車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 香川県旧庵治町(高松市)

2021年01月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・香川県

旧木田郡庵治町(あじちょう)は四国本土の最北端、竹居岬に位置した町です。木田郡牟礼町に、海を隔てて高松市、さぬき市、小豆郡池田町・土庄町に隣接。古くから石と魚の町として栄え、五剣山の麓から採取される庵治石は、高品質で希少価値が高く、世界一高価な花崗岩と評価されており、国内はもとより、海外においてもその名を知られています。

また、漁業が盛んで、魚介類の宝庫となっている瀬戸内海からの漁獲量、生産額は、漁船漁業では県下屈指。源平合戦ゆかりの屋島を間近に臨み、平家の軍船の集結場「船かくし」など、町内には多くの史跡が残っています。「町の木:クスノキ」「町の花:アジサイ」を制定。

明治30年(1890)、町村制の施行により、山田郡庵治村が発足。

1899年、山田郡と三木郡が合併、木田郡となる。

1968年、庵治村が町制を施行、木田郡庵治町が発足。

2006年、高松市に編入、高松市庵治町となりました。

町域にデザインマンホールは無く、自治体章のみの規格蓋です。


 

昭和53年4月1日制定の町章は「円は、平和、人々の和をあらわし、また全体の形は庵治町の地形を かたどり、波の形に似た「ア」の部分は、三方海に囲まれた庵治の環 境を示し、円の下方が少しかけているのは、町の未来への発展性を象 徴する。」合併協議会資料より

撮影日:2011年6月17日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホールin旧牟礼町(高松市)

2021年01月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・香川県

旧木田郡牟礼町(むれちょう)は香川県の中部に位置した町です。高松市、さぬき市、木田郡庵治町・三木町に隣接。瀬戸内海に面し、 北部には霊峰・五剣山が町のシンボルとして 横たわり、その北側からは硬くて光沢のある「庵治石」が採れ、それを 加工する石材業が古くから発展してきました。

源平屋島合戦の舞台として知られる那須与一の扇の的、源義経の武勇伝、霊峰五剣山を仰ぎ見る四国霊場85番札所:八栗寺など、多くの名所旧跡を有します。「町の木:ユーカリ」「町の花:椿」を制定。

旧キャッチフレーズは「みどり・・・自然と人がふれあえるまち“むれ”」

明治23年(1890)、町村制の施行により、三木郡牟禮村が発足。

1899年、三木郡が山田郡と合併、木田郡となる。

1962年、牟禮村が町制を施行、木田郡牟礼町が発足。

2006年、高松市に編入、高松市牟礼町となりました。

マンホールには、屋島の戦いの主役、那須与一を基に誕生したキャラクター「与 一くん」と、「町の花:椿」がデザインされています。

昭和37年1月1日制定の町章は「「ムレ」を図案化し、3つの輪は旧3村(牟礼・大町・原)を現しています。」

牟礼支所のとある場所にいる『くうかん鳥』。名前の通り空き缶を食って資源に変えるよ。だからポイ捨てなんてしないでね・・と言ってます。

この日、どうしても牟礼町のデザインマンホールが見つけられず、最後の手段で牟礼支所にお伺いさせて頂きました。お忙しい中、担当の方を呼んで頂き、時間を割いて丁寧に設置場所を教えてくださいました事、本当に嬉しく、心から感謝申し上げます。有難うございました🙏🙏

撮影日:2011年6月17日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石清尾(いわせお)八幡宮~其の二 in 香川県高松市宮脇町

2021年01月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・香川県

石清尾(いわせお)八幡宮~其の二、昨日の其の一からの続きです。

下拝殿の右手に、かなり規模の大きな絵馬堂があり、実に多種多様な絵馬が奉納されています。

いずれも興味深い内容なのですが、特に目を引いたのがこの二枚。一枚は文化三年(1806)奉納の「算額(さんがく)」。理数が大の苦手だった私と違って、ご亭主殿は興味津々、聞いても??の私に、無駄な絵解きを始めてくれます😅

もう一枚は大切に金網に保護された龍の鏝絵で、「大正弐年四月参拾日吉日 高松市の左官士」による奉納と記されています。これほどの重量の鏝絵が、良くぞ無事に存在した事に感動すら覚えます。

神社内には数多くの境内社が鎮座されています。神明社・若宮社へといたる石段より神域を守護されるのは、「藩中」と刻まれた台座に立つ狛犬さん。いずれの時代かは不明ですが、江戸時代の奉納と思われます。

こちらの狛犬さんだけは特別なのか、それとも特に何かの願掛けをされる方がいたのか、白い前垂れが奉納されていました。それにしても・・前垂れがこんなに似合う狛犬さんも珍しい・・・😅

石段正面に鎮座されるのは「神明社」、『天照大神、住吉三神、藤原鎌足公』が奉られます。

その右手に鎮座されるのは「若宮社」、『仁徳天皇』をご祭神とします。

下拝殿の右手に並ぶ境内社、左から「高良社=建内宿禰」「御先社=天之宇受売命、猿田彦命』

「廣瀬龍田社=級長津彦命、級長津比売命、若宇賀能売命、少彦名命、大年命」「北口霊社=友安刑部霊、友安治部霊

下拝殿近くには、昭和二年十一月奉納の子午線方位盤があります。かなり大きなものですが、これで見ると「子・午」の意味が良く理解できますね。

恒例の神社彫刻は手水舎の蛙股で、桃の実を手に、花木の下でくつろぐ、太鼓腹(中国ではお大尽の代名詞)の男と、唐子二人。

もう一枚は、竹林に潜む虎の親子。親は周囲に満遍なく目を光らせながら、子虎が不用意に飛び出さないように背を押えています。

境内に奉納された御神馬。腹掛けには御神紋の「三つ巴」、こちらでは珍しく背中に御幣(ごへい)が立てられています。

そうそう、実はもう一体、境内社へと向う石段の下にも御神馬が奉納されていました。これまであまり目にしたことの無い優しい顔立ちで、もしかしたら何か説明が有ったかもしれないのですが・・・

「石清尾八幡宮」の境内、ここには氏子さんたちに大切に守られた猫さんたちが居ます。そう思えたのは、どの仔も綺麗な毛並みと、綺麗な顔(目)をしていたからです。こんな時は、いつもよりも大目に気持ちを納めさせていただきます🙏🙏

私たちが単なる猫好きだと察した猫さんが、側に来て無防備な姿で毛づくろいを始めました。なんでもない事なのですが、外で暮らす猫が気になる私には、とても嬉しい出来事でした。

参拝日:2011年6月17日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石清尾(いわせお)八幡宮~其の一 in 香川県高松市宮脇町

2021年01月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・香川県

高松市宮脇町に鎮座される「石清尾(いわせお)八幡宮」。御祭神は『応神天皇・仲哀天皇・神功皇后』。

神社由緒に「延喜18年(918)、八幡大神様が亀命山(現在の石清尾山)山上に現れたので、当時の国司が山上に祠を建ててお祀りしたと伝わっています。石清尾八幡宮の社名の由来は、当時社殿があった赤塔山が亀ノ尾山塊の山裾にあたり、石清水八幡宮の「石清水」と「亀の尾」を一つにあわせて「石清尾」になったと言われています。~以下略」

鳥居の先、随身門へと至る神橋の左右より神域を守護されるのは、天保12年(1841)2月吉日建立。ずんぐりむっくり体系、獅子舞を連想させる、とても安定感のある狛犬さん一対。

「随神門」を守護されるのは、天明6年(1786)8月建立の陶器製の狛犬さん一対。どことなく気品が感じられるのは、単に私たちが陶器の狛犬さんが好きと言う理由からかも😉

お顔の感じからすると備前焼の獅子狛犬さんにとても似ていると思うのですが、陶器の肌の色合いが信楽焼きっぽくも見えるし・・何所のお生まれなのか気になります。

拝殿から本殿へと至る長く立派な石段、その左右にも神域を守護される狛犬さんがおいでです。

拝殿石段の入り口より神域を守護されるのは、安政5年(1858)8月吉日建立の狛犬さん一対。平らな壁際にもぴったりの後ろ姿がポイント😊

1989年に氏子崇敬者の浄財により復興された上拝殿。絢爛豪華と言う言葉がしっくりするほど艶やかな佇まいで鎮座されています。(旧本殿・幣殿・上拝殿は昭和61年に焼失)

