車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

黒姫山(くろひめやま)古墳 in 堺市美原区

2022年11月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

堺市美原区黒山にある「黒姫山(くろひめやま)古墳」。百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間に位置し、全長114メートル、前方部幅65メートル、前方部高さ11.6メートル、後円部径64メートル、後円部高さ11メートルの二段築成の前方後円墳。と言っても、実は全くピンと来ていない考古学音痴(^^;)

説明のように真上から見れば「ああ、なるほど」と思えるかもしれないし、幾つか見て来た天皇陵のように整備されていれば、それだけで古墳だと理解できるのでしょうが・・何しろ無知なもので(笑)

現地案内によれば「石室の中からは24領の甲冑をはじめ、大量の鉄製武具や武器が出土。これらの調査により、黒姫山古墳は古墳時代中期(5世紀中頃)にこの地域で勢力を誇っていた『丹比(たじひ)氏』によって築造されたと考えられている。」

「石室復元模型」の現地説明版。後方に見えている高架は「阪和自動車道」。

遠目で見るとこんな感じで、左右には出土した埴輪の列を再現。中央の四角く窪んだ場所に、復元された石室が納められています。

一帯は1989年~1992年にかけて「史跡黒姫山古墳歴史の広場」として整備。古墳の東側には前方部の竪穴式石室と墳丘上段部の埴輪列の一部が実物大で復元展示されており、また、前方部の一部には円筒埴輪列も復元されています。

石室内には復元した甲冑類が納められているらしく、その様子を写した画像なども見ましたが、私たちが訪問したのは5時半近く・・多分、時間的にタイムアウトだったのでしょう。内部を見る事は出来ませんでした。

茜色に染まり始めた空の色に急かされての訪問。毎度毎度の事ですが、もう少し余裕をもって来ないと結局中途半端に終わってしまうのです。行く先を決めた時点ではいつも念頭に置いている筈なのですが・・ついつい脇道に目がいく性格は・・もはや手の施しようがありません(笑)

黒姫山古墳は、昭和32年(1957)に国史跡に指定されています。

訪問日:2015年10月9日

 

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ご当地マンホール in 大阪府旧美原町(堺市)

2022年11月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

旧南河内郡美原町(みはらちょう)は堺市の東、南河内郡西北部に位置した街です。東は分水嶺を境に羽曳野市・富田林市、南は大阪狭山市、堺市、西は堺市、北は松原市に隣接。狭山池と北方を流れる大和川のほぼ中間に位置し、町域は羽曳野丘陵西麓を北流する東除川と、狭山池から北流する西除川によって、東部丘陵地・中部平野部・西部平野部に三分割。総面積の五〇パーセントが標高五〇メートル以上の高燥地であり、西除川左岸を除く平野部でも両除川からの取水が困難で、灌漑用水の多くを狭山池と町内の大小無数の溜池に頼っており、縦横に錯綜する灌漑水路と溜池が、この地区特有の田園風景を形成。地名の由来は、平尾村、黒山村、丹南村の「三つ」の村に美しい平坦な野(原)が広がっていた事から「三原」を『美原』としました。「町の木:クスノキ」「町の花:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、 町村制の施行により、丹南郡平尾村・黒山村・丹南村が発足。

明治29年(1896)、郡制の施行により、南河内郡が成立。

1956年、平尾村、黒山村、丹南村が合併、南河内郡美原町が発足。

1957年、南大阪町多治井を編入。大字丹南を松原市に編入。

1958年、南八下村大字大饗・菩提・石原・小寺の各一部を編入。

2005年、堺市に編入され、美原区となりました。(平成の大合併において、大阪府で唯一の市町村合併)

マンホールには町章を中心に「町の木:クスノキ」と「町の花:ツツジ」が交互にデザインされています。

鴻池水未来センター展示マンホール

昭和35年(1960)3月10日制定の町章は「美原町の「み」を図案化したもので、上部の両翼は、町の飛躍と発展を表し、中央の円は住民の円満平和を象徴している」合併協議会資料より

量水器

左上に「水道」。中央に「サツキ」がデザインされています。花や文字が嵌めこまれた部分が自治体章だと思われますが、自治体不明の越境蓋。

撮影日:2009年6月13日&2017年4月26日

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今日は関西医大にて「核シンチ検査」。レントゲンは平気なのに、体内に「核」を入れると聞くだけでビビってしまうのは、多分、私が古い世代だからかもしれない。それにしても医学の進歩って本当に凄い。さて吉と出るか凶と出るか・・・とりあえず鎮守の神様頼りです。

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旧浜寺公園駅 in 堺市西区

2022年11月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

堺市西区浜寺公園町二丁に、『辰野金吾』の設計により、明治40年(1907)に建てられた木造平屋建ての「旧浜寺公園駅」があります。黎明期の擬洋風建築とか、明治から大正にかけての本格的な洋風建築とかにとても心惹かれる私としては、これは是非とも見ておかねば!!

