郡大八賀村を編入。

2005年、大野郡丹生川村・清見村・荘川村・宮村・久々野町・朝日村・高根村、吉城郡国府町・上宝村を編入、現在に至っています。

マンホールには市の花である「こばのみつばつつじ」がデザインされています。

明治39年2月11日制定の市章は「山の都を象徴する「岳」の形象体文字を図案化したものです。翌明治39年2月11日に町章として制定。昭和11年11月1日の市制施行後も、引き続き市章として制定したものです。」公式HPより

古い町並みのお店で見つけた量水器、市章は無く「高山市」の自治体名があります。

撮影日:2012年5月17日

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マンホールカード、頂きました。

2018年8月11日、第8弾として全国76自治体で76種類(累計364自治体418種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「高山市A」のマンホールカードは、「高山市役所」でいただけます。

2018年に設置開始されたマンホールには「こばのみつばつつじ」がデザインされています。

「高山市は東京都に匹敵する日本一広大な面積で、9種類の個性を持ったデザイン蓋があり、これはその中で一番多く使われているデザイン蓋です。 このデザインは高山市の花として親しまれている「こばのみちばつつじ」を図案化したもので、色無し蓋は1986年から使用されています。 ユネスコ無形文化遺産に登録された「高山祭の屋台行事」の一つ、毎年4月14日・15日に行われる「春の高山祭(山王祭)」の頃、市内のいたる所で見ることができ、つつじの仲間で一番早く花を咲かせ、飛騨地方に春の訪れを告げることから「いちばんつつじ」とも呼ばれています。」

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マンホールカード、頂きました。旧吉城郡上宝村は未訪問のため、ご当地マンホールの記事はありません。

2019年12月14日、第11弾として全国63自治体で66種類(累計502自治体605種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「高山市B」のマンホールカードは、「新穂高センター」でいただけます。

2018年に設置開始されたマンホールには「おこじょ」と「奥飛騨温泉郷」の文字がデザインされています。

「中部山岳国立公園に指定されている標高3,000m級の山々が連なる飛騨山脈(北アルプス)の山並みをバックに、そこに生息する「おこじょ」のキャラクターが描かれたマンホール蓋です。 高山市は東京都に匹敵する日本一広大な面積を有する市で、9種類の個性を持ったデザイン蓋がありますが、このマンホール蓋は上宝・奥飛騨温泉郷地域で使われています。 飛騨山脈の麓には、湯量豊富で露天風呂数日本一とも言われる奥飛騨温泉郷があり、新穂高ロープウェイや乗鞍スカイライン、上高地など日本屈指の山岳景勝地にも近く、四季折々の自然が堪能でき、多くの観光地で賑わっています。」

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下呂市小坂地区~道草ウォッチ in 岐阜県下呂市小坂

2020年03月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

小坂町のマンホールは、中部の駅百選の第1回選定駅(25駅)に選出された「飛驒小坂駅」の周辺にも設置されています。素晴らしいと評判の建物は、出来ることなら見ておきたいという私の要望に応え、マンホール撮影も兼ねて、夕暮れ間近の「飛驒小坂駅」に立ち寄ってもらいました。

小坂温泉郷と御嶽山登山口の玄関駅である駅舎は、開業当初からの丸太造り山小屋風で独特の風情があります。御嶽山飛騨側の登山口であることから、正面には神社の神殿にあるような千木が設けられているのも、流石は・・と思わせられました。

人の気配が途絶えた駅のホームは、何故か無性に人恋しくて思わずご亭主殿の姿を探してしまいます。差し出した手を握り返してくれるその温もりが、年甲斐も無くふわっと心に染みて、そのまま向こうに見える山をただ・・見つめていました。

御岳山麓に広がる大自然には、ニホンカモシカやニホンツキノワグマ、ニホンザルなど多くの生き物が生息しており、特に「どんびき平」と呼ばれる湿原の周辺では、ニホンカモシカの姿が頻繁に見られるそうです。

