車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

下関:関門海峡~2017年~ in 山口県下関市

2024年03月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

快晴に恵まれた下関市みもすそ川町。関門海峡と関門橋のコラボはいつ見ても、見る分には最高に素敵です。(橋の上を走るのは真剣に怖い)

スタートは「関門隧道建設の碑」「~昭和14年先ず試掘隧道を完成し同年から十年継続事業として本隧道に着工。第二次大戦が起こり工事は困難を極めたが昭和19年12月全線の導坑を貫通。しかし戦災の為工事は一時休止となり、昭和27年に再開。~着工以来実に二十有一年我が国土木技術の粋と人の和によって築かれた画期的大事業であって、その間建設に従事した者四百五十万人、職に殉じた者五十三人、総工事費五十七億円の多きに達している。」碑文より

今回も、飽きもせずに歩いて来ました関門トンネル人道。違うといえばJさんが加わり三人になった事。

気のせいか5年前より壁が綺麗になった気がする。

県境までしか歩いていないのに「関門突破」で記念写真(笑)

「関門プラザ」では隧道完成までの歴史を写した写真の数々に、目の周りの化粧は剥げるし、鼻水は止まらないし・・(-_-;)

頭の中では《風の中のす~ばる、砂の中のぎ~んが♪》がリプレイされっぱなし。敗戦の中で困難を極めながらも維持し続け、そうして成し遂げた偉業。その恩恵にあずかれる私たちは、何と恵まれていることか。

無知な私でも、一目で海底トンネルの仕組みが理解できるお子様向け冊子。

この後は神社に町歩きと、予定はぎっしり。二度目の下関、今度こそ後悔の無いように隅から隅までじっくり堪能しなくては(〃∇〃) 

ああ、それにしても見るだけなら本当に!!綺麗な関門橋。

今夜は壇之浦PAで車泊をして明日は門司入りも5年前と同じコース。違っているのはまだ夜には間がある空に浮かぶ白銀の満月。

ライトアップされた関門橋の美しさ

そうして迎えた翌朝、明るさを増していく関門海峡

明け方の薄紫の空、すれ違うタンカー 空の色を写す不思議な海の色

何度見ても、多分どんな季節どんな場面でも、私はやっぱりこの景色を美しいと思う。ここに立っている今の自分がとても恵まれていると、心の底からそう思う。

訪問日:2017年12月3日~4日

 

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赤間神宮~境内を歩く in 山口県下関市阿弥陀寺町

2024年03月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

「赤間神宮」二日目は、境内・境外各所に建立された「碑」等々の紹介です。

竜宮門を模した水天門の下に「太閤石由来記」-「【 波の花 散にしあとをこととへは むかしなからに ぬるる袖かな 】 天正15年3月太閤秀吉は、安徳天皇廟前に先帝御影を拝して献詠。是より先大阪の築城に全国より礎石を集めしむ。即ち肥前国竜造寺隆信、弐百余の石を献ぜむと海峡に至るや関門の急潮に逡巡。日ならず、城既に成るを聞き是を海中に投じて去れりと。潮音星霜380歳、昭和42年12月運輸省第4港湾建設局是を引揚げ赤間神宮に献ぜらる~」

「赤間神宮」創建90周年と復興事業の完成を記念して建立された「赤間神宮復興之碑」-「昭和20年(1945)6月~7月の下関を襲った大空襲で赤間神宮の建物一切を失った。昭和22年(1948)、貴族院議員秋田三一が奉賛会を結成。昭和24年(1949)に本殿と祝詞殿が落成。昭和33年(1958)に水天門が完成。その後中部利三郎は龍宮会を結成、奉賛会と共に復興に尽力し、昭和40年(1965)にその完成を見た。碑文より

水天門入口の右手に『山口誓子』句碑【 龍宮の 門南風を 奉る 】

宝物殿の裏に『西尾其桃』句碑【 神も跡 垂れて千歳に 月かなし 】

七盛塚入り口に『高浜虚子』句碑【 七盛の 墓包ミ降る 椎の露 】

碑ではありませんが、「石幢(せきとう)ー天正13年(1585)3月の銘があり山口県では最古の物。もと本陣伊藤邸にあったが昭和40年、社殿の完成に際し当主伊藤盛吉氏から赤間神宮に奉献された。現地案内より

その近くに『木下友敬』句碑【 碑もぬれ わたしもぬれて 沖を見ている 】

『土居南国城』句碑【 後夜の月 よよと帝の 声きかゆ 】

平家塚近くに『桐山漁陽』句碑【 黄桜に 及ぼす神の 光かな 】

赤間神宮前の阿弥陀寺公園に建立された「安徳天皇を抱く二位の尼」像。台座には有名な平家物語の序文「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」が刻まれています。

海参道入り口に「海洋守護の碇」。碇を背に安徳帝に従って海中に没した平知盛の謂れをもとに、下関海洋少年団によって奉納されました。

「昭和三十三年四月七日 昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて
【 みなそこに しつみたまひし遠つ祖を  かなしとそ思ふ 書見るたひに  】
の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり」(説明看板「水天門記」)

「赤間神宮水天門:壇ノ浦を望む境内正面の石垣上に南面して建つ竜宮造の楼門。入母屋造銅板葺に鴟尾を飾り、東西に回廊を延ばす。回廊:木造、銅板葺。二つは共に国土の歴史的景観に寄与するものとして、2018年に国登録有形文化財に指定。」

参拝日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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赤間(あかま)神宮 in 山口県下関市阿弥陀寺町

2024年03月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市阿弥陀寺町に鎮座される「赤間(あかま)神宮」。御祭神は『安徳天皇』

由緒「貞観元年(859)、大安寺の僧行教により、浄土宗寺院:阿弥陀寺として開闢。文治元年(1185)に壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の霊を弔うため、後鳥羽天皇の命により、建久2年(1191)赤間関に御影堂を建立。以後、勅願寺として崇敬を受け、江戸時代に真言宗に改宗。明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となり「天皇社」と改称。明治8年(1875)、赤間宮に改称し、官幣中社に列格。また、歴代天皇陵の治定の終了後の明治22年(1889)、安徳天皇陵は安徳天皇社の境内が「擬陵」として公式に治定。昭和15年(1940)、官幣大社に昇格し、赤間神宮に改称。」

水天門向かって左に「安徳天皇阿弥陀寺陵」。

「安徳天皇縁起絵:安徳天皇入水の図」(社務所の複製画)

水天門向かって右手に水天閣

まるで帝の住まいする殿上の如く、鮮やかな朱が映える絢爛たる装いの大安殿、奥に続く内拝殿・神殿。いずれの佇まいも、幼くして入水された安徳帝への心遣いでしょうか。どこに行くのかと尋ねられた幼帝に、水の下にも竜宮があると答えた二位の尼の言葉通りに・・

ふと・・・思うのです。清盛の孫である安徳帝は、天皇であったがゆえに死しても神として祀られる。かたや・・平家滅亡の一端を担った源氏の大将義経公は、兄頼朝に疎まれ奥州にて壮絶な死を遂げ、忘れ形見となった愛妾:静御前の生みし子は男子であった為、頼朝方の手によって即座に殺され闇に葬られる・・

このