車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

2019年を振り返って

2019年12月31日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

早いもので、今年も残すところあと一日・・8時の投稿なので、正確にはあと14時間。

年々感じることですが、一年が本当に早い・・右を向いて左を向いて、正面を向いたら大晦日😅 きっと来年はもっと早く感じるんだろうなと思いつつ、日々を一生懸命に生きています。

今年を振り返って何が記憶に残ったんだろうと考えた時、最初に浮かんだのが4月の島根への旅。島根の某地区で開催される春の神楽大会、何と今回が最後という事でどの演目も見応え満点でした。

ですがそれ以上に忘れられないのは、神楽鑑賞の当日に手首を骨折した事。あの痛さときたら・・😭 それでもその痛みに耐えて、最後まで神楽鑑賞をした私って・・ある意味凄いと思います😅

 

骨なんて折れてない!単なる捻挫だと言い聞かせて、ごまかして来ましたが、夕方には限界。土地勘も無い見知らぬ土地での病院探し、できたのはレントゲンと応急処置だけでした。

それでも暮れ行く見知らぬ土地で見た病院の灯りは、正直どれほど心強く思えたことか、結局、予定を切り上げ、かかりつけの医師に診て貰うべく、帰宅となってしまいました。手首の骨?・・ちゃんと?折れてました😭

最後に、今年一番の思い出は、猫の額ほどの庭に植えていた、3本の梅の木を伐採した事 。毎年春には紅白の花を咲かせ、可愛いメジロたちの餌場になり、梅干や梅酒にもなった梅。

毎年の消毒や、伸びすぎた枝の剪定がしんどくなってきた事、それが伐採の理由でした。

引っ越した時には枯れ木にしか見えなかった紅梅・白梅。剪定をし、土を耕して肥料をやり、蕾がつくのに三年掛かり、その翌年には10k近くもの実をつけて、梅干作りに悲鳴を上げたのも忘れ難い思い出です。

そうそう、10月には大阪府池田市の五月山で、第9回マンホールサミットがありました。11弾のカード先行配布のチャンスと有って、今回も沢山のファンで大賑わい。

大賑わいすぎて、各種のイベントも横目で見るだけ・・それはそれで、切ない思い出となりました。

すでに11弾まで配布されたマンホールカードですが、実は少々息切れを感じています。

手を伸ばしてやっと捕まえたと思った瞬間、まるで「逃げ水」のように出現する配布先。それが「行けなくは無いけどかなり遠方」、「つい最近徹底的に観光した」場所だと、その挫折感は容赦なく精神を蝕みます😔

4月に神楽の鑑賞を兼ねて足を伸ばした島根のいわゆる石見地方は、隅から隅まで見尽くした感があります。それでいて9月に再び同じコースで島根に出向いたのは、ただひたすらカード収集の為だけ・・・、なのに12月には津和野町の隣の萩市が配布。太田・益田へ行く為に通り過ぎたた出雲市も・・そろそろカード収集も潮時かなと思う大きな一因になりました。

正直・・・ご当地マンホールを探して一喜一憂していた頃が、懐かしく思えてなりません😥

さて、来年の車中泊の旅はどこに行こうか?・・今しかいけない、うんと遠くまで行きたいね。年を重ねるごとに、一年一年が愛おしく、出会う全てが大切な思い出となって心に残ります。

2019年は各地で大きな災害が頻発し、いつもの暮らしに戻れない方がまだ大勢居られます。こうしてパソコンに向かっていられる今が、どれほど恵まれたものであるか改めて思います。

明ける年が良い年でありますように・・・すべての命あるものに、等しく優しい日々でありますように

2019年12月31日

 

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本龍寺と芭蕉句碑 in 岐阜県垂井町

2019年12月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

垂井町垂井に境内を構える、浄土真宗大谷派寺院「東光山:本龍寺」。『阿弥陀如来』を本尊とします。
山門・書院の玄関は、垂井宿脇本陣から移築したものといわれ、明治11年(1878)10月の天皇御巡幸の折に、こちらで御小休された旨の碑がたてられています。

山門から続く白漆喰の塀には、四体の唐獅子の瓦が嵌め込まれており、これにはびっくり!

それぞれの表情が実に細かく作られており、狛犬愛好家ならずとも嬉しくなる代物。

なまこ壁が美しい蔵は「経蔵」でしょうか?説明があったかもしれませんが見逃しました。屋根の留蓋瓦の獅子も、唐破風(からはふ)の屋根に絡みつく龍も、どれもこれも素晴らしい。 芭蕉の句碑が見たいという私に付き合わされた格好のご亭主殿でしたが、上々の収穫になりました。

「創建は不詳、室町時代の文明元年(1469)に蓮如上人が巡錫で当地を訪れた際、当時の住職がその教えに感化され、浄土真宗の寺院として再興したと伝えられています。」

元禄4年(1691)、『芭蕉』は住職であった『規外』を訪ね、冬籠もりして句を残しています。境内の「作り木塚」は、文化6年(1809)に住職『里外』と『白寿坊』によってつくられました。

建立された碑の数は六基

【 今からは  雪見にころぶ 人は誰 】規外

後方の少し丸みをおびた句碑が『芭蕉』が冬篭りで読んだ句。

【 作り木の  庭をいさめる 時雨かな 】(造園したばかりの庭は何とも落ち着きが無い、それを宥めるかのように時雨が通り過ぎてゆく)

芭蕉句碑の横に『傘狂』【 蜂の巣や  知らぬきのふを あふながる 】 

手前に、安政2年に建立された『化月坊』【 一二丁  笠わすれたる 清水哉 】

植え込みの近くに建立されていた二基の句碑、読めそうな気がして色々試しましたがダメでした。説明では文化6年(1809)に、当時の住職『里外』と『白寿坊』が句碑を建立したと記録にあります。と言うことは、この二基が『里外』と『白寿坊』の句碑かなとも思ったのですが、不明なまま。こういうのが一番イライラするのですが、分からないものはどうしようもありません😩

訪問日:2018年10月9日

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ご当地マンホール in 岐阜県垂井町

2019年12月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

不破郡垂井町(たるいちょう)は岐阜県西部、濃尾平野の西端に位置する町です。大垣市、揖斐郡揖斐川町、池田町、不破郡関ケ原町、養老郡養老町に隣接。中世には中山道の宿場町、美濃路の分岐点、南宮大社の門前町等、美濃国の中心として栄えてきました。また、戦国時代に豊臣秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛所縁の地としても有名で、菩提山城跡やその一族の竹中氏陣屋などが残されています。町名は、古くより「水の垂る泉」として歌枕によまれた「垂井の泉」からと云われています。「町の木:ケヤキ」「町の花:ツバキ」を制定。

キャッチフレーズは「人と町が輝く 地域共生都市~さらなるやさしさと活気を求めて~」

明治22年(1889)、町村制の施行により不破郡垂井町が発足。

1954年、不破郡岩手村、府中村、宮代村、表佐村と合併、改めて垂井町が発足。同年、合原村を編入。

マンホールには「相川の桜と鯉のぼりの共演」、周囲に「町の花・椿」が描かれています。

昭和37年(1962)7月31日制定の町章は「垂井町の「垂」の字を図案化したものです。」公式HPより

凝ったデザインが多い集排のマンホールですが、垂井町では一般的な規格蓋

「町の花・ツバキ」と、中央に町章が描かれた側溝蓋

自治体を現すものが何も無い規格仕切弁ですが、下水道関連の蓋は量水器以外、これ一枚のみ。

撮影日:2012年5月13日&2017年5月14日

&2018年10月9日&2019年12月17日

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岐阜県垂井町のマンホールカード

2019年12月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

2019年12月14日、第11弾として全国63自治体で66種類(累計502自治体605種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「垂井町」のマンホールカードは、「垂井町役場:上下水道課」、「垂井町観光案内所」でいただけます。

2002年に設置開始されたマンホールには「相川沿いの桜並木」と「鯉のぼり」」がデザインされています。

 

「垂井町の春の風物詩である「相川鯉のぼり一斉遊泳」を中心に、町の花「椿」ー配置されたデザインとなっています。「相川鯉のぼり一斉遊泳」は毎年三月下旬から五月上旬に行われる垂井町を代表するイベントで、町内を流れる相川上流を350匹の鯉のぼりが雪が残る伊吹山と堤防にならぶ200本のソメイヨシノを背景に泳ぎます。これらを同時に写真に収めることができる場所は、全国的に見ても非常に珍しく、インスタ映え間違いなしの撮影スポットです。春にしか見ることのできないこの絶景を、マンホールで一年中感じていただけます。」

座標軸マンホール

 

垂井駅北口の座標軸

訪問日:2019年12月17日

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関ヶ原古戦場跡 in 岐阜県関ヶ原町

2019年12月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

戦国時代を終焉させ、その後の300年近くに及ぶ徳川幕府の時代を決定づけた「関ヶ原の戦い」。日本史上最大級の激戦が繰り広げられた痕跡を伝えるものは、三成・家康の旗印に囲まれた「史跡:関ヶ原古戦場」の碑のみ。

史跡:関ヶ原古戦場の北西に位置する小さな山、そこが西軍:『石田三成』が陣を布いた笹尾山。その山頂には「石田三成陣跡」の石碑も置かれているそうですが、流石にこの頼りない足では無理そう😔。

笹尾山の麓には、敵からの攻撃を防ぐために設置された馬防柵が、幾重にも復元されていました。馬防柵の向こうに広がる関ヶ原の風景はおだやかで、そこが激戦地であったことが嘘のよう。まさに、兵(つわもの)どもの夢の跡

地の利を占め、一時は優勢であった三成率いる西軍が、決戦から数時間で大敗を喫した戦い。諸説ある中の一つかもしれませんが、その原因となったのが、『小早川秀秋』の裏切に呼応した『脇坂安治』ら四将の裏切りでした。
西軍に組しながら、西軍と東軍の最も重要な局面を迎えてからの『小早川秀秋』の裏切・・ファンの人にはあらかじめ「ごめんなさい」という事で、今でも心情的に彼の事が嫌いです😅

下の看板は関ヶ原駅の観光協会前にあった『石田三成』と『徳川家康』。他にも町中が「関ヶ原」一色といっても過言ではないほど、まぁ、町そのものが関ヶ原ですから😅

町役場の近くにある「関ヶ原町歴史民俗資料館」の周囲には、当時の武将たちの旗印が一杯!何しろ、町のあらゆる場所に、名だたる武将の陣跡が史跡として残っているのが関ヶ原町。 日本の戦国史上、これほど有名な戦いは無い・・となれば、観光資源にならない方が不思議。

戦国時代の覇権争いというと歴史マニア向きですが、お子様向けには有名な武将の顔出しもあります😃 ちなみにご亭主殿に顔出しを依頼したら、全く迷いなしで、『石田三成』に直行。

顔出しの後ろに『山口誓子』の句碑【 雪つみて  全白となる 関ヶ原】

「資料館」と道路を挟んだ芝生広場の一隅に、白い鳥居の「御霊神社」が鎮座。関ヶ原の戦いで亡くなった、幾万もの将兵の御霊を祀る為、昭和55年(1980)に建立されました。

訪問日:2018年10月19日

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中山道今須宿~関ヶ原宿 in 岐阜県関ヶ原町

2019年12月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

ついつい何度も足を運んでしまう地域と言うのがありますが、この岐阜県もその一つ。2010年、2011年、2012年、2017年、2018年・・振り返って確認すると、自分でも可笑しいくらい、折につけて旅先に選んでいたようです。
さて、この地は滋賀県と岐阜県との県境。中央にある小さな溝、それが中仙道:美濃と近江の国境となっています。

溝の横には「近江美濃両国境」と書かれた標柱が建ち、根元には「初代標柱基礎石」があります。溝の左側が岐阜県、右側が滋賀県。岐阜県側には「寝物語」に関係する碑もありますが、読めません。代りに滋賀県側に「寝物語の里」の碑と説明。
「その昔、奥州に落ち延びた源義経を追っていた静御前は、旅の道中で長久寺の近江側に宿をとりました。隣の美濃側の宿には義経の家来の源造が泊まっており、それに気づいた静御前が「義経に会うために、奥州まで連れて行ってくれ」と源造に懇願した、というやり取りがあったそうです。両国の宿に泊まる旅人が、寝ながらこの話をしていたことから、「寝物語の里」して今もなお語り継がれています。」

某所で見かけた「広重:木曽海道六拾九次之内・今須」にも「寝物語の里」が描かれています。

そこから数百メートル先に、「奥のほそみち 芭蕉道」と書かれた、いくつかの碑。奥にある大きめの碑には「おくのほそ道」と題し、細かい文字がびっしり刻まれています。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」という序文で始まる、馴染み深い文章。文中と〆には【 行春や 鳥啼き魚の 目に泪 】【 蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ 】の句。

手前に自然石に刻まれた芭蕉句碑、横に解説と「野ざらし芭蕉道」と句が刻まれた碑。句は、貞享元年(1684)十二月 芭蕉が郷里で越年の為、熱田よりの帰路、今須を過ぎるときに吟じたもの。

【 正月も 美濃と近江や 閏月 】【 年暮れぬ 笠きて草鞋(わらじ) はきながら 】

国境から今須宿方面へ向かい、中山道から少し外れた場所に「車返しの坂」。坂の由来は特記するほどでもなく😅、途中に石碑と頂上に「車返地蔵尊」が安置されています。

今須宿は、中山道美濃十六宿の最西端にあった宿場ですが、当時の面影はあまり残っていません。わずかに今須宿の西端に、文化5年(1808)に京都の問屋・河地屋が奉納した常夜灯が残されています。

「脇本陣・本陣」が建っていた痕跡は、今須生活改善センターの前に立つ碑だけ、流石にこれは・・・😓

日本橋から114番目の「今須一里塚」。往時の一里塚は国道工事で削られた為、改めて復元したものです。

中仙道を更に登り、山間の小さな集落に入ると「常磐御前の墓」と書かれた案内があります。小さな公園の一画、一段高く作られた場所に、ささやかな宝篋印塔と五輪塔が並び建っています。 向かって左が『常磐御前』の墓と伝えられており、木曽路名所図会にもこの墓が掲載されています。『常盤御前』といえば義経の母として有名ですが、その生涯は数奇で謎の多い人物だったようです。

「常磐御前の墓」の傍らに『芭蕉』の句碑。【義ともの 心に似たり 秋の風】  裏面に春香園の句【げに風の 音も澄みけり 秋の松】

芭蕉の句碑の横『化月坊』の句碑【その幹に  牛も隠れて さくらかな】
案内板に書かれていたから紹介できますが、そうでなければ絶対に読めません。

奈良時代に設置された不破関の発掘資料などが展示されている「不破関資料館」。中々興味深くはありますが、芭蕉の句碑探しに手間取ってしまったので外観だけ。

本当なら不破関跡まで行きたかったのですが、徒歩でと言うことなのでここもパス。と言っても、見たかったのは芭蕉の句碑(秋風や 藪も畠も 不破関)だけなんだけどね😄。

訪問日:2018年10月19日

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ご当地マンホール in 岐阜県関ヶ原町

2019年12月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

不破郡関ケ原町(せきがはらちょう)は、岐阜県の西南端、伊吹山の南東麓に位置する町です。大垣市、不破郡垂井町、揖斐郡揖斐川町に、また県を跨いで滋賀県米原市に隣接。北は伊吹山を主峰とする伊吹山地、南は鈴鹿山脈に囲まれ、平野部でも海抜100m~200mの高低差があり、変化の多い地形が特徴。町土の約80%を山林が占め、豊かな緑と史跡に恵まれ、古来より交通の要衝として栄え、天下分け目の戦いが二度(壬申の乱・関ケ原の戦い)行われた地としても有名です。古代には三関の一つ不破関が置かれ、江戸時代までは中山道の沿道で、現在も名神高速道路や東海道新幹線などが通り、交通の要所となっています。「町の木:杉」「町の花:梅」「町の鳥:雷鳥」を制定。

キャッチフレーズは「歴史・自然・人とのふれあいのまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、不破郡関ケ原村・松尾村・藤下村・山中村・相川村・玉村・今須村、岩手村が発足。

1897年、不破郡関ケ原村・松尾村・藤下村・山中村と相川村野上地区が合併、関原村が発足。

1928年、関原村が町制を施行、改名して不破郡関ケ原町となる。

1954年、不破郡玉村・今須村、岩手村の一部と合併、改めて関ケ原町となりました。

マンホールには町章を中心に「兜」「町の木・スギ」「町の花・ウメ」が描かれています。(関ヶ原ICから関ヶ原駅に向かう途中の歩道)

今須地区集落排水マンホールも同じデザインですが、地名が「関ヶ原」から「今須」に変わっています。

昭和46年(1971)3月16日制定の町章は「関ケ原町の"セ"を図案化、古戦場で有名な町のシンボルを(兜)でかたどりインターチェンジ、伊吹山ドライブウエイ等の意を含めて観光地を表現している。鍬形にあたる円とシャープな線で円満と団結躍進を象徴したもので近代感覚の香りも高い躍進大関ケ原町のシンボルである。」公式HPより

関ヶ原町の町の花「ウメ」がデザインされたタイル。

関ケ原町マスコットキャラクター『武者丸』。乙女男子(意味不明)犬で、肉食ワンコらしいです。「乙女男子」なる言葉がいま一つ理解できなくて調べたところ、女装した男子とか・・・😅『武者丸』は、普通に鎧兜の具足を身に着けた男の子(犬)にしか見えませんが・・??

関ケ原町「不破関資料館」で見かけた『あすはちゃん』。第39回全国育樹祭のマスコットキャラクター。1本の苗木を持って掲げる姿は、森を守り、その森の恵みを未来へつなげる使命を表しているのだそうです。

撮影日:2012年5月13日&2018年10月19日

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ご当地マンホール in 岐阜県

2019年12月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

岐阜県(ぎふけん)は日本のほぼ中央に位置する県です。富山県、石川県、福井県、長野県、愛知県、三重県、滋賀県に隣接。21市9郡19町2村を擁し、県庁所在地は岐阜市。岐阜県北部の飛騨地域は、御嶽山、乗鞍岳、奥穂高岳など、標高3000メートルを超える山々が連なり、南部の美濃地域は濃尾平野に木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が流れ、特に長良川中流域は「日本の名水百選」に選ばれるほど美しい清流で、古くから「飛騨の山、美濃の水」という意味で「飛山濃水」の地と呼ばれてきました。地名は、稲葉山に居城を移した織田信長が、尾張の禅僧『沢彦宗恩』が進言した「岐山・岐陽・岐阜」の3つのうちから選んだものといわれています「中部山岳国立公園」「白山国立公園」「飛騨木曽川国定公園」「揖斐関ヶ原養老国定公園」、また「世界遺産:白川郷」や「下呂温泉」など、多彩な観光地を擁します。「県の木:イチイ」「県の花:レンゲ」「県の鳥:雷鳥」「県の魚:鮎」を制定。

キャッチフレーズは「飛騨、美濃の国 ぎふ」「清流の国 ぎふ」

明治4年(1871)、廃藩置県により美濃国に今尾県、岩村県、大垣県、加納県、郡上県、高富県、苗木県、野村県を設置。同時に高山県が信濃国の一部と合併し、筑摩県が成立。

1872年、美濃国の八県が合併、岐阜県が成立。

1876年、筑摩県を廃止し、吉城郡、大野郡、益田郡を合併。これによりほぼ現在の県域となります。

マンホールには「GIFUの”G”をデザインしたシンボルマーク」が一面に描かれています。

「GIFUの”G”をデザインしたものです。点から線、線から面へと力強く広がっていく岐阜県の姿をあらわしています。」公式HPより

昭和7年(1932)8月10日制定の県章は「岐阜県の「岐」をもとにして作ったマーク。まわりを丸くかこんであるのは平和と円満をあらわしています。」公式HPより

中央に県章が入った「電気」マンホール

「県章」が中央に入った側溝蓋、

岐の文字が入った側溝蓋

中央に「水」をイメージした「水資源開発公団のロゴマーク」が入った、木曾川水系の空気弁。

「清流の国ぎふ」のマスコットキャラクター『ミナモ』は、川の水面に住むキラッキラの妖精。2012年に開催された「ぎふ清流国体・ぎふ清流大会」のキャラクターとして登場しました。

岐阜県警察のシンボルマスコット『らぴぃ』は、県の鳥「雷鳥」をイメージして誕生。美濃の水をイメージしたブルーの帽子の「GP」は、GIFU・POLICEの略だそうです。

「C」と5つの「花弁」をモチーフにしたロゴマークは、中部電力株式会社のマンホール。

岐阜県は好きな自治体の一つで、特に飛騨と呼ばれる地域には2010年・2017年・2018年と三度、車泊旅で訪問しました。それでもまた行きたいと思わせる魅力的な自治体です。

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茨城県日立市のマンホールカード

2019年12月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・茨城県

2019年8月7日、第10弾として全国61自治体で61種類(累計455自治体539種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「日立市」のマンホールカードは、「日立市役所下水道課、休日:ぷらっとひたち」でいただけます。

2018年に設置開始されたマンホールには、「日立風流物」と「市の花・桜」がデザインされています。

「この蓋は「日立風流物」、市の花「さくら」、市の鳥「ウミウ」をモチーフに制作したものです。 ユネスコ無形文化遺産に登録されている「日立風流物」は、5層仕立ての山車の各段でからくり人形芝居が演じられます。毎年春に開催される「さくらまつり」では、日本さくら名所100選にも選ばれている平和通りの約1㎞の 桜のトンネルとともに、その美しさ・華やかさで皆様をお出迎えいたします。また、本市は全国で唯一のウミウの 捕獲・供給地であり、11か所の鵜飼地へ供給しています。蓋の色は桜色を基調ととした色彩豊かなものとなって おり、一枚の蓋で本市の、恵まれた自然や特色が表現されています。」

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日立市(ひたちし)は茨城県の北東部、県北地域に位置する市です。高萩市、常陸太田市、那珂市、那珂郡東海村に隣接。日立鉱山から発展した鉱工業都市で、明治38年(1905)には江戸時代から採掘されていた日立村の赤沢銅山を『久原房之助』が買収、村名にちなんで日立鉱山に改名し「久原鉱業所」を創業。以来、日立製作所・日立グループの企業城下町として知られる事となります。南北に大きく伸びた海岸線を持つ事から、市内には6箇所の海水浴場があり、また市北西部の日立鉱山には大正3年(1914)に煙害対策として当時世界一の高さ155.7mの大煙突が建てられ、鉱工業都市日立のシンボルとして長く親しまれてきました。「市の木:ケヤキ」「市の花:桜」「市の鳥:海鵜」「市の魚:サクラダコ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、多賀郡日立村・高鈴村(1925年より助川町)が発足。

1939年、多賀郡日立町・助川町が合併、日立市が発足。

1955年、多賀郡多賀町・日高村・久慈郡久慈町・坂本村・東小沢村・中里村を編入。

1956年、多賀郡豊浦町を編入。

2004年、多賀郡十王町を編入

キャッチフレーズは「いいね!がいっぱい 日立市」

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茨城県龍ケ崎市のマンホールカード

2019年12月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・茨城県

2019年8月7日、第10弾として全国61自治体で61種類(累計455自治体539種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「龍ケ崎市」のマンホールカードは、「龍ケ崎市役所都市整備部下水道課、休日:市民窓口ステーション」でいただけます。

1989年に設置開始されたマンホールには「牛久沼」と「白鳥」、「筑波山」がデザインされています。

「龍ケ崎市の牛久沼の背景に筑波山をデザインし、龍ケ崎市のシンボルである市の木(松)・花(桔梗)・ 鳥(白鳥)を盛り込み製作されたマンホール蓋です。 牛久沼は、全域が龍ケ崎市にある沼でうな丼発祥の地といわれています。 冬には白鳥が飛来し、水面を優雅に泳ぎ、まばゆいばかりの純白の姿があたたかい市民の心を象徴しています。 松は龍ケ崎城主の土岐氏が治水の為に並木通りに植えた木であり、龍ケ崎の気候・風土にも適しています。 桔梗は、龍ケ崎城主土岐氏の家紋の花です。また、写真下部にある「汚」の字は、当時の市長の自筆によるものです。」

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龍ケ崎市(りゅうがさきし)は茨城県の南部、県南地域に位置する市です。東は稲敷市・河内町に、南は利根町、西は取手市および牛久沼を挟んでつくば市・つくばみらい市に、北は牛久市に隣接。市西部には一級河川の小貝川が流れ、流域には支流や湖沼が点在。北部は関東ロームの堆積する稲敷台地。南部は利根川と小貝川に挟まれた沖積平野で、豊かに広がる水田地帯は県南の穀倉地帯としての核を成しています。「市の木:松」「市の花:桔梗」「市の鳥:白鳥」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、河内郡龍ケ崎町が発足。

明治29年(1896)、郡制の施行により、河内郡(小野川村を除く)・信太郡(東村・中家村を除く)の区域をもって稲敷郡が発足。

1954年、稲敷郡馴柴村、大宮村、八原村、長戸村、北相馬郡川原代村、北文間村を編入、同日市制を施行し、龍ケ崎市が発足。

1955年、北相馬郡高須村高須・大留の一部を編入。

キャッチフレーズは「人が元気 まちも元気 自慢したくなるふるさと 龍ケ崎」

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