日本の固有種で、天然記念物にも指定されているという「ニホンカモシカ」。見たいとは思いますが御岳山に行くことは絶対に無理!。でも小坂駅近くにある「大島橋」まで行けば、何と!四頭のニホンカモシカが出迎えてくれます😄

今夜の車泊地に予定していた「道の駅:南飛騨小坂」。すぐ裏には小坂川が流れ、駅の西200mの県道沿いからは御嶽山を望める・・日中の人の往来があるロケーションなら最高に素敵なのですが、生憎と周りには猫の子一匹居ません。

県道437号沿いにあるという事でそれなりに賑やかかなと思っていましたが・・・・閉店と同時に人の気配がなくなり、シ~~~ンという音があたりを包み込む感じ。そこそこの町中に住んでいるので、少々賑やかでも眠れますが、度を越す静かさの中では全く眠れません。寝ないと明日の活動に差し障ります。近くに別の道の駅があるということで、急遽移動となりました。

訪問日:2012年5月16日

静かすぎて寂しいからという理由で車泊地を変更する・・・よくある事です😣

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ご当地マンホール in 岐阜県旧小阪町(下呂市)

2020年03月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

旧益田郡小坂町(おさかちょう)は飛騨地方南東部に位置した町です。益田郡萩原町・下呂町、大野郡久々野町・朝日村に、さらに県を跨いで長野県木曽郡 開田村・三岳村・王滝村に隣接。町域には御嶽山の飛騨側の登山口があり、面積の97%が山林、森の巨人たち百選に選ばれたヒノキの巨樹がある天保林など、そのうち6割以上を国有林が占めています。地形は急峻で、集落は飛騨川、小坂川とその支流からなる谷底に形成。古くから、林業の町として栄えてきました。また、日本の滝百選にも選ばれた根尾の滝をはじめとして滝が多く「滝調査委員会」を組織し町内の谷筋を数年かけて全て調査した結果、5m以上の滝だけで200か所以上確認。調査の結果を踏まえ、「日本一滝の多い町」として売り出しています。「町の木:ヒノキ」「町の花:ヒメシャガ」「町の鳥:ライチョウ」を制定。

「水のふるさと御嶽山」と題された、小坂滝巡りマップ。御嶽山の賽の河原からシン谷へ落ちる標高2800mのところには日本最高所の滝が存在し、御嶽山周辺は「御嶽山県立自然公園」に指定されています。が・・山歩きは基本的にNGなのでパス😓

明治22年(1889)、町村制の施行により、 益田郡小坂村が発足。

1898年、 小坂村が町制を施行、益田郡小坂町となります。

2004年、益田郡下呂町、金山町、萩原町、馬瀬村と合併し下呂市小坂となりました。

マンホールには「御嶽山」と「根尾の滝」「温泉」「飛騨川を泳ぐ岩魚」、下に「ひだ小坂」の文字がデザインされています。

昭和35年7月29日制定の町章は「全体で「小」を図案化、中央部は林(美林)と御嶽山を表したものです。」

撮影日:2012年5月16日

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白王(はくおう)神社 in 岐阜県下呂市萩原町

2020年03月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

下呂市萩原町野上に鎮座される「白王(はくおう)神社 」。御祭神は『伊邪那岐命・伊邪那美命・ 菊理姫命・応神天皇・八王子神』

「創建年代は不詳。往古より「高峰仏ヶ尾山」への山岳崇拝による前宮として建立されたと伝えられます。中世以降に白山信仰に変わり、明治四十一年に、区内各村社・無格社等を合併合祀して「白王神社」と改称。」

鳥居の内、石段参道途中より神域を守護されるのは、明治19年12月建立の招魂社系の狛犬さん。 招魂社系ですが、お顔の真ん中、鼻の特徴が「イノシシ」😅

境外末社「浅水稲荷社」、『倉稲魂神』をご祭神とします。

参拝日:2012年5月16日

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