車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

出世稲荷神社 in 島根県松江市寺町

2018年06月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

松江市寺町に鎮座される「出世稲荷神社」。主祭神は『宇賀之御魂命』
出世開運にご利益が有ると言う事で、何時からか「出世稲荷さん」と呼ばれるようになりました。

創建は不詳、案内に【元々は松江城のある亀田山に鎮座したと伝えられ、松江城築城の際にその守護神として殿町に遷宮し、社殿を建立。明治21年に現在地に遷宮されました。】

鳥居のうちから境内を守護されるのは、昭和12年4月吉日建立の広島型玉のり狛犬さん一対。広島では「お元気~♪」と言うほど目にしますが(笑)、出雲ではかなりお珍しい。

二の鳥居の奥が拝殿・・ん??、何か奇妙な違和感・・何だろう??何か足りない?・・・ああ!色が足りないんだ。稲荷神社なのに、鳥居は石の鳥居。そう言えば神狐もおいでにならなかった。

絵馬には朱塗りの鳥居と、稲荷の神狐さんが描かれているから間違っちゃいない(笑)。う~~ん、ちょっと不思議(^^;)

境内には4つの境内社があり、それぞれに四柱の祭神が祀られています。『菅原道真』を祭神とする「天満神社」。小さめな石の祠には手の込んだ細工が施されています。   

社を守護する狛犬さんは焼き物ですが、この色目がどこの土かは不明。表情も素敵で、小品であってもこうした珍しい神獣に出会えるのは嬉しいもの。

「琴平神社」。御祭神は『大物主神』

「地主神社」。御祭神は『大国主命』

最後の境内社「稲荷神社」。稲荷神社に稲荷神社の境内社というのも何だか変な感じですが、奉納された陶器の狐さんを見ると、確かに『宇賀之御魂命』が祀られているようです。 

参拝日:2011年5月18日

 

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ぶらり~松江城下の町歩き in 島根県松江市

2018年06月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

城下町松江の中心エリアに位置する「カラコロ広場」。周辺にはカフェや、ちょっとしたお食事処も多く観光客に人気のスポットとなっています。

広場の中央から見る景色は、右と左では全くの別世界。不思議の国に迷い込んだような雑多な面白さにちょっとワクワク!(^^)!

広場のお目当ては、大正15年に建設された「山陰合同銀行旧北支店」。2012年9月に「ごうぎんカラコロ美術館」として開館、館内には様々な作品が展示されています。

鉄筋コンクリート造の西洋風2階建、当時の面影を残す建物の随所に施された重厚な装飾。 こうした建築物は、部分を切り取ってもその良さが伝えきれないのが残念。その前に撮影者の腕の悪さが問題なのですが・・(^^;)

メインとなる「カラコロ工房」。ちなみに「カラコロ」は、松江大橋を渡る人々の、木橋に響く下駄の音に惹かれた八雲の文章から引用されたものだとか。そう言えば、お隣の鳥取県には、カランコロンの下駄の音が代名詞みたいな有名人がいましたが・・あれは無関係(笑)。

広場内の建物の前にあるピンクのポストは、若い女性に人気の「縁結びスポット」。大切なあの人に手紙をしたため「ピンクのポスト」に願いをこめて投函する・・それにしても何故、男女の縁=ピンクとなるのか・・・安直と言うか大衆迎合しすぎているというか(笑)

縁結びつながりでいえば、カラコロ広場の入り口には「カラコロ大黒様」が鎮座されています。 実はこの大黒様、出雲大社の大国様つながりなので、当然、出雲といえば「縁結び」。

カラコロ広場の壁に、何だか不思議な物を発見!、と思って近づいたら・・ああ、小泉八雲さん。

両手に大きなカバンを提げて遠ざかる後姿は、これから松江を出て別の土地に向かうのでしょうか。松江・熊本・神戸・東京と居を移し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く残した『八雲』。明治37年に54歳で没するまでの14年間、彼はきっとこの同じスタイルで現れ、そうして去っていったのでしょう。あなたが見てきた日本の不思議、私は今でも大好きです。

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松江の城下から少し外れた石橋町に、壁を真っ赤に塗った「カナモリ醤油」の建物があります。 「木桶の醤油」に拘り、今も創業当時の味を変えることなく美味しい醤油を作り続けています。

独特の醤油の香りに包まれて歩いていると、同じような情景の中を歩いた事を思い出しました。 赤い壁の「かめびし醤油」、あれは香川県の・・そうだ引田の町歩きだった・・・・あの時食べたソフトクリームの味が不意によみがえってきました。

訪問日:2011年5月18日&2013年5月27日

 

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ぶらり城下町~塩見縄手の町歩き in 島根県松江市

2018年06月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

松江城北側の堀沿い、明々庵から小泉八雲旧居までの約500メートルの通りは「塩見縄手」と呼ばれ、観光名所の一つとなっています。江戸時代当時の面影が今も色濃く残されており、南側堀端に連なる老松の大木は造成された当時に植えられたものと言われています。

「史跡 小泉八雲旧居(ヘルン旧居)」は、八雲が約5ヶ月間を妻と過ごした家。

明治23年、米国出版社の通信員として来日したギリシャ人『ラフカディオ・ハーン』。 最初の赴任地:松江では、約1年3か月を島根県尋常中学校の英語教師として過ごしています。この松江時代に『小泉セツ』と結婚。明治29年に日本国籍を取得し『小泉八雲』となりました。

「知られぬ日本の面影」の舞台となった旧居の庭、その一画に『小泉八雲』の胸像。 松江の風土を愛し、日本の神秘性を誰よりも深く見つめてきた彼のまなざしは、今何を見つめているのでしょう。

市のマンホールのデザインにも使われた「武家屋敷」。享保18年(1733)の大火の直後に建てられたと言われ、以来、明治維新まで松江藩の中級武士の住居として使用されてきました。

長屋門は、門の両側部分に門番の部屋や仲間部屋が置かれ、家臣や使用人の居所に利用された建物。上級武士の住宅表門の形式として広く利用されていた形式です。

主屋はおよそ67坪、表側である式台玄関(来客用玄関)から座敷に至る部分と、裏側である私生活の部分では造りも材料も特に区別がされ、武家の公私の別の厳しさを示しています。

館内には刀、槍、薙刀などの武器、裃や化粧道具・お歯黒道具など武家の日用品が展示されており、どれもみな時代劇などで一度は目にした事のある、興味深い品ばかり。

塩見縄手の外れ、赤山の地に、昭和41年:不昧公150年祭を機に移築された『松平不昧』ゆかりの茶室「明々庵」があります。

茅葺の厚い入母屋に不昧公筆の「明々庵」の額を掲げ、その内部の作りは、定石に頓着しない不昧公の好みの一端を伺うことができるものとなっています。 出雲松江藩第7代藩主『松平治郷(はるさと)』が正式な名前ですが、江戸時代の代表的茶人『不昧(ふまい)』の方が有名かもしれませんね。

国宝松江城を囲む堀は、一部が築城(1611年)と同時に造られたもので今もそのままの姿を残しています。 この堀を小船でめぐる「堀川めぐり」は観光客に人気のようで、散策中に何度も見かけました。

城と堀が当時のまま現存する城下町、時代は移りすぎても川面に影を落とす松の緑は往時のまま。 松江で最も城下町らしい佇まいを残す塩見縄手通りは、市の伝統美観地区に指定されています。

訪問日:2011年5月19日&2013年5月27日

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興雲閣(こううんかく) in 島根県松江市

2018年06月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

松江城山二の丸上の壇、松江神社の隣地に松江市が「松江工芸陳列所」の名目で建設した洋風建築「興雲閣」。 擬洋風建築最後の例とされる壮麗な館の建設費用は、当時の金額で1万3489円(約:1億4千万)。

明治天皇行幸時の御宿所として明治36年(1903)に建設されましたが、日露戦争の勃発により、当初の目的であった行幸は行われず・・それから4年後の明治40年、当時の皇太子『嘉仁親王(後の大正天皇)』の行啓が実現し、当館が宿泊施設となりました。