境内社・絵馬殿と奉納絵馬・・・等々、もう少し続く「石清尾八幡宮」、続きは明日に。

参拝日:2011年6月17日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール&マンホールカード in 香川県高松市

2021年01月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・香川県

高松市(たかまつし)は香川県の中部、高松平野に位置する市です。坂出市、さぬき市、木田郡三木町、綾歌郡綾川町、仲多度郡まんのう町に、更に海上を隔てて香川郡直島町、小豆郡土庄町・小豆島町。さらに県を跨いで徳島県美馬市、岡山県玉野市に隣接。北は瀬戸内海に面し、高松港および高松新港(通称新湊)を中心に半円状の市街地を形成。かつて国鉄の宇高連絡船が就航していたこともあり、四国の玄関口として発展。香川県の県庁所在地および最大の都市で、四国地方において愛媛県松山市に次いで2番目の人口規模を誇り、中核市に指定。高松駅からは四国内の各都市を結ぶ特急列車が発着し、更に1988年の瀬戸大橋開通により、高松ー岡山間は約1時間程度でアクセス可能。四国を統轄する国の出先機関のほとんどや、多くの全国的規模の企業の四国支社や支店、また四国電力やJR四国といった、四国を代表する企業の本社などが置かれ、四国の政治経済における中心拠点として発展してきました。「市の木:黒松」「市の花:ツツジ」を制定。

キャッチフレーズは「活力にあふれ 創造性豊かな 瀬戸の都・高松」

江戸時代には御連枝の高松松平家が治める高松藩の城下町として盛え、玉藻町には日本三大水城の一つとされた高松城:別名玉藻城天守が存在しましたが、老朽化のため天守が明治時代に破却。

現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されています。「玉藻」の名は『柿本人麻呂』が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされています。

明治21年(1888)年、愛媛県から分離され香川県が発足、高松はその県庁所在地となる。

明治23年(1890)、町村制の施行により 高松市、香川郡宮脇村・中笠居村・百相村・東浜村・栗林村・太田村・鷺田村・安原上西村・ 一宮村・円座村・下笠居村・弦打村・雌雄島村・上笠居村・川岡村・多肥村・檀紙村・が発足。
木田郡潟元村・古高松村・木太村 林村・三谷村・川添村・坂ノ上村・川島町・十河村・東植田村・西植田村が発足。

1898年、百相村が町制を施行・改称して香川郡仏生山町となる。
1914年、香川郡宮脇村を編入。
1915年、香川郡中笠居村が町制施行・改称して香西町となる。
1920年、木田郡潟元村が屋島村に改称。
1921年、香川郡東浜村、栗林村が高松市に編入。
1922年、木田郡坂ノ上村が町制施行・改称して木田郡川島町となる。
1933年、木田郡屋島村が町制を施行、木田郡屋島町となる。
1940年、香川郡太田村、鷺田村、木田郡屋島町、木太村 、古高松村が高松市に編入。 木田郡屋島町・古高松村・木太村が高松市に編入。
1951年、安原上西村が香川郡上西村に改称。
1955年、木田郡川島町、十河村、東植田村、西植田村が合併、木田郡山田町が発足。
1956年、香川郡香西町、仏生山町、一宮村、円座村、上笠居村、川岡村、下笠居村、弦打村、多肥村、檀紙村、雌雄島村、木田郡川添村 、林村、前田村、三谷村を高松市に編入。
1966年、木田郡山田町が高松市に編入。

2005年、香川郡塩江町が高松市に編入。

2006年、香川郡香川町、香南町、木田郡庵治町、牟礼町、綾歌郡国分寺町を編入。現在に至っています。

マンホールには、屋島を背景に「扇の的を射んと馬上で弓をつがえる那須与一」がデザインされています。右下「おすい」の表記。(名古屋市下水道科学館:展示蓋)

右下に「げすい」の表記

大会キャラクター「はまうみくん」がデザインされた、「第24回全国豊かな海づくり大会」の マンホール。

香川県立高松工芸高校デザイン科の生徒の作品を採用したシールタイプマンホール。「高松城模擬天守」と、「うどんを食べる那須与一」がデザインされています。マンホールのQRコードを読み取ることによって、マンホール周辺の飲食店情報や、高松市の観光情報等を得ることが出来ます。以下5点は義姉からの提供😄

「栗林公園」と朱塗りの「偃月橋」がデザインされています。

巨大なうどんを前に嬉しそうな「奉公さん」、背景に屋島がデザインされています。

「うどん丼」に架けられた「栗林公園の偃月橋」。丼の中には「市の木:黒松」がデザインされています。

「高松城模擬天守」と、「市の木:黒松」がデザインされています。

明治27年(1894)4月27日 制定の市章は「中央に「高」の字を配し、これを松葉4本で菱形に囲ったものです。「高」の字体は、旧藩時代に御用船ののぼりに用いられていたもので、外郭の松葉は、「松市」に通わせたものです。色を変えない松の緑に市の悠久繁栄を祈念して定められました。」公式HPより

高松市消防局の耐震猛火水槽で、消火活動中の3人の消防士と、周りに火の手がデザインされています。

中央の紋章は、高松市型と分かるように漢字の高の周りを松で囲うデザインを施し採用したと思われるとの事です(高松市上下水道局 企業総務課より) 

消火栓・仕切弁の上部には、「高松市上水道紋章」。

高松常磐町商店街マスコットボーイ『常盤玉吉』。通称「ときたま君」。総延長日本一の商店街のショーウィンドウから街の平和を見守っています!

高松市さぬきうどん協同組合のゆるキャラ『うどん脳』。饂飩が大好きで、饂飩ばかり食べてたら・・・ある朝、目覚めると「うどん脳」になってたツル!😲

撮影日:2011年6月17日&2017年8月10日

------------------------00----------------------

2016年12月1日、第3弾として全国46自治体で46種類(累計109自治体120種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「高松市」のマンホールカードは、「瓦町FLAG 8F 市民サービスセンター」でいただけます。

1987年に設置開始されたマンホールには「屋島」と扇の的を射んと弓をつがえる「那須与一」がデザインされています。

「平家物語から「扇の的」の一場面を切り取ったデザイン蓋です。平安時代末期、約6年間にわたって続いた源氏と平氏の内乱「治承・寿永の乱」。 その合戦の一つである「屋島の戦い」において、源氏側の武士・那須与一は、平氏側の船上に掲げられた扇の的を見事に射抜いたと伝えられています。 このデザインは、戦いの場であり、また昭和9年に国立公園として初めて指定された瀬戸内海国立公園に含まれる「屋島」を背景に、風、波、はためく扇、 今まさに弓を射ようとする与一を描いたもの。当時の緊迫感あふれる状況と弓矢の躍動感を巧みに表現したデザインです。」

訪問日:2017年8月10日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホールとマンホールカード in 香川県

2021年01月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・香川県

香川県(かがわけん)は四国の東北部、瀬戸内海国立公園の中心に位置する県です。愛媛県、徳島県、瀬戸大橋で岡山県に、更に海上を隔てて兵庫県、広島県に隣接。県庁所在地は高松市。8市・5郡・9町があり町はすべて「ちょう」と読みます。南側を瀬戸内海(広島湾・伊予灘・周防灘)、西側と北側を日本海(響灘)と、三方が海に開かれ、東西に中国山地が走り、大きくは瀬戸内海沿岸地域、内陸山間地域、日本海沿岸地域の3つに分けられます。

北部には瀬戸内海に面して讃岐平野が広がり、南部は山がちで、讃岐山脈が連なり、最高峰は1059.9mの竜王山。丘陵部は500 - 800mで各地峠越えに行き来が行われました。本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により、道路・鉄路で結ばれています。多島海である瀬戸内海には小豆島をはじめ、塩飽諸島や直島諸島など約110余りの島々が存在。川が少なく、またどれも33 - 38km程度と短いため、昔から渇水対策に手を焼いてきました。このため、道守朝臣(みちのかみあそん)が造り、空海が修築したことで知られる満濃池をはじめとするため池が県内に14,000余あり、国内有数の数と言われています。「県の花&木:オリーブ」「県の鳥:ホトトギス」「県の魚:ハマチ」「県の獣:シカ」を制定。

