車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 徳島県牟岐町

2020年09月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

海部郡牟岐町(むぎちょう)徳島県南東の海岸沿いに位置する町です。海部郡美波町・海陽町に隣接。町の中央には牟岐川が流れており、その流域沿いに街があります。太平洋に面した断崖絶壁沿いに位置しているため、かつては土佐街道の難所でしたが、現在は改善され、徳島県と高知県を結ぶ通過点となっています。沖合には徳島県内最大の無人島「大島」や人の住む「出羽島」などがあります。また大島付近には、高さ10mほどに成長した世界最大級のコブハマサンゴがあり、千年サンゴとして親しまれています。「町の木:ニッポンタチバナ」「町の花:ハマユウ」「町の鳥:メジロ」を制定。

キャッチフレーズは黒潮のまち 牟岐」

明治22年(1889)、町村制の施行により、海部郡牟岐村が発足。

1915年、牟岐村が町制を施行、海部郡牟岐町となりました。

下水道関連の蓋は見つけられませんでしたが、仕切弁・消火栓には「町の花:はまゆう」がデザインされています。

昭和40年(1965)11月制定の町章は「頭文字の「牟」を円形に図案化したものです。」

漁業が盛んな町らしく、路上のタイル絵には特産物の「サザエ」や「アワビ」がデザインされています。

マンホールや上水道関連の蓋には採用されませんでしたが、「町の鳥 :メジロ」のレリーフ。

【阿波の牟岐町南に向いて 春を待たずに花が咲く ~ 沖の大島姫神様は 通う船路の守り神】
牟岐町中村の連絡船乗船場で見つけた、『野口雨情』作詞の「牟岐みなと節」歌碑。野口雨情のご当地ソングっ、驚くほどたくさん存在しているんですね😊

撮影日:2018年6月18日

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医王山:薬王寺(やくおうじ) in 徳島県美波町

2020年09月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・徳島県

美波町奥河内に境内を構える「薬王寺(やくおうじ)」。高野山真言宗の寺院で、四国八十八箇所霊場の第二十三番札所。「医王山(いおうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)」『薬師如来』を本尊とし、厄除けの寺として知られています。

これまで何度も四国八十八箇所の側まで行きながら、きちんと参拝した霊場が足摺岬の一ヶ寺のみと言うのは如何なものかと・・😔 そろそろ何かと不調を抱えるお年頃になった我々二人と友人j🐣さん、厄除の霊験あらたかな薬王寺にお参りする事にしました。

サクラの季節にはまだ少し早いけれど、ピンクの提灯がずっと奥まで誘ってくれる参道をひたすら歩く、歩く。こういうのって、進む先を見ながら歩くのは、先が長いって実感してしまうから余計疲れるんだそうです。😅

「聖武天皇(在位724〜49)の勅願によって行基菩薩が開創したとされる。弘仁6年(815)、弘法大師が42歳のとき自分と衆生の厄除けを祈願して一刀三礼し、厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とし、厄除けの根本祈願寺とした。大師は、この厄除け本尊の功徳を平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の3代に相次いで奏上したところ、各天皇は厚く帰依し、厄除けの勅使を下して官寺とされた。 文治四年(1188)、火災で諸堂を焼失。このとき厄除け本尊は、光を放ちながら飛び去り、奥の院・玉厨子山に自ら避難した。のちに後嵯峨天皇が伽藍を再建して新しい薬師如来像を開眼供養すると、避難していた本尊が再び光を放って戻り、後ろ向きに厨子に入られたと伝えられる。以来、「後ろ向き薬師」として秘仏にされている。」公式HPより

山の上だからね、階段が多いのは仕方ないんだよ・・・・病が癒える前に足が壊れそうな気もするけど😭  さぁ、この女厄坂を登り切ったら目指す本堂はもうすぐ!!

でもこれでも男厄坂に比べたらずっとマシ!上から見下ろした石段の恐怖と言ったら・・・😱 ご亭主殿!!頑張って!

本堂の前で神妙に手を合わせ、願うのはご亭主殿の息災、愛する我が子の息災、わが身の息災・・・おのれの厄も、心寄せる大切な人たちの厄も、お祓いくださいますように🙏🙏。

さて、無事にお参りも済ませることが出来ました😊。此処から先は恒例の「寺社建築に見る彫刻の美」。なんて大層に言ってますが、単に趣味に走ってるだけ。さすがに歴史ある薬王寺の本堂、手挟みの鳳凰の優雅で美しいことと言ったら!🌸!

手挟みも良いけど、この貫の龍なんてどうよ。クイッと曲がった爪の鋭さ、見返る体の柔らかさ、さすがは龍神様に祀られるのも頷ける貫禄だね🍀

それを言うんなら、木鼻の獅子だって、流石に定番だけあって安定のかっこ良さじゃないの!🐣!・・・と三者それぞれ、自分の一押し彫刻の自慢に余念がありません。

ひとしきり騒いだ後は最後にもう一度、厄災消除を願いつつ、真言を唱えながら数え年の数だけ「随求の鐘」を叩きます。

【おん ばらばら さんばら さんばら いんじりや びしゅだに うんうん ろろしゃれい そわか】

 
 ご詠歌【皆人の  病みぬる年の 薬王寺 瑠璃の薬を 与えましませ】

参拝日:2014年3月23日

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ご当地マンホール in 徳島県旧日和佐町(美波町)

2020年09月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

旧海部郡日和佐町(ひわさちょう)は徳島県の南東部に位置した町です。海部郡由岐町・赤河内村(あかがわちそん)に隣接。町域の北から西は海部山脈を背にし、東から南は太平洋に面して大きく開けています。耕地は日和佐川・赤松川・北河内谷川・奥潟川などの流域に沿って帯状に点在し、日和佐川河口には臨海平地が開け、市街地を構成。地方港の指定を受けた「日和佐港」が町の中心部をなしています。海岸線は、風光明媚なリアス式海岸で千羽海崖やアカウミガメの産卵地:大浜海岸などを有し、室戸阿南海岸国定公園の中心に位置し、1967年に「大浜海岸のウミガメ及びその産卵地」として国の天然記念物に指定されました。「町の木:クスノキ」「町の花:桜」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、海部郡赤河内村 ・日和佐村が発足。

1907年、日和佐村が町制を施行、海部郡日和佐町(第1次)が発足。

1956年、赤河内村が日和佐町を編入・町制を施行し、海部郡赤河内町が発足。即日改称、海部郡日和佐町(第2次)が発足。

2006年、海部郡由岐町と合併、海部郡美波町となりました。

マンホールには、海に向かって泳ぎ出す「ウミガメ」と町章がデザインされています。(展示マンホールは美波町庁舎内。)

昭和10年7月23日制定の町章は「上半分は「日」・下半分は「三(佐)」を表し、薬王寺に因み、旭日昇天海辺の街の発展性を表したものです」合併協議会資料より

 

撮影日:2013年3月17日

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旧海部郡由岐町(ゆきちょう)は徳島県の南東部に位置した町です。阿南市、日和佐町に、また紀伊水道を隔てて和歌山と隣接。町域は海岸線に細長いリアス式海岸でその入り江に八集落が点在。平坦地は少なく、ほとんどが山地で、太平洋に面した漁業の盛んな町で、特産品としてアワビ、サザエ、イセエビなどの魚介類、その加工品であるかまぼこなどが知られています。明治期、アメリカ船が志和岐沖で座礁した時には、村民総出で救出。それを聞いたアメリカ大統領から、銀メダルや賞状、250ドルを送られたという逸話も残されています。「町の木:うばめがし」「町の花:ツバキ」「町の鳥:メジロ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、海部郡三岐田村・阿部村が発足。

1922年、三岐田村が町制を施行、海部郡三岐田町が発足。

1955年、海部郡三岐田町、阿部村が合併、海部郡由岐町が発足。

2006年、海部郡日和佐町と合併、海部郡美波町となりました。

昭和40年5月28日制定の町章は「ひらがなの「ゆき」を図案化したもので、全体的には平 和の象徴「はと」と、本町の飛躍的発展を表現し、部分的には 「船」「いかり」「波」をかたどり、港内に浮かぶ泊船を表し、港町 を強調しています。」合併協議会資料より

(※)旧海部郡由岐町は未訪問のため、マンホール画像はありません。

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ご当地マンホール in 徳島県美波町

2020年09月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

海部郡美波町(みなみちょう)は徳島県の南東、海岸沿いに位置する町です。2006年3月31日、海部郡日和佐町と由岐町が合併して発足しました。北は阿南市、那賀郡那賀町、西は海部郡海陽町・牟岐町に隣接。南東は太平洋に望み、海岸部は、海亀が産卵をする砂浜、陸けい島、離島、海食崖、海食窪、海食洞、多様な岩礁など、非常に変化に富んだ海岸線を形成し、「室戸阿南海岸国定公園」に指定されています。また2007年7月、徳島県内では初めて美波町内の商店からレジ袋の有料化を実施し、同年10月には海部郡3町が実施。同協議会は2007年11月、農林水産省による農林水産祭 むらづくり部門の最優秀賞の天皇杯を受賞しました。 「町の木:ウバメガシ」「町の花:桜」「町の鳥:イワツバメ」を制定。

キャッチフレーズは「“にぎやかそ” にぎやかな過疎の町 美波町」

雨水用のマンホールには、日和佐のロゴマークでもあった「ウミガメ」がデザインされています。

「うみがめのくる町 ひわさ」の文字とウミガメがデザインされたマンホール、自治体章が美波町に替わっています。

2006年3月31日制定の町章は「「ミ」を流線型にデザイン化し、3枚重ねることによってリズム感を生み出すととも に、奥行きや空間感を強め、造形性を感じる。 また太陽を表した右上の円との対比も効果的であり、豊かな自然と活力をシンボ ライズしている。」公式HPより

美波町の特産品伊勢エビをモチーフにしたキャラクター『えびー太くん』。バイオの力で巨大化した伊勢エビが西暦3732年5月5日(美波にGOGOの語呂合わせ)の美波町からタイムスリップしてきました。お友達の『カレッタくん』は海がめの産卵地美波町をPRする為、竜宮城からやってきた親善大使です。

顔出しは、美波町のウミガメ戦隊『カメレンジャー』😅ここまで来るとやり過ぎという気も・・・いや、いっそ突き抜けて清々しい。

市の広報用なのか、それとも業者さんの車なのか・・・・多分前者だろうと思うのですがこの遊び心たっぷりの徹底ぶり。はっきり言って、好きです!😍!

撮影日:2014年3月23日&2018年6月18日

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美波町奥河内寺前にある「道の駅・日和佐」では、2013年と、2014年はJ🐣さんも一緒で二度、車中泊をさせて頂きました。 近くには日帰りの薬王寺温泉も有り、適度に静かで適度に町中でとても良い所です。また敷地内には色んな工夫があって、目一杯楽しむことも出来ます。植木の亀で「植亀(ウエルカメ)」・・植木が成長しすぎて微妙😅

場所柄か、お遍路さんの野宿もあり、お仲間にいたっては驚くほど沢山。朝一に産直館で買った「ちらし寿司」はユズ酢が程よくきいて、とっても美味。直感で2パック購入したJ🐣さんに、勝ち組だと自慢された事など、懐かしく思い出されます。

車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏🙏

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阿南市~ふらっとドライブ in 徳島県阿南市

2020年09月26日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・徳島県

四国南部の室戸岬から徳島県南部の海岸一帯を占める「室戸阿南海岸国定公園」。中林町の紀伊水道に面する「北の脇海岸」は、「日本の渚百選」に。また夏季に開かれる北の脇海水浴場は「とくしま88景」に選定されています。
ちょっと面白いと感じたのは「日本の渚百選」碑の文字が「阿南室戸海岸国定公園」となっている事。何となく、地元の拘りが感じられる記念碑です。

本来ならば白砂青松の美しい海岸を見る予定だったのですが、生憎のお天気・・・ (>_< ) 時折吹き付ける風が海面を叩き、小雨に混じって冷たいしぶきを運んできます。

いくら名所で、いくら予定を変えられないと言っても限度というものがあると思うのですが・・・それでも折角なのだからと来てしまう(^^;) 海岸を見に来てこんなお天気では本当にしゃれにもなりません(笑)

海岸に面した一画に朽ちかけた漁師小屋のようなものがあり、風を避けて避難することに。 そこで沢山のネコさんたちに遭遇してしまいました。どの子もどの子も、切ないくらいに人懐こく擦り寄り、頭を撫でさせます。

近くに住む誰かが与えているのか、小屋には水と煮干が置いてあります。出来うるならば、負の連鎖にならない為にも、避妊と去勢が正しくなされますように、猫好きの願いはただ一つ、どうかその時が来るまで、命をまっとうできますように・・