地上2 階建、入母屋瓦屋根に車寄せのある玄関ポーチ。その上部に掛けられた「興雲閣」の扁額は、『松平直亮(なおあき)』氏の揮毫を彫刻したもの。

当時、ロシア宮殿風といわれた建物には、その随所に華麗な彫刻や装飾が施されています。白く塗られた車寄せの天井は確かに洋風ですが、それでもさりげなく取り入れられた和風格天井の意匠。明治の黎明期に日本人の手によって作り上げた擬洋風建築、そんな職人の粋も魅力の一つ。

玄関を入って正面の階段から踊り場へ、三連の窓から差し込む光はそのまま夢の世界への招待券。 昔見た洋画のワンシーンの中に、こんな踊り場に立って客を迎える美しいヒロインがいたっけ・・

一階から見上げる大広間正面。中央に衣冠束帯の肖像画は『松平直政』公の肖像画でしょうか?記録に残していないので不明。

ポーチ上にある応接室兼拝謁所。『嘉仁親王』は、この部屋で行啓を喜ぶ人たちを迎えたのでしょう。 山陰の5月は日差しも暖かく緩やかで、病弱であった皇太子には過ごしやすかったのではと思います。

ベランダに出れば、コロネードの廻廊が更に想像力をかき立て、話しかける言葉も上品に(笑) まぁ、基本的に単純なので、こういったシチュエーションに出会うと妄想が膨らむのです。

行啓所として建てられた「興雲閣」ですが、昭和に入り戦時色が濃くなると松江地方海軍人事部庁舎、大日本防空協会島根県支部庁舎とし使われることになります。終戦後の混乱で島根県庁が焼けた後は県庁仮分室に、その後、松江市教育委員会事務局庁舎などに転用され、昭和44年(1969)に島根県指定有形文化財に指定。

昭和48年(1973)から2011年まで「松江郷土館」として、松江に関する歴史民俗資料や工芸品などを展示。 その後、2013年から2年間の保存修理工事を経て、2015年10月から一般公開が開始されました。私たちが訪れたのは2011年の5月ですから、紹介した画像は保存修理前の建物ということになります。

市のHPには2011年3月に閉館と有りますが、私たちが訪問したのは5月半ば過ぎ。館内には様々な歴史民俗資料も展示されていたし、普通に係りの方が受付をしてくださり、記念写真のシャッターまで押してくれました。今でも謎のままですが、でもきっと幸運に恵まれたのだという事だけは分かります。頂いた素敵な一時に心から感謝します。

訪問日:2011年5月19日

 

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城山(じょうざん)稲荷神社~其の二 in 島根県松江市

2018年06月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

松江をこよなく愛した明治の文豪『小泉八雲』、帰化前の名は『ラフカディオ・ハーン』。明治29年に日本国籍を取得し、出雲国の枕詞「八雲立つ」に因んで『八雲』と名乗りました。
数々の怪談話の作者としても有名ですが、小学生の頃に「ろくろ首」を読んで、何度も夢にうなされた嫌な思い出があります (ーー゛);
その八雲が松江に住んでいた頃、通勤途中に毎日のように立ち寄ったのが、この城山稲荷神社。

城山稲荷の神狐たちをこよなく愛した『八雲』。中でも特にお気に入りがあったと言います。 探す手間なんて全く不要で、有名人に愛された神狐は、このように特別な場所を提供されるのです(笑)

確かに何ともいえない優しい顔立ち、見ていれば常日頃の悩みもふわっと消えていきそうな。もともとが穏やかな顔立ちだったところに、長い年月が鋭さをすべて取り払ってしまった・・この優しい神狐を愛した『八雲』、もしかしてあのどこか悲しい怪談話の構想もここで練られたのかも。

ちなみに随身門の近くにいた比較的新しい神狐さんですが、八雲の愛した狐の復元だそうです。 特別製の台座に座り、参拝者を見る愛らしい顔立ちは、屋根の下で余生を過ごす神狐さんと同じで、穏やかに優しい。