キャッチフレーズは「かがやくけん、かがわけん」「恋するうどん県」「愛にきてうどん県」

明治4年(1871)、廃藩置県により、高松藩は高松県、丸亀藩は丸亀県、多度津藩と天領は倉敷県、津山藩の飛地はそのまま津山県となるも、その直後に、倉敷県の管轄地が丸亀県へと移動。後に高松県と丸亀県が合併されて香川県が設置。

1872年、小豆島西部を編入、現在の香川県と同じ管轄範囲となる。

1873年、名東県(後の徳島県)に編入される。

1875年、香川県として分離される。

1876年、愛媛県に編入される。

1888年、香川県が復活、現在に至ります。

マンホールには、香川県観光推進マスコットキャラクターの「親切な青鬼くん」がデザインされています。

「瀬戸大橋」と「県の木&花:オリーブ」がデザインされた電気用のマンホール。

昭和52年10月1日制定の県章は「カガワの頭文字の「カ」をデザインしたもので、香川県の特色ある山容と、平和のシンボルである県花・県木「オリーブ」の葉を表現し、恵まれた風土にはぐくまれて、向上発展を続ける香川県のすがたを象徴しています。」公式HPより

ちなみに「香川では うどんが立つと 縁起が良い」らしい・・・です😄

香川県警察キャラクター「ヨイチ」。モデルはもちろん「那須与一」。

うどん県の観光課係長「うどん健さん」。讃岐うどんのようにまっすぐでコシの強いイケ麺係長です。

「県の鳥:ホトトギス」をモチーフに誕生した、スポーツレクリエーション祭マスコット「オリピー」。頭の飾りは県の花木のオリーブです。

かがわの花の国づくり運動のマスコットキャラクター『さぬきの咲っちゃん(さっちゃん)』。【咲かせよう美しい花 広げよう美しい香川】が合言葉です。

「香川県住宅用火災警報器」PRキャラクター「カジナリくん」。香川県の住宅を空から見守り、不審な煙を見つけると即座に警報器を鳴らして知らせます。

彼の名前は『わたる』。橋脚をモチーフに生まれた本州四国連絡橋のシンボルキャラクターです。でも本当は兵庫県の所属なんだそうです😄

撮影日:2011年6月16日&2017年8月10日&2018年6月19日

(※)小豆郡土庄町・小豆島町・香川郡直島町に関しては、未訪問です。が、海の上なので行けるかどうかは疑問・・と言うより行けない(断定)

------------------------00----------------------

2016年8月1日、第2弾として全国40自治体で44種類(累計64自治体74種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「県流域下水道A001」のマンホールカードは、「中讃流域下水道大束川浄化センター(公益財団法人香川県下水道公社)」でいただけます。

1994年に設置開始されたマンホールには、観光マスコット「親切な青鬼くん」がデザインされています。

「香川県の観光マスコット「親切な青鬼くん」のデザインマンホール蓋です。親切な青鬼くんは、浜田廣介さんの童話『泣いた赤鬼』に登場する 青鬼をモデルに作られました。童話の中の青鬼は、友達の赤鬼を助けた後に人知れず旅立ってしまいます。童話はそこで終わるのですが、親切な 青鬼くんにはその後のストーリーがあります。それは、青鬼くんが香川県に立ち寄った折に讃岐のお接待の心(お遍路さんに対するおもてなし) に触れ、人々の温かさに感謝してこの地に住み着いたというものです。そして今では香川県の観光のアイドルとなり、主要駅前や観光地にモニュメントが 設置されています。(大束川浄化センター)」

------------------------00----------------------

「県流域下水道A002」のマンホールカードは、「中讃流域下水道金倉川浄化センター(公益財団法人香川県下水道公社)」でいただけます。

二種類のカードの違いは、表面のA001がA002であること、裏面の写真がモニュメントで無くカラーイラストになったという二点のみ。

訪問日:2017年8月10日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 愛媛県旧川之江市(四国中央市)

2021年01月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧川之江市(かわのえし)は愛媛県最東端、東予地方に位置した市です。伊予三島市、宇摩郡新宮村に。さらに県を跨いで香川県三豊郡豊浜町・大野原町。徳島県三好郡池田町に隣接。四国山地の支脈法皇山脈の東端にその源を発し、瀬戸内海の燧灘にそそぐ金生川。その吐出する土砂によって形成された沖積平野に農漁民が住居を構えて定着し、川に沿って幾つかの点在する集落を形成した事が始まりとされます。大化の頃、大和より伊予の国府に通じる太政官道の大岡駅が設けられ、さらに、ここを分岐点として、それぞれの国府に至る土佐街道、阿波路が設けられ、既に開けた内海の船運と相まって海陸交通の要衝となり、今日の発展へと繋がりました。鷲尾山山頂に再建された川之江城からは瀬戸内の島々の眺望が素晴らしく、桜の名所としても知られています。「市の花:菊」を制定。

旧キャッチフレーズは「四国かわのえ 紙のまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、宇摩郡川之江町・上分村・金生村・二名村・妻鳥村・金田村・川滝村が発足。

1923年、上分村が町制を施行、宇摩郡上分町が発足。

1948年、金生村が町制を施行、宇摩郡金生町が発足

1954年、宇摩郡川之江町が、二名村を編入。

1954年、宇摩郡川之江町、金生町、上分町、妻鳥村、金田村、川滝村が合併、川之江市が発足。

2004年、伊予三島市、宇摩郡土居町、新宮村と合併、四国中央市となりました。

マンホールには「市章」と「紙のまち」の文字、一面に折鶴がデザインされています。

ワンサイズ小さいマンホールには、「市章」と「紙のまち」の文字、それに「折鶴」が一羽デザインされています。

昭和32年(1957)7月1日制定の市章は「川を丸くして鶴の形とし、その川鶴が頭に丸い玉をいただいているので縁起がよく、また川之江市は円満の玉をいただいていて、将来円満で大いに発展する。」旧公式HPより

路上のタイルには「市の花:菊」。

紙の町資料館内を訪問した際に、偶然見学させて頂いた「石川景水・漉き絵展」

筆を使わず紙漉きで色と形を漉きこみ、望む景色を生み出す「漉き絵」。さらっと書きましたが、正直言ってどのような技術を駆使すれば、否、どのような才能が有ればこれほどの作品を生み出せるのでしょう。

一点一点、熱心に見て回るご亭主殿の隣りで、色々と素人質問にも嫌な顔一つなさらず丁寧に説明して下さるのは・・

おりよく会場に居合わせておられた石川景水先生ご本人。作品の素晴らしさに感動したその上に、その作品を生み出されたご本人にお目にかかれるなど、一体私たちはどんな徳を積んだというのか🙏。

貴重なお時間を割いて私たちの素朴な疑問にも丁寧にお答えいただき、思いもかけない素晴らしい時間を過ごさせて頂きました。作品をブログに掲載する許可まで頂き、本当に有難うございました。心から感謝申し上げます。

撮影日:2011年6月15日

------------------------00----------------------

北宇和郡松野町(まつのちょう)は愛媛県南予、四万十川の支流の一つである広見川の中流域に位置し、森林が全面積の84%を占める町です。

キャッチフレーズは「浪漫ちっくシアター 森の国まつの」

1889年、町村制の施行により、北宇和郡明治村、吉野生村が発足。

1940年、明治村が町制を施行、改称して松丸町が発足。

1955年、北宇和郡松丸町、吉野生村が合併し、北宇和郡松野町が発足しました。

昭和40年12月24日制定の町章は「「マツノ」を図案化したもので、「マ」の字を中心に「ツ」と「ノ」を円で周囲に配しています。円は、円満を表わし、町民の幸福と町勢の発展を意味し「マ」の字の三方は教育、福祉、産業の振興を示しています。」HPより

(※)北宇和郡松丸町では、ご当地マンホールの類は見つけられませんでした。

撮影日:2013年3月25日

これにて愛媛県車中泊の旅の思い出はひとまず終了です。上浮穴郡久万高原町・越智郡上島町に関しては、この先訪れる機会は無いでしょう。愛媛県のご当地マンホールは「四国中央市」で終了。明日からは香川県のマンホール・神社仏閣・名所に旧跡&迷所の紹介です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川之江城址散策 in 愛媛県四国中央市川之江

2021年01月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ交通の要衝である川之江の鷲尾山山頂に位置した川之江城。