阿南市、今回の観光メインは、泊の岬にある、椿泊集落を見ること。観光案内によれば【四国最先端の椿泊の岬にある集落で、ハモ漁が盛んな椿泊漁港がある漁師町。約2Kmの細い道の両脇には、阿波水軍の名ごりをとどめる長い家並みが続いており、趣向を凝らした手すりを施した家も多く見られ、独特の雰囲気を味わいながら岬突端まで行き、ヒウチ岬で雄大な海を見渡せる。】ね!目一杯そそられる文句でしょう d(-_^) 

知らないって、ある意味強いというか愚かというべきか・・・車で集落まで行って、何処かに駐車して、ゆっくりと街並みを歩いて・・・
なんて考えがいかに無謀であったか・・・(^^;)、集落に入った瞬間に悟りました。 車は軽のワゴン車だし、狭い道でもそれなりに走れるだろうし、そりゃあ昔からの漁業集落だから、一応狭い道だろうとは思っていましたが、まさかこれほどとは・・・( ̄□ ̄;)!!

引き返すことも出来ず、脇に嫌な汗をかきながらどれくらい走ったのでしょうか? やっと見つけたよそ様の駐車場を無断でお借りし、集落から出た時は、本当に溜息が出ました(笑) そんなわけで、写真はいずれも車内からですが、ちゃんと撮っているところが流石の私(笑)

同じ道を通っている筈なのに、来るときには気がつかなかった光景が見えてきました。堤防に並んでぶら下がっているのは「四つ手網」と呼ばれるもので、「ヒウオ(白魚)漁」に使われるそうです。

川岸に据え、産卵のために遡上してくるヒウオを、この蚊帳網で作った四つ手網で掬い上げるという、およそ200年前から受け継がれた伝統漁法で、椿川では4月上旬まで見る事が出来るそうです。

 

訪問日:2013年3月17日


  

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ご当地マンホール in 徳島県旧羽ノ浦町(阿南市)

2020年09月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

旧那賀郡那羽ノ浦町(はのうらちょう)は徳島県の中央東部に位置した町です。北及び西は小松島市、南は阿南市、 東は那賀郡那賀川町に隣接。町域は那賀川下流北岸の平野地帯にあり、面積が県下で最も狭隘な町ですが、人口密度は県下4番目に高く、数少ない人口増加自治体です。町域には後醍醐天皇の時代に延喜式の神名帳に搭載された「式内社:和耶神社」や、「四国八十八箇所第十九番立江寺奥の院」等多くの旧跡を擁します。「町の木:泰山木」「町の花:コスモス」を制定。

阿波藩の命令によって天明八年に築かれた「万代堤」。古毛村の与頭庄屋『吉田宅兵衛充隆(3代目)』が私財を投じて工事に着手。以降5代目へと受け継がれ、明治5年(1872)まで十数回にわたって修築、改修され、那珂川の洪水から人々を守ってきました。

明治22年(1889)、町村制の施行により、那賀郡羽ノ浦村・大野村が発足。

1918年、羽ノ浦村が町制を施行、那賀郡羽ノ浦町が発足。

1954年、那賀郡大野村明見地区を編入。

2006年、阿南市に編入され、阿南市羽ノ浦町となりました。

マンホールには、町章を中心に「町の花:コスモス」と、周囲に「町の木:泰山木」がデザインされています。

昭和41年9月1日制定の町章は「羽ノ浦町の頭文字「は」を図案化し、住民の融和と団結を太い円形で表し、繁栄に向かって、はばたく姿を象徴している。」合併協議会資料より

那賀川橋北詰から堤防上を約3.5km上ると、那賀川北岸全体を潤す北岸用水の取水塔があります。この用水の取入口の道端に「国営北岸用水碑」。右手後方には祀られるのは「古毛の水神さん」と呼ばれるお社です。

撮影日:2018年6月19日

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ご当地マンホール in 徳島県旧那賀川町(阿南市)

2020年09月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

旧那賀郡那賀川町(なかがわちょう)は徳島県の東部、那賀川平野とも呼ばれる阿南平野に位置した町です。小松島市、阿南市、那賀郡羽ノ浦町に隣接。町域は那賀川の河口部、那賀川によって運ばれた肥沃な大地の上にあり、平安の昔から開けてきました。足利氏が270年間、この地に「阿波公方」として居を構えたことでも有名です。2005年11月2日に那賀川の中州に現れたメスのアゴヒゲアザラシ、特別住民票上の氏名は「那賀川 ナカちゃん」が有名でした。「町の木:松」「町の花:水仙」「町の鳥:ゆりかもめ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、那賀郡今津浦村・平島村が発足。

1915年、今津浦村が改称、那賀郡今津村が発足。

1956年、旧那賀郡今津村、平島村が合併、那賀郡那賀川町が発足。

2006年、阿南市に編入され、阿南市那賀川町となりました。

マンホールには町章を中心に「町の木:松 」と「町の花:水仙」「 町の鳥: ゆりかもめ」がデザインされています。

昭和43年制定の町章は「町の発展の動脈である那賀川を中心とし、周囲をなかがわのナとカの2文字で丸く囲んだデザインは円満な町の和を、そして上に開いたつばさは、町の無限の飛躍を表しており、豊かで住み良い平和な町を象徴しています。」旧公式HPより

「道の駅:公方の郷なかがわ」のアイドル『ナカちゃん』。アゴヒゲアザラシの「ナカちゃん」をモチーフに誕生しました。

撮影日:2013年3月17日

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「道の駅:公方の郷なかがわ」では、2013年、2014年の車泊の旅で車中泊をさせて頂きました。物産館には新鮮な野菜やお魚が一杯並び、ああ、近くにあったらと思わず嘆息しつつ、ついついお野菜を買い込んでしまい、帰るまでどうしようと悩んだことが懐かしく思いだされます。

車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

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お松大権現~其の三 in 徳島県阿南市加茂町😆

2020年09月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・徳島県

資料館の左手の鳥居を潜ると、緑のトンネルを思わせる坂道が続き、そこにも様々なお猫さんが思い思いの形で神域を守護されています。

こちらは「猫不動さま」。徐魔、除厄、除災の御神徳を持つとされる、神域の守護神。ちなみに不動尊が右手に持っている「利剣」は、迷いや邪悪な心を断ち切り、左手の「羂索(けんさく)」は、悪い心をしばり善心を起こさせる事を現します。背中に「迦楼羅焔(かるらえん)」をまとった姿で、磐石の上に鎮座されています。

そこから鋭角に上に進むと「猫大佛」さんが鎮座されています。でも折角「猫大佛」とされるのなら「招き猫さん」スタイルじゃない方が良かったと思うのですが・・😅

さらに奥に進むと、今度は定番の「七福にゃん様」😆。それはもうきっちりとお揃いで並んでおられます。

定番の「恵比寿・大黒天」、紅一点は「弁財天」。七人の中では唯一武闘派の「毘沙門天」、財力担当の「布袋」。そして南極星の化身とされ、共に長寿と福禄を担当される「福禄寿・寿老人」・・・可愛いから許可!😆

まるで猫さんのテーマパークの様相を見せている境内ですが、それは私の好みが突出した所為。そして・・こちらにあるのは猫の供養塚。「お猫さまの祠」なるものも奉納されています。

「境内社:熊野権現」。石祠の左右にはかって何処かの留蓋に居たと思われる一対の獅子が神域を守護されています。

一段高い場所に奉られるのは「境内社:荒神社」。手前にある注連縄が掛けられた板碑には「剣山本宮」と刻まれています

「観音窟」と書かれた木札の下には、観音像が刻まれた板碑。それを守るように五輪塔が並びます。こうしてみるとここは元々お寺の境内だったのかもしれません。

拝殿内に奉納されていたすらりと美しい毛並みの三毛さん・・・伝承の中では魔となり主の仇を討ち、後に猫神さまと奉られたけれども、叶う事ならいつまでも、屈託なく主様の膝でじゃれて甘えていたかっただろうにね🙏

参拝日:2018年6月19日

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お松大権現~其の二 in 徳島県阿南市加茂町

2020年09月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・徳島県

境内入り口、一の鳥居の向って右手に鎮座されるのは「高さ2mのキャラクター猫。可愛い笑顔でみなさまのご参詣をお招きしています。」とHPで紹介されているジャンボ招き猫さん。冗談抜きにインパクトあります😄

石段参道を上がった先に袖壁付きの門。内側から振り向けば、袖屋根の上にゆったりと寛ぐお猫さん一対。

どちらも寛ぎすぎて、とろけて餅化してます😅。相方さんの顔が真っ黒なのは、焼き魚の匂いにつられて、煤の中に顔でも突っ込んだのでしょうか?

境内に入れば、「日本一社」の標柱の上で、凛々しい顔立ちの招き猫さんが出迎えてくれます。

拝殿前には「お松権現」の由来の案内があり、事の顛末が細かく記されています。由来書の前には、膝を正して参拝客を迎えてくれるお猫さん。

さらに拝殿前にはゆったりと座りながら神域を守護される狛猫さん一対。つややかな体とピンと立てた耳、きっとモデルになった猫さんは美しい毛並みだったんだろうな。

頑張って神域を守護されるのは狛猫さんだけではありません。拝殿の屋根の上、ほらあんな高いところでも姿勢を正して守護の任につかれている猫さんが!

拝殿からご本殿へ、そちらにもたくさんのお猫さんが奉納されています。こちらは「さすり猫さん」。治癒したい護身の患部をこの猫に置きかえさすることにより、病魔退散のご利益があると云われています。

「さすり猫さん」と並ぶように座るのは、まるでスフインクスのような雰囲気を漂わせるお猫さん。絵馬賭けの前で両手を合わせ、何かを念じているお猫さん。絵馬に籠められた願いをこうして一緒に念じてくれているのでしょうか? 

ぎっしりと隙間もないほど詰め込まれた沢山の願い・・叶うといいですね。私たちは・・・我が家の愛すべき猫さんの長寿と健康を・・何なら「猫又」さんになってくれても構いません・・手ぬぐいだって何十枚でも用意します!!

という事で、下の境内の紹介は終わり・・・明日は少し坂道を上がった先からを紹介します。

参拝日:2018年6月19日

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お松大権現~其の一 in 徳島県阿南市加茂町

2020年09月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・徳島県

阿南市加茂町に鎮座される「お松大権現」。日本一社として、通称「猫神さま」の名で親しまれています。

約330年前の伝承により生まれた「お松大権現」。有馬・鍋島と共に日本三大怪猫伝の1つと云われています。ただ、有馬・鍋島の怪猫伝説は映画やドラマなどで知っていましたが、こちらの「お松大権現」の顛末は今回の参拝を思い立って初めて知りました。

由緒「時は天和~貞享年間(1682~1686)。阿波国那賀郡加茂村は不作続きの年をむかえ、この村の庄屋:惣兵衛は村の窮状を救うため、私有の田地五反を担保に近在の富豪 野上三左衛門よりお金を借り受けていた。返済期限も近づき、丁度通りがかりの三左衛門にお金を返すが、通りがかり故証文を受け取っておらず、庄屋 惣兵衛は間もなく病死する。惣兵衛の死後、その妻お松は幾度となく証文を請求するが渡そうとしない。後にお金は受け取っていないと偽られ、担保の五反地までも横領される。思案の末、奉行所に申し出るが、お松の華麗な容姿に心を寄せ、食指を動かそうとする奉行 越前。お松は奉行の意に応じなかったため、また三左衛門からの袖の下を受け取っていた奉行は非理非道な裁きを下してしまった。お松は権力におもねる悪行に死を決して抗議する。それは直訴であった。 お松さま 貞享3年5月、藩侯の行列をよぎり直訴、その年の3月15日、お松は日頃寵愛の猫 三毛に遺恨を伝え、処刑に殉ずる。その後、三左衛門、奉行の家々に怪猫が現れ怪事異変が続き、両家は断絶している。」公式HPより

由緒に書かれたお松さまの伝承は、資料館に展示された「宮田雅之画伯」の切り絵10点と共に順次説明されています。

犬と違って猫は自分ファーストだと常々思っている私ですが、昔から理不尽な罪で殺される飼い主の恨みを晴らすのは何故か猫。まぁ・・猫飼いなら「ある・ある」の、あの密着度を思えば、魔の物となってでも復讐を果たした三毛の心根は悲しいくらい理解できるし、「よう頑張ったね」と頭を撫でてやりたい。

拝殿扉の切り絵を並べてみると、飼い主の膝近くでおだやかに暮らしていた猫が、理不尽に主を奪われ、魔となって復讐を果たし・・飼い主と共に神となる経緯が端的に表現されていて、感動さえ覚えるほど。何しろ夫婦揃って大の猫好き。化け猫だろうがなんだろうが、主思いの猫に罪は無い!!

今は神として奉られる主と共に、勝負事・願い事の神様として知られ、受験シーズンは合格祈願の参詣者で賑わう「お松大権現」。

境内には約1万体の招き猫が奉納されており、それはもう、実に圧巻の眺め。

が・・・・1万体の招き猫さんで驚いてはいけません。「お松大権現」が「猫神さま」の名で呼ばれる所以は、境内に足を踏み入れた瞬間に納得できるのですが・・・それはまた明日のブログで😊

参拝日:2018年6月19日

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