第1回近畿の駅百選選定駅でもある旧駅舎は、1998年に国の登録有形文化財にも登録されており、2016年の使用終了当時、現役の私鉄駅舎の中で最古の駅舎とされていました。この写真は現役当時のものですが、随分と立派で格式高い建物であったことが分かります。

歴史の生き証人ともいえる建物に出会える、しかも私の大好きな『辰野金吾』氏が初めて手がけた洋風駅舎!!(⌒∇⌒) ワクワクしながら現地にやって来たのですが・・・・「まぁ!!何という事でしょう!!」と何かの番組で聞いたフレーズが、思わず口をついて出る光景(^^;)

後で調べた所では、大阪府が計画する石津川駅ー北助松駅間の連続立体交差事業による鉄道の高架化で、この駅舎が撤去・解体される可能性があった事。しかし、2008年2月7日に開催された「浜寺公園駅及び諏訪ノ森駅舎保存活用にかかわる懇話会」の最終会合で、高架化後には、新たに造られる新駅舎正面に移築され、エントランスとして使用されることが決まった事など・・難しい話は分かりませんが、駅舎が解体を免れた事だけは理解できました。

周囲に張り巡らされた囲いの中央、門にあたる部分からのぞき見する駅舎は、予想通りというか、それ以上にお洒落で美しく、これが残されると言う事実に何故か泣きたいような安堵感を覚えたものです。

私たちが訪問した半年後、2017年11月28日〜12月18日。 旧駅舎は曳家工法により、約30 m離れた近隣の広場に移設。2018年4月15日に、ギャラリー、カフェ・ライブラリー、イベントホールとしての営業を開始し、地域交流拠点として試験活用されていると聞きました。

旧浜寺公園駅の白い囲いの外に大切に祀られていた祠・・それが何なのか、後で調べればわかるだろうとプレートを確認しなかったのが悔やまれます。

訪問日:2017年4月24日

 

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大鳥(おおとり)大社 in 堺市西区

2022年11月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

堺市西区鳳北町に鎮座される「大鳥(おおとり)大社」。御祭神は『日本武尊』『大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやがみ)』。全国の大鳥神社、および大鳥信仰の総本社とされます。

鳥居の前より神域を守護されるのは、明治13年10月建立の浪花系狛犬さん一対。びり口タイプのお顔は浪花系の狛犬さんの中でも好みのタイプ。

由緒沿革「延喜式神名帳所載の名神大社で和泉国の一ノ宮。 歴代皇室のご尊崇きわめて篤く、殊に国家的災難時には防災雨祈の御祈願社として途切れることなく奉幣(ほうべい)に預かった。清和天皇貞観三年七月には従三位に、のち正一位にご昇階になる。」公式HPより

西征して熊襲(くまそ)を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に冒され、大和を目指し帰途につくも伊勢国能褒野で薨去。亡骸はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛びたち最初に舞い降りた地が大和国琴引原。再び飛び立ちて河内国古市に降りたち、最後に留まったのが大鳥の地で、そこに社を建てお祀りしたのが当社の起源である。その時、白鳥が再び舞い上がれない様に、一夜にして樹木が生い茂ったのでその神域を千種の杜と呼び、八尋の白鳥故に大鳥大社と称した。」公式HPより

古事記の原文には「ここに八尋白智鳥に化りて、天に翔りて浜に向きて飛び行でましき。ここにその后またその御子等、その小竹(シノ)の苅杙(カリクヒ)に足キり破れども、その痛きを忘れて哭きて追ひたまひき。」

 御神紋:「八尋白智鳥(やひろしろちどり)」

明治42年(1909)12月に再建された「切妻造・妻入社殿」の本殿は大鳥造と呼ばれるもので、出雲大社造に次ぐ古形式を保ったものと云われます。

もう一柱のご祭神である『大鳥連祖神』は、和泉国に栄えた神別(しんべつ)である大中臣(おおなかとみ)と祖先を一にする、大鳥氏の先祖をお祀りしたものと云われます。平安時代初期に編纂された「新撰姓氏録」には『天児屋根命(あめのこやねのみこと)』を祖先とすると伝えています。

神門

「摂社:大鳥美波比神社」。御祭神は『天照大神』。相殿神に『押別命・菅原道真・国常立尊・市杵嶋姫命』。式内社で大鳥五社の一社。明治12年(1879)に境内に遷座。明治42年に式内社「押別神社・菅原神社」他四社を合祀。

鳥居の前より神域を守護されるのは、河童のような平べったい頭と大きな鼻が特徴の浪花系狛犬さん一対。天保4年(1833)11月吉日建立ですから、来年には190歳ですね。

「末社:四社合祀殿」御祭神は『火鎮大神・宗像大神・稲荷大神・織姫大神』

御本殿透かし塀の前に鎮座される小さなお社。詳細は不明。

明治初年の大宮司『富岡鉄斎』の筆になる歌碑は、平治元年(1159)、熊野参詣に向かう途上、平清盛・重盛親子がこの社に立ち寄った際に清盛が詠んだもの。
【  かひこぞよ  かへりはてなば 飛びかけり  はぐくみたてよ 大鳥の神  】
(蚕がかえって蛾になって飛びたてるように、我々も今から京に戻り武功を立てます。大鳥の神よ、どうか平氏一族を見守り育ててください)

この時、清盛は愛馬「飛鹿毛とびかげ 」を奉納、境内の神馬像はそれを模したものと云われています。

『田辺聖子』の筆になる歌碑は、堺出身の『与謝野晶子』が詠んだもの。晶子は生まれた町の氏神として大鳥大社をいつまでも崇敬していたと言います。

【 和泉なる わがうぶすなの大鳥の 宮居の杉の 青き一むら 】

祓所

「針塚」

水の無い手水鉢の中でまるで置物のように座っていたキジ柄の猫さん。近づいた私たちを恐れるでもなく、本当に穏やかな顔でそこに座っているのです。きっと宮司さんがとても優しい方なのでしょう(*^^*)

参拝日:2017年4月24日

 

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百舌鳥(もず)八幡宮 in 堺市北区百舌鳥

2022年11月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

堺市北区百舌鳥赤畑町に鎮座される「百舌鳥(もず)八幡宮」。御祭神は『応神天皇』。『神功皇后・住吉大神・春日大神』を配祀します。

由緒「所伝によれば、神功皇后が三韓征討の事終えて難波に御帰りになった時、この百舌鳥の地に御心を留められ幾万年の後までもこの処に鎮りまして、天下泰平民万人を守ろうという御誓願を立てられ、八幡大神の宣託をうけて欽明天皇の時代に、この地を万代(もず)と称し、ここに神社を創建してお祀りされたと伝えられています。後白河天皇の保元三年、石清水八幡宮の別宮となる」公式HPより

府下屈指の大きさと言われる社殿。享保11年(1726)再建の本殿・幣殿・東華門が整った美しい姿を見せています。

文政13年(1830)再建の拝殿

拝殿前より神域を守護されるのはどことなく異国風の顔立ちを持つ、浪花型住吉式の狛犬さん一対。狛犬と言うより「猿(ましら)」のようにも見えます。天保年間の建立と思われますが、それ以上は読み取れません。

向拝より参拝者を見下ろす「龍」

屋根の留め蓋より神域を守護される飛び獅子さん。何かよほど良い事でもあったのかと思わせるほど、陽気で楽しい顔立ちの一対。

絵馬殿に奉納されていた「浮彫:神馬」の大型絵馬額。

境内入り口より神域を守護されるのは、天保7年(1836)建立の浪花タイプの狛犬さん一対。強すぎる春の日差しが影を落とし、絵的には今ひとつ不鮮明。

樹齢約800年の御神木「百舌鳥八幡宮の大楠」。大阪府指定天然記念物で、胸高径1.8メートル・幹周5.2メートル・樹高25メートル。

「摂社:招魂社」と「忠魂碑」

招魂社の玉垣内より神域を守護される狛犬さん一対。以前、何かで見た写真では、もっと可愛い好みのタイプの狛犬さんがいた筈だったのですが・・世代交代は仕方ない事なのでしょう。

招魂社の右手、社殿造営工事中の「摂社:若宮社」

社殿工事中の為、守護の任をお休み中の浪花型の狛犬さん一対。御旅所の狛犬さんと似通った「可愛い坊ちゃん」タイプです。

「摂社:市杵島社」『弁財天』が鎮座されます。

「摂社:水神社」

「摂社:稲荷社」

御旅所

御旅所を守護される浪花タイプの狛犬さん一対。浪花タイプとしては珍しく、可愛い顔立ちにはまだあどけなさが残って見えます。

百舌鳥八幡のふとん太鼓は堺市の中では最大の規模だとか。祭礼の宮入には、ここにお神輿が鎮座されるのでしょうか?

百舌鳥八幡宮:石段下に堺の鋳物師『神南辺道心』が建てた道標「文政十三年造之」「右 いゑはら 大鳥一の宮 道(右:家原寺・大鳥大社)」 「すく かうやさん こん古うさん(直ぐ:高野山 金剛山)」

参拝日:2017年4月24日

 

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仁徳天皇稜と大仙公園 in 堺市堺区大仙町

2022年11月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

堺市堺区大仙町。ここに日本最大の古墳にして、世界最大級の墳墓とされる「大仙陵(だいせんりょう)古墳」があります。五世紀前期から中期の造営とされる前方後円墳で、正式名称は【百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)】

宮内庁により『第16代仁徳天皇』(皇居・宮殿は大阪市にある難波高津 (なにわのたかつ)宮 ) の陵墓に治定されています。

2018年4月12日に実地された宮内庁の三次元測量調査によれば、古墳最大長:840m。古墳最大幅:654m。墳丘長: 522m。墳丘基底部の面積:121,380平方。高さ:39.8m。日本最大の前方後円墳で、出土した円筒埴輪や須恵器の特徴から、築造時期は五世紀前期から中期(401~450)と推定。

古事記では、『オオサザキ(仁徳天皇)』は83歳で崩御され、陵墓は「毛受之耳原(もずのみみはら)」に。日本書紀には、【仁徳天皇が御陵を造営しようとした時、鹿が野の中から走り出て倒れ、その耳から百舌鳥が飛び去ったので、この地を百舌鳥耳原と呼ぶことにした。】との記述とともに、『仁徳天皇』は87歳の正月に崩御され、同年10月に「百舌鳥野陵(もずののみささぎ)」に葬られたとあります。

「百舌鳥耳原由来の像」

仁徳天皇と言えば必ず思い出すのが【 高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民のかまどは にぎはひにけり 】

「租税が納められず苦しむ民を思いやり、仁徳天皇は租税を免除されました。そのため宮殿は荒れ果て、雨漏りさえするようになりました。そうして三年の後、人々が暮らす集落を見た時、どの家々からも食事の支度をする煙が見え、「百姓富めるは則ち朕が富めるなり」と喜ばれ、さらに三年、租税の免除を続けられました。」子供の頃、よく母から聞かされた話です。

仁徳天皇陵遥拝所の近くに作られていた「仁徳陵・陪冡の復元模型」。サイズが大きすぎて上からの画像はこれが精一杯。中心の仁徳陵の周囲に小さな古墳のようなもの「陪塚」が並んでいるのが見えるでしょうか? 「陪塚」とは大古墳の近くに存在する小さな古墳で、近親者や従者を葬ったとされるものです。

このモニュメントは「いたすけ古墳」から出土した鉄製の「三角板革綴衝角付冑(さんかくいたかわとじしょうかくつきかぶと)」をそっくり写したもの。五世紀中ごろの武人が使用していたものと云われています。

市民による運動で保存が成された「いたすけ古墳」。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つで、国の史跡に指定されています。画像の橋は、私有地であった当時、土砂の採集と住宅造成のため破壊されることになった際、重機を入れるため周濠に架けられた時の名残だとか。でもこうして見ると不思議と絵になっていると思いませんか(^▽^)

仁徳天皇陵と道路を挟んで広がる大仙公園の一画に座るのは『武野紹鴎(じょうおう)』像。戦国時代の堺の豪商で、茶人として『千利休、津田宗及、今井宗久』等に影響を与えた人物。

堺市博物館前に座るのは「わび茶(草庵の茶)」の完成者として知られ、茶聖とも称せられた『千利休』 。今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられましたが、秀吉の逆鱗に触れて切腹を命じられたのは有名な話です。

『千利休』によって確立された茶の湯。大仙公園内:堺市博物館横には「黄梅庵」「伸庵」の二つの茶室があります。「黄梅庵」は、橿原市今井町の豊田家住宅(国指定重要文化財)に江戸時代からあった茶室で、明治・大正・昭和に亘る茶道の四天王の一人とされた故:松永安左ヱ門翁(耳庵)が譲り受けて改装し、小田原で愛用していたものです。

昭和55年にご遺族より寄贈され現地に移築。国登録有形文化財の指定をうけています。

茶室前の庭園にひっそりと佇むのは、国指定重要文化財「旧浄土寺九重塔」。千早赤阪村小吹に明治初年まで所在した「浄土寺」にあったもので、台石の正面には「嘉元二二(四)年丙午(1306年)」の年号が刻まれています。

明治から昭和にかけ、数奇屋普請天下一の名匠とされた『仰木魯堂』が昭和4年に建てた「伸庵」

もと東京芝公園にあったものを、昭和55年に福助株式会社から寄贈され移築。建物は茶室を含めて10室の和室を持つ風雅な二階建てで、「黄梅庵」と同じく国登録有形文化財の指定を受けています。

【 ふるさとは 大仙陵の あるところ 】摩天郎

訪問日:2009年6月20日

 

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旧港北波止緑地:旧堺燈台 in 堺市堺区北波止町

2022年11月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

「中世に、天然の良港で海外貿易港として発展した堺港は、江戸時代の大和川の付け替えにより港の機能が衰退。その後、江戸の商人吉川俵右衛門などの働きで、築港・修理された港が現在の堺旧港の原型です。」堺観光ガイドより

今回の目的は、堺市のマンホールデザインにも採用されている旧堺燈台の実物を見る事。建築は明治10年(1877)。現地に現存する木造洋式燈台としては日本最古の一つで、昭和47年(1973)には国史跡にも指定されています。

建築工事を担当したのは堺在住の大工『大眉佐太郎』。灯部の点灯機械の取り付けは、横浜の燈台寮よりバービエール社の機器を購入し、英国人技師『ビグルストーン』が携わりました。

もともと各地の突端巡りが好きな二人。山とか崖とか・・高いところが大の苦手で、通天閣でさえ満足に下を見るのも怖い癖に(笑)、有名な灯台があると聞くとどうしても行かずにはいられない因果な性分(^^;)  

でもこの「旧堺燈台」は普通に地面と同じ高さにあって、下を見ても普通に海が見えるという立地。まるで私のためにあるよう(な、ワケ無い!)。

それはともかく(笑)、こうして間近で見ると、入口や明り取りの窓に施された細かい意匠など、可愛らしいという表現が決して可笑しくない。このまま灯台カフェにしても通用しそうなデザイン。

さらに周囲には人の姿もなく、まるで貸し切り状態。こんなシチュエーション、そうそう経験できるモノではありません(笑) 余談ですが、灯台土台部の石積みは、備前国出身の石工『継国真吉』が携わったそうです。備前国は現在の岡山県南東部。こうした歴史的な建物に故郷の地名が出てくると無条件で嬉しいと思えるのは、やっぱり「忘れ難き故郷」なんでしょうね。

堺を代表する建造物と言っても差し支えないほど有名な「旧堺燈台」。実は町中のそこかしこに見る事が出来ます(笑)

旧堺燈台がある一帯は、堺旧港親水プロムナードとして整備され、他にもお台場跡などの史跡が点在と、見所は一杯。冒頭で触れた江戸の商人『吉川俵右衛門』に関する現地案内など、興味深い内容も沢山。

近くには彼の顕彰碑も建立されていますが・・・これ、知ってて探さないと素通りしてしまうかもしれません。もう少し人目に触れるように出来ないものかと、少々残念です。

顕彰碑の近くには鳥居と、神域を守護される狛犬さんがいますが社殿らしきものは見当たりません。帰宅後に地図を調べたところ『吉川俵右衛門』とは無関係の「天満宮御旅所」と判明しました。

旧堺港北湾戸から港内に突き出た北波止突堤、16mの台座上より一帯を見下ろす女神は【龍女神像】

明治36年に開催された「内国勧業博覧会」で、平和と繁栄のシンボルとして大浜水族館前に設置され【乙姫さん】の愛称で親しまれてきましたが、1974年の大浜水族館の廃館と共に撤去。2000年に市制110周年を迎える記念事業として復元され、堺の新たなシンボルとなっています。

全身像をもっと間近に捉えようと・・・でも近づき過ぎると下から見上げてしまう為、近未来の巨神像みたいでちょっと怖い・・(^^;)

最期は北波止緑地に建立されていた「幕末の堺港を語る標柱石」。港に出入りする船に注意を促すために建てられたもので、「舟かゝり致間敷内へ乗入可申者也(ふねかかりいたすまじく うちへのりいれもうすべきものなり)」「慶應元乙丑閏五月」と刻まれています。北波止の突堤近くから出土したとの事ですが、こうしたものがきちんと残されていた事に感動を覚えます(*^^*)

 

訪問日:2009年6月20日

 

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ご当地マンホール in 大阪府堺市:規格蓋

2022年11月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

昨日に続いての堺市のマンホール紹介。今日はコアなファンにのみ受ける(笑)規格蓋の紹介。それでだけでは寂しいので、トップ画像は「堺打刃物」の歴史などが楽しく学べる「堺刃物ミュージアム」。目印は、虫籠(むしこ)窓の巨大な出刃包丁。

堺打刃物は、同地域において生産される包丁や鋏などの刃物類の総称で、鍛冶職人(火造り)と研ぎ職人(刃付け)の分業制による、伝統的な製法によって生産されています。 日本刀の製造技術を礎とし、鉄砲や、後に品質の高さから江戸幕府の専売品となるタバコ包丁の製造などを通して発展していきました。

それでは、コアな方向けの規格マンホール。まずは中央に市章、周囲は蜘蛛の巣上の放射線。外周に矢印を並べた下水用のマンホール。

明治28年(1895年)6月制定の市章は「「堺」の地名は旧摂津国と旧和泉国、そして旧河内国の三国の「境(さかい)」に発展したまちであることから付いたといわれています。市章は、この由来を受けて市の字を三つ組み合わせたものです。」公式HPより

マンホールサイズのカラー規格:上水道仕切弁

空気弁

消火栓

止水栓

災害用と書かれた小型マンホール

公共基準点のハンドホール

堺市上下水道局マスコットキャラクターは琵琶湖出身の『すいちゃん』。血液型はH2O型、元気一杯で明るく、礼儀正しい水の妖精の男の子。なんでも水に流せるやさしい性格ですが、汚れたものを水に流すのは絶対に許しません。

撮影日:2009年6月13日&2015年10月9日&2017年4月25日

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ご当地マンホール in 大阪府堺市:デザイン蓋

2022年11月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

堺市(さかいし)は近畿地方の中部、大阪府の中南部に位置する市です。大阪市、松原市、羽曳野市、富田林市、大阪狭山市、河内長野市、和泉市、高石市に隣接。地名は旧摂津国と旧和泉国、そして旧河内国の三国の「境(さかい)」に発展したまちであることから付いたと言われ、「境」・「左海」などとも表記されました。大阪府で人口・面積が第二の政令指定都市。古代には仁徳天皇陵古墳をはじめとする百舌鳥古墳群が築造され、中世には海外交易の拠点として「自由・自治都市」を形成し、わが国の経済、文化の中心地として繁栄してきました。戦後、臨海コンビナートと泉北ニュータウンの造成を経て、約82万人の人口を有する都市に発展。世界遺産をはじめとする類稀な歴史文化資源を擁しています。「市の木:柳」「市の花:ハナショウブ」「市の花木:ツツジ」「市の鳥:モズ」を制定。

キャッチフレーズは「未来へ飛躍する自由・自治都市 ~安らぎ・楽しみ・活躍する場として「希まれるまち」へ」

慶応4年(1868)、堺県を設置。1876年、奈良県を併合。

明治13年(1880)、郡区町村編制法施行により堺区が設置。

1881年、堺県が大阪府に併合される。

明治22年(1889)、市町村制の施行により、堺区が堺市へ移行。

1894年、大鳥郡向井村大字七道を編入。

1920年、泉北郡向井町・湊町を編入。

1925年、泉北郡舳松村を編入。1926年 泉北郡三宝村を編入。

1938年、泉北郡神石村・五箇荘村・百舌鳥村・南河内郡金岡村を編入。

1942年、泉北郡浜寺町・鳳町・踞尾村・八田荘村・深井村・東百舌鳥村を編入。

1957年、南河内郡北八下村を編入。1958年 南河内郡南八下村(西部)・日置荘町を編入。

1959年、泉北郡泉ヶ丘町を編入。

1961年、泉北郡福泉町を編入。

1962年、南河内郡登美丘町を編入。

2005年、 南河内郡美原町を編入、現在に至ります。

マンホールには、現存する日本最古の木製洋式灯台の一つとして国の史跡に指定されている「旧堺燈台」が描かれています。

「旧堺燈台」

1989年の市政100周年を記念して作られたマンホールには、「旧堺燈台」と「南蛮船」がデザインされています。

堺市上下水道局展示蓋

池田市マンホールサミット展示蓋

鴻池水未来センター展示蓋

2006年4月1日 、政令指定都市移行記念のマンホールには、荒海を行く「南蛮船」と「市の花:花菖蒲」「市の花木:ツツジ」がデザインされています。

大仙公園・堺市都市緑化センター内「里山の庭」の蛍と、市の花「花菖蒲」が描かれたマンホール。堺市で絶滅が危ぶまれたていた蛍が復活したと言う事で、季節には鑑賞会も開催されています。

市内で最も多くみられるデザインマンホールには、市章を中心に「市の花:花菖蒲」と「市の花木:ツツジ」、それに「市の鳥:モズ」がデザインされています。

ポイ捨て防止啓発マンホールには、市の鳥「モズ」がモデルとなった『モッピー』。『モッピー』は、1997年の「なみはや国体」キャラクターとして誕生しました。

「ポイ捨てのないきれいな街に」と書かれたシールタイプマンホール。中央のキャラクターは『松本零士氏』デザインによる「堺市世界民族芸能祭・ワッショイ2000」の『ワッピー』です。

撮影日:2009年6月20日&2015年10月9日&2017年4月25日

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大阪府堺市A第1弾&B第16弾のマンホールカード

2022年11月21日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

2016年4月1日、第1弾として全国28自治体で30種類の マンホールカードの配布が 開始されました。「堺市A」のマンホールカードは、「堺市上下水道局(さかい利晶の杜 受付に変更)」でいただけます。

1988年に設置開始されたマンホールには「旧堺灯台」と「南蛮船」がデザインされています。

裏面には上記マンホールと、「旧堺灯台」の写真とデザインの由来が書かれています。

「堺市政100周年を記念して、1988年に旧堺灯台と南蛮船をデザインしたマンホール蓋を作成しました。中世の堺は貿易港として黄金の時代を迎え、対明貿易や南蛮貿易など海外との交流拠点として発展しました。その時代に堺を行き交った南蛮船がモチーフとなっています。また、マンホール蓋に描かれている旧堺灯台は、明治10年に築造された高さ11.3mの六角錐形の灯台です。建造から約一世紀の間、大阪湾を照らし続けていましたが、臨海部の埋め立てが進み、昭和43年に役割を終えました。現存する日本最古の木造洋式灯台として国指定史跡になっています。」

座標軸マンホール

配布先:堺市上下水道局展示蓋

旧堺灯台

訪問日:2017年4月24日

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堺市Bのマンホールカード、頂きました。

2022年1月15日、第16弾として全国41自治体で42種類(累計607自治体837種)の マンホールカードの配布が 開始されました。「堺市B」のマンホールカードは、「堺市役所」でいただけます。

2020年に設置開始されたマンホールにはアルフォンス・ミュシャの「黄道十二宮」がデザインされています。

裏面には上記マンホールと、「黄道十二宮(0896年作)」と「堺アルフォンス・ミュシャ館」」の写真とデザインの由来が書かれています。

「本マンホール蓋に描かれている「黄道十二宮」の作者であるアルフォンス・ミュシャは、19世紀末から20世紀初頭のアール・ヌーヴォーの代表的画家です。 堺市が所蔵する約500点の作品は、新婚時代に市内に過ごしていた株式会社ドイの創業者故土居君雄氏が収集したもので、世界有数のコレクションとして「堺 アルフォンス・ミュシャ館」にて展示しています。 本マンホール蓋を含めて12種類のミュシャ作品をデザインした蓋を堺東駅前の商店街に設置しています。 ぜひミュシャ館とともに、黄道(太陽が通過する天球上の道)上の12星座を意味する作品のマンホール蓋を訪ねてください。」

 

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