約650年前の南北朝動乱の頃。南朝方であった河野氏の砦として、土肥義昌(どひ よしまさ)が延元二年(1337)に鷲尾山に川之江城を築いた事に始まります。戦国の世の習いの中で義昌は武蔵国矢口の渡で戦死。細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になるも、土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗しきれず、河野氏に背いて長曽我部氏に内通。河野氏は河上但馬守安勝に命じて、城を攻めとらせます。しかし、天正十年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死。天正十三年(1585)、豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時に廃城。

戦国の世も終わった寛永十三年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとするも、寛永十九年に病没。領地は没収されて幕領となり、わずか六年の「うたかたの川之江藩」で終わりました。時は流れ、昭和59年(1984)、350年の歳月を経て、本丸跡に天守、涼櫓、櫓門、隅櫓、控塀などが建築。

とは言え、天守は犬山城天守を模したもの、その他の石垣や櫓、城門等も史実に即したものではなく、当時の名残を留めるものは、模擬天守の石垣の周囲に残存する僅かな石垣だけ。

鉄筋コンクリート造3層4階地下1階。模造であろうと模擬であろうと、満開の桜の中に聳える天守は美しい。

折りしも三月も終わりの季節。私たちには珍しい桜に彩られた城址での一時は、それだけで旅の心を満足させてくれます。

その立地ゆえに隣国との抗争の的となり、何度も主を代えたと歴史に刻まれた川之江城。天正十年(1582)長曽我部氏の攻撃を受け、落城と共に姫ヶ嶽から身を投げて命を絶った年姫の哀れを詠んだ「与謝野晶子」

【姫ヶ嶽 海に身投ぐる いや果ても うまして入りぬ 大名の娘は】

川之江城址には「尾藤二洲伝」の著者『白木豊』が、昭和38年にこの城山で二洲をしのんで詠んだ歌

【川之江ハ 椿さくころ良き人を しぬひて居れ鳥が おときこゆ】

『尾藤二洲』「梅花五言古詩」

此の花は花中の選 人能く汝に儔(ともがらと)するは誰ぞ

一たび孤山に従って逝き 風情独り自ら知る

吾其の淸高を愛するも 而も未だ相隨ふ能はず

早晩塵絆を解かれなば 汝に野水のほとりに就かん

「江戸時代後期の儒学者『尾藤二洲』、その性格は「恬淡簡易」と評され、甥の頼山陽と歴史への関心を分け持ち、夜の更けるのも忘れ「喜んで本邦群雄の事跡を談じ」たという。三博士の中ではもっとも詩人の素質に富み、こだわりなく詩を作る。詩は「唐を以て法と為す」べきであるが、陳腐にならないように新しい感覚のある宋詩をも読むべきである、ただし「宋人は雅俗を択ば」ないので模倣しすぎると詩の形を為さなくなる、と考えていた。二洲の詩的感興は、世俗を避ける心と結びついている。」Wikipediaより

訪問日:2013年3月29日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三島神社~其の二 in 愛媛県四国中央市三島

2021年01月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

昨日に続いて三島神社の紹介、境内には驚くほど沢山の境内社が鎮座されており、「諸山仂神社(十六社)」もその一つ。

延徳2年(1490)建之の御社殿はかって主祭神の本殿だったもので、明治35年に現在の本殿が建立されるまで、御祭神はこちらに祀られていました。市内最古の建造物とされ、昭和37年(1962)4月1日、市有形文化財に指定されました。

旧本殿横には「小林一茶」が寛政7年(1795)に当神社に参詣した時に残した句が、現存する一茶直筆の「寛政紀行」より拡大されて刻まれています。

【冥加安(みょうがあ)れや 日本(にっぽん)の花 惣鎮守】

本殿横に祀られる「龍宝石」はもと予讃境の海中にあり、鯛寄石とも称し、鯛のすみかになっていたと云われています。江戸時代に中曽根村の庄屋・今村家が引き揚げて庭石とし、毎日、海水を中央の二つの凹みに献げていましたが、明治になり、怪異を恐れて三島神社の境内に移したと云われます。

拝殿の隣に鎮座されるのは「境内社:天神社」「菅原道真公」を奉ります。

ところでこれ・・何だと思いますか?。実は私たちも暫く分からなくて首をかしげていたのですが、唐突に閃きました!「これ、硯と墨だよ!」😲
もちろん、手前には筆もあります。流石に此処までそろった一式は、今回が初めて。あまりにも大きすぎ、何であるかを理解するのに時間が掛かりました😅

天満宮と言えば神牛さんですが、こちらでは「願かけなで牛」という事で、特に鼻の周りがピカピカ😊

社殿の隅に奉納されていた小さな一対の神牛さん・・。台座が違うので別々の奉納と思われますが、見事に対を成しています。

境内には、他に「合祀社宮(八幡神社、荒神社、幸神社、斎霊神社、外 を合祀)」「笑子神社」「住吉神社」「春日神社」「天照皇太神宮(豊受大神宮、出雲大社、宇佐八幡宮 を併祀)」「田畠神社(社日神社)」「水神社室神社」「目神社」「三鉾神社」と実に多くの神々が鎮座されています。

その一画を守護されているのは、非常に体格の良い小顔で扁平頭の狛犬さん一対。扁平ですがちゃんと角を持つ吽形さん、その顔の短さは、思わず手尺をしたくなる程😊

大きな玉に前足をかけて楽しそうに笑う阿形さん。ツンと澄ました顔の吽形さん。岩の角を利用したと思われる狛犬さんの顔立ちは、かなり個性的で狛犬好きには楽しい一対。

北参道より神域を守護されるのは、まるで威嚇するかのようにお尻を高く上げ低く身構えながら、その姿勢と裏腹に、陽気に笑う阿形さん。

閉じた歯の間から低く唸り声が聞こえてきそうな吽形さん。お世辞にも可愛いとは言えない強面ですが、この上なく頼りになりそうなのは確かですね😊

参拝日:2011年6月15日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三島神社~其の一 in 愛媛県四国中央市三島

2021年01月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

四国中央市三島宮川に鎮座される「三島神社」。御祭神は『大山祇神(おほやまつみのかみ)』、相殿に『高龗神(たかおかみのかみ)・上津比咩神(かみつひめのかみ)・下津比咩神(しもつひめのかみ)・雷神』を奉ります。

由緒「奈良時代の初期越智玉澄宇摩の大領に任ぜられ今の上柏町御所の地に新館を建て宇摩郡を経営したが、年老い毎月の大三島宮参籠も出来なくなったので、養老4年旧8月23日大三島宮より奉遷し八綱浦三津名岬加茂川上冠岡の地を選び奉斎したのが始であり、それより此の地を三島と云う様になった。」愛媛県神社庁より

ご本殿背後の遥拝所近くより神域を守護されるのは、かっちりとした顔立ちに、くっきりと玉の目が入れられた狛犬さん一対。場所が場所だけに、体の装飾も美しく、凛々しい顔立ちです。

青銅鳥居を潜り参道を進むと、文政4年(1821)8月竣工:三間一戸、重層、本瓦葺の「随神門」。昭和37年4月1日に四国中央市指定有形文化財となりました。

随身門の内にて神域を守護される随身様、異様に白く目立つ目はインパクトが有りすぎ😓 出来れば夜には出会いたくない。

随神門内には沢山の絵馬が奉納されており、特に石鎚山登拝での、天狗を用いた絵馬が多く見られました。中で一枚、この極彩色の【鯉の滝登り】は「鏝絵」で作られたもの。

随身門の両脇より神域を守護される狛犬さん一対、笑顔がとっても優しい阿形さん。ちょっと苦みばしった吽形さんは、ちょっと好みのタイプ😊

拝殿懸魚に施された華麗な彫刻。

特に向背に寛ぐ龍の目に嵌め込まれた玉は、見上げる者の気配を察してこちらを向きそう。

神社の龍の彫刻なんてどれも同じだと言った人が居ますが、いえいえ、とんでもありません。人の手によって彫られたものには、それぞれに宮彫師の気持ちが籠められています。一度じっくりと見比べるのも楽しいですよ。

拝殿の前に鎮座される「大石神社」。ここには二千年前よりも更に遡ると伝えられる「磐座」が、当時のままの状態で保存されています。案内には、石の配置も往古のままに残され、この場所で祭祀が行われていたと記されています。

みだりに犯してはならない禁足の地を守護されるのは、一般的に護国型と言われるブロンズ製の狛犬さん一対。吽形さんの足には願掛け紐が結ばれています。

さすがに約8300m2の御神域を持つ「三嶋神社」、長くなるので続きは明日。

参拝日:2011年6月15日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする