慶応3年(1867)4月14日、27年8ヶ月の生涯を閉じた『高杉晋作』。その遺骸は彼の遺言により奇兵隊の本陣が置かれた吉田清水山に葬られました。奇兵隊の本営は庄屋の末富寅次郎家に置かれていた為、墓地の選定には彼が尽力。葬儀は4月16日数千人が吉田に会葬し、白石正一郎などが神式で一切を取り計らって執行。晋作没後、愛妾『おうの』は出家し東行庵の庵主『梅処尼』となり、生涯、晋作の墓を守って暮らしました。
激動の時代を疾風の如く生きて駆け抜けた高杉晋作。切ない程の深紅の紅葉に迎えられて進む参道、この先に幼い頃に憧れた彼の人が眠っている。
「史跡 高杉晋作墓」
着流しに羽織姿、剣をつかんで彼方を見る晋作の姿は、子供の頃に歴史本で見た姿とちっとも変っていない。石でも銅でもない、陶器ゆえの温もりがある。
「山形有朋:像」
「東行墓」と刻まれた高杉晋作の墓。墓前には木戸孝允、井上馨、伊藤博文により寄進された石灯籠。晋作は元治元年(1864)12月の功山寺決起直前に、大庭伝七あて書状に遺言として墓誌を記していましたが、それが判明したのは葬儀の後であった為、墓碑銘は晋作の号より『東光』と刻まれました。
2016年4月14日:高杉晋作没後150年記念事業として、作家の故・古川薫氏らが中心となり、晋作が遺言で記した墓誌の墓碑銘が建立されました。
【故奇兵隊開闢総督高杉晋作則 西海一狂生東行墓 遊撃将軍谷梅之助也】
裏面には【毛利家恩古臣高杉某嫡子也】
明治44年(1911)5月20日、井上馨によって「高杉晋作顕彰碑」が除幕。撰文は伊藤博文、揮毫は杉孫七郎。頭書きの「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し~」はあまりにも有名で、高杉晋作の人となりと行動をよく表しています。
「高杉晋作顕彰碑・除幕式記念碑」
高杉晋作:東光墓と並ぶ「福田公明(侠平)の墓」高杉晋作に最も信頼され奇兵隊参謀として活躍。北越に従軍しましたが、病気で下関に帰り、明治元年(1868)に死去。
高杉晋作顕著碑と並ぶ「福田公明顕彰碑」。
東光墓の一段下には、42年間晋作を弔い続け明治42年(1909)に亡くなった『梅処尼』が晋作を守るように眠っています。
維新戦争で亡くなった長州諸隊士の多くは十代~二十代の青年で子孫もなく、無縁仏となり荒れ果てるケースが多かったといいます。東行庵三世・谷玉仙尼は昭和46年に墓地を開き、全国各地から隊士の墓を集め供養顕彰をしました。
ここには奇兵隊に支援を続けた白石正一郎、奇兵隊三代総督を務めた赤根武人の墓など140基が建立されています。
「今井万太郎の墓」年齢を偽り小倉戦争に従軍、14歳で戦死。
姓名・出身・来歴の判明した墓には、詳細を記した駒札がそれぞれに添えられています。
太田里灯句碑【 蟻の列 奇兵隊小者 喜作の墓 】(喜作の墓の前を蟻の列が続いている。それをじっと見ていると、明治維新に奇兵隊の隊士として活躍、名もなく消えていった草莽の人たちのことが思われる)
勝者となった討幕軍側の兵士達の墓は作られていた。後年、無縁仏となる事を憂えた人物の手によって新たな墓所を与えられる状況であった・・・墓碑に手を合わせつつも・・・その反対側には、せめて埋葬だけでもと懇願し続ける寄る辺の眼前に、これみよがしに野ざらしにし、言葉にするのもおぞましい陵辱を加え、鳥獣の餌食とさせ、腐乱するまで打ち捨てさせた多くの会津藩士達への惨い仕打ちがあった事を考えずにはいられません。
参拝日:2017年12月2日