さて、神社の言い伝えに【初代藩主の夢枕に現れた美少年は自らを稲荷真左衞門と名乗り「私はあなたを全ての災厄から守りましょう。城内に住む場所を作ってくれるなら、城内はもちろん、江戸の屋敷まで火事から防ぎましょう」と告げました。そこで早速城内に稲荷神社を建てたのが、この城山稲荷神社です。】・・・・当時、この神社のお札は火難除として市中どこの家の軒先にも貼られていたと言います。『八雲』は、これが松江唯一の防火設備であると添えて、その神札を大英博物館に送ったそうですが、果たして真の意味まで伝わったのかどうか(-_-;)。

稲荷社の境内に小さな稲荷の祠が奉納され、さらにその祠に次々と奉納される陶器の神狐。お江戸の昔から現代にいたるまで、沢山の祈りや願いを聞いて来た稲荷の神狐たち・・

それではここから先はひたすら神狐さん。何処までも神狐さん(^▽^)/

この沢山の神狐さんを画像に収める為に、ずっと中腰で頑張ったご亭主殿(^^;)

所狭しと、奉納された神狐さん。 奉納された時代も、誰の願掛けなのかも判らなくなっても、神狐たちは身じろぎもせずここに座しています。

本当はどれも捨てがたく愛着を感じるのですが、何しろその数1000体・・とても全部の紹介は無理。 だからここに紹介したのが特に良かったとか、他にぬきんでて何かあるとかでは決してありません。
ただ、たまたま何百とある神狐さんの中の何体かを画像に残していた・・と言う認識で捉えてくれればと思います。

稲荷の神狐たちを護るように、時折現れる出雲丹後の狛犬さん。

ああ・・・こちらは随分と新しい神狐さんたち

何故かカラスの背に乗った天狗さんまで・・(^^;)

御神木の下にも実は神狐さんがぎっしり!

「御供竈:藩主が毎月のお祭りや大祭に奉納するご飯をこの竈で炊いてお供えしました」

ラストは、あまた居られる神狐さんの中で何故か波長が合った一体。お体に触れた時、かなり痛かった足の痛みがふわっと和らいだように思えたのは、きっと気のせいじゃ無いよね。

参拝日:2011年5月19日

 

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城山(じょうざん)稲荷神社~其の一 in 島根県松江市

2018年06月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

昨日の記事と同じく、松江城跡内に鎮座される「城山(じょうざん)稲荷神社」。御祭神は『宇迦之御魂大神』

由緒に【創建は寛永15年(1638)、徳川家康の孫にあたる『松平直正』が藩主として入国した翌年に、藩内の安穏と繁栄を祈念して「稲荷神社」を創建。この地にあった「若宮八幡宮」を合祀して「御城内稲荷八幡両社」と称した。】

朱塗りの鳥居を潜って一番最初に出迎えてくれるのは、慶應三年(1867)奉納の出雲構え型狛犬さん一対。 阿形さんはすでに顔が欠けはじめており、向かい合う吽形さんもそこかしこに崩れが見られています。

名工『小林如泥』作の木彫りの狐を神宝とし、境内には今も1000体以上もの神狐が奉納されています。 

神狐たちが行儀よく並ぶ参道を進み、石の鳥居を潜った先に見えてくる長い石段。

石段の下の左右より神域を守護されるのは文政七年(1824)十一月吉日建立の、出雲丹後の狛犬さん一対。 過ぎていった年月は、本来ならいかつい筈の狛犬さんを丸く優しく変えていきます。

狛犬さんの手前に奉納された来待石の石灯籠、その下にも小さなも狛犬さんが大切に納められています。

参道の端に並び、まるで儀仗兵のように私たちを出迎えてくれる神狐さんたち。本当は全部紹介したいのだけど、とてもとても・・

石段途中の随神門には、それぞれの守護神像と、色鮮やかな獅子が神域を守護されています。 位置的に、画像に捉えられたのは獅子の顔だけですが、これがすこぶる楽しい(笑)

松平家城内に鎮座されている稲荷の拝殿。拝殿幕には通常の稲穂紋ではなく葵紋が染め抜かれています。

向拝には定番の龍。稲荷の社には雲を駆ける白狐が定番ですが・・・波頭を駆ける龍です(笑)

境内に整然と並ぶ神狐たち、かってこの社の境内には2000体以上もの神狐があったと言います。 人の願いがこめられた神狐たち、その願いは奉納された神狐の数以上にあった筈。

時の流れは何時の間にか狐の姿を曖昧にさせて、すでに元の土塊に戻りかけたものもいました。 それでも、その表情は見るものの気持ち一つで様々に変化し、実に多くの事を語りかけてきます。

境内に展示されていた日本三大船神事の一つ「ホーランエンヤ」の仔細。正式には「城山稲荷神社式年神幸祭」。城山稲荷神社のご神霊を約10キロ離れた東出雲町の「阿太加夜(あだかや)神社」まで船で運び、1週間にわたって五穀豊穣などを祈り、再び稲荷神社へ帰ってくる船渡御祭ですが、その仔細が説明されています。

明日は『小泉八雲』が愛した狐と共に、境内を埋め尽くす沢山の奉納狐の紹介です。

参拝日:2011年5月19日

 

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松江神社 in 島根県松江市松江城跡内

2018年06月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

松江城跡内に鎮座される「松江神社」。御祭神は、松江松平家初代藩主『松平直政公』。本殿に『徳川家康公』を合祀。松平家七代藩主『松平治郷』、松江開府の祖『堀尾吉晴』を配祀します。

由緒に【1877年(明治10年)に、旧松江藩の有志により、西川津村(現松江市西川津町)楽山に松平直政を御祭神とする楽山神社として創建された。1628年(寛永5年)、堀尾忠晴が朝酌村(現・松江市西尾町)に創建した東照宮の御神霊を1898年(明治31年)、合祀し、翌年の1899年(明治32年)に、現在地の松江城山二之丸に遷座して、神社を松江神社と改めた。1931年(昭和6年)に、松江藩中興の明主として仰がれた七代藩主松平治郷と、松江開府の祖堀尾吉晴の遺徳を称えて御神霊を配祀し、今日に至っている。】

御本殿は寛永5年(1628)、権現造の拝殿は寛文元年(1661)の建造。松江の城とは切っても切り離せない神社ですが、参拝者の姿は数人。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、とても優しい顔立ちの出雲構えタイプの狛犬さん一対。 残念な事に阿形さんの顔はごっそりと削げており、その柔和な顔を見ることは出来ません。

ですが、落ちてしまった顔は足元にまだ残されていて、こうして手を添えれば復元できます。 せっかくの良いお顔の狛犬さんなので、可能であるならば修復をお願いしたいと切に思います。

藩祖『松平直政公』によって寛永16年に建築された「手水社」。境内では一際美しい建造物。

「境内社:福徳稲荷」。御祭神は『倉稲魂命(うかのみたまのみこと)』

御神域を守護されるのは、手の上に載りそうなほど小さな神狐さん一対。表情は優しさに満ちています。 昨今の稲荷の狐というと鋭い目が定番みたいですが、昔の神狐は総じて顔立ちが穏やかでした。

参拝を終えて、ずっと気になっていた頭上から聞こえる賑やかな声を追いかけ・・・ 見れば社の木々に沢山のサギの姿・・・ああ、あれは雛を育てる親鳥たちの鳴き声だったんだね。

参拝日:2011年5月19日

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松江城 in 島根県松江市

2018年06月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

入母屋破風の屋根が羽根を広げたように見えることから別名「千鳥城」とも呼ばれる「松江城」。 現存天守は2015年に国宝に指定されており、同じように国宝に指定された天守を有する五城(犬山城、松本城、彦根城、姫路城)のうちの一つです。

松江城の歴史は、慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで戦功のあった「堀尾忠氏」が、隠岐出雲24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立したことに始まります。しかし月山富田城は中世山城であり、近世城下町形成には不利であった為、運送などに有利な宍道湖と中海を結ぶ太田川の近く、末次城跡を城地の候補としました。慶長12年、亀田山に築城を開始し四年の歳月を経て、慶長16年に落成。やがて明治の廃城令が出るまで、この城は松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となりました。

廃城令により、城内の建物は国から買い戻された天守を除いて、全て払い下げられ、撤去されました。天守も180円で売却される事となりましたが、出雲郡の豪農『勝部本右衛門』と、元藩士『高木権八』が、同額の金を国に納めるかたちで買い戻され、保存される事となりました。
彼らの働きがなければ、目の前にそびえるのは、観光地によく見られるコンクリート製の天守もどきだったでしょう。

標高29メートルの亀田山の頂上。山陰地方に現存する唯一の天守からは宍道湖が眺望できます。「堀尾家三代、京極家一代、」その後、寛永15年に『松平直政』が入府した後は、明治維新まで松平家の統治が続きました。
この日は思いの他足の痛みがひどく、本物の天守に登るには無理があると言う事で外観のみ (>_< )

穏やかな日差しの中、美しい天守を見ながら散策していると、不思議に満ち足りたような気分になります。 復元された本丸一ノ門や南多聞に囲まれて、城は美しさだけでなく雄雄しさを取り戻しました。 二の丸南櫓、中櫓、太鼓櫓と・・・本物の天守の存在は、復元された建物にも威厳を備えさせるようです。

何時間いても見飽きない景色ですが、旅の途中の二人には些か時間をとり過ぎ(^^;) まだまだ城跡には城の鎮守の社や、登録文化財の洋館など、見たいものが一杯残っています。そろそろ下城せねば。

天守部分を除く城跡は昭和初期に松江城山公園として整備され、多くの人がゆったりと時間を過ごしています。 その一角に真っ白な花を咲かせた枝を広げる「なんじゃもんじゃ」の木。本当は「ヒトツバタゴ」が正式な名称ですが、私はこの素敵に楽しい呼び名が気に入っています。

濃い松の緑が覆いかぶさるようにお堀の周りを囲み、通り抜ける風はとても心地よく流れてゆきます。 何世紀が過ぎ去ったとしても変わらないものがあるとするなら、それは木々を揺らす風、流れすぎていく水の色。

お堀の向こうに見えるのは、石垣と太鼓櫓と・・お堀に逆さまに見えるのは石垣と太鼓櫓・・・

県庁前の広場南側には、真っ直ぐ天守を見守るように『松平直政公』の馬上像。 富国・安民・質素・節財等の大綱を示し、藩政の基礎を固めたと伝え「名君」とされた松平直政。今、彼の目に映るのはどんな景色でしょう。

突然ですが(笑)、脱力しそうな風船人形は、松江開府400年祭マスコットキャラクター『あっぱれくん』。モデルは『松平直政公』だと思うのですが、本当にこれで良いんですか?直政さん・・(笑)

訪問日:2011年5月19日

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ご当地マンホール in 島根県松江市

2018年06月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・島根県

松江市(まつえし)は島根県の東部、山陰地方のほぼ中央に位置します。出雲地方に位置しています。北は日本海に接する島根半島の北山山地、宍道湖と中海、南は中国山地に挟まれた地域に広がる都市で、松江藩の城下町を中心に発展してきました。県庁所在地で山陰最大の人口を擁する中心都市です。「市の木:松」「市の花:ツバキ」を制定。

キャッチフレーズは「水と緑、歴史と教育を大切にし 伸びゆく国際文化観光都市・松江」

明治22年(1889)、市町村制の施行により島根郡・意宇郡の一部から松江市が発足。同年、八束郡津田村・川津村・朝酌村・法吉村・乃木村・竹矢村・忌部村・大庭村・持田村・生馬村・本庄村・古江村・秋鹿村・大野村が発足。

1934年、八束郡津田村を編入。

1939年、八束郡川津村、朝酌村を編入。

1948年、八束郡法吉村を編入。

1950年、八束郡乃木村、竹矢村を編入。

1951年、八束郡忌部村、大庭村を編入。

1953年、八束郡持田村、生馬村を編入。

1955年、八束郡本庄村、古江村を編入。

1960年、八束郡秋鹿村、大野村を編入。

2005年、旧松江市・八束郡鹿島町、島根町、美保関町、八雲村、玉湯町、宍道町・八束町が新設合併、新松江市が発足。

2011年、八束郡東出雲町を編入、現在に至ります。

マンホールには、塩見縄手のほぼ中央に現存する「武家屋敷長屋門」がデザインされています。

「武家屋敷長屋門」

消火栓に描かれているのは、宍道湖沿いの公園の一角に置かれた、高さ6mの来待石製「青柳楼の大灯篭」、「市の木:松」「市の花:椿」。

「青柳楼の大灯篭」

「市の花:ツバキ」がデザインされたマンホール。カラーはイングリッシュガーデン付近にのみ設置。

市章は旧・松江市制時の明治31年12月20日に制定され、新市章として継承されました。「「松」の字を公木とくずし、これを図案化するとともに、城址. 亀田山にちなみ、外郭は亀田、中は松葉を意味. しています。」HPより

仕切弁には松江城の内堀に遊ぶ白鳥が描かれています。

水道メーターには「市の花:ツバキ」と「市章」がデザインされています。

歩道カラータイルは「松江城」。現存する天守は国宝として、また城跡は国の史跡に指定されています。

松江城の堀をめぐる「ぐるっと松江堀川めぐり」の様子が描かれた歩道カラータイル。

中央に「有線」の文字があるマンホール。電話なのか他の何かなのか不明。

中央に「中国電力株式会社」のロゴマークがあるコンクリート製マンホール蓋。

松江市ガス局のガス・セクターバルブ用の角蓋。

撮影日:2011年5月18日&2013年5月27日

 

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安来(やすぎ)神社~其の二 in 島根県安来市

2018年06月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

今日は昨日に続いて、安来市安来町に鎮座される「安来(やすぎ)神社」境内社の紹介。 少し急な石段を上った先に二の鳥居があり、見た目ほど古くない出雲構えの狛犬さんが神域を守護されています。

海が近いわけでもないし、特別条件が悪いとも思えませんが、なぜか全体の磨耗が酷く・・来待石の脆さは確かに理由の一つになるでしょうが、それにしても何故この子たちだけ?。

境内社群の中ではもっとも大きい「船玉(ふなたま)神社」。御祭神はおそらく乗船海上の守護神『船玉神(ふなたまのかみ)』と思われます。 江戸時代後半、中国山地で生産された鋼は北前船に積み込まれ、安来港から各地に運ばれました。 新潟の三条、福井の武生、岐阜の関、大阪の堺、兵庫の三木、いわゆる金物の主産地。「船玉神」は北前船の船主にとっても、また一般の漁師たちにとっても大切な神なのです。

海の守り神が鎮座される社、その左右より神域を守護されるのは、文政十年(1827)10月吉日建立の出雲構え狛犬さん一対。欠損が少なく、良い状態です。

「境内社:愛敬稲荷神社」。お社左右より神域を守護をされる神狐さんのお顔は、文字通り愛嬌があって器量よし。

首の撚り藁は、平田町の「宇美神社」境内社の稲荷のお狐さんにも見られました。 赤い前垂れを奉納されたお狐さんはよく見かけますが、体と一体化した撚り藁は珍しいです。

稲荷の社の横にも小さな鳥居。さらに小さな神狐が奉納されています。

境内社『武内大神・天照大御神・八幡大神』

古い出雲構えの狛犬さん。作られた年代は不明ですが、それにしても時の流れは神の獣をこんなにも優しく変えるのですね。幼い頃にとっても大事にしていたぬいぐるみを思い出してしまいました。

「境内社:村上神社」、御祭神は醍醐天皇の第十四皇子『村上天皇』と思いますが未確認。

「境内社:清正公(せいしょうこう)」。御祭神は『加藤清正公』

他の境内社とはかなり離れた岩の上に鎮座されている高見の境内社。見上げての参拝。

境内社・荒神と御幣

参拝日:2011年5月20日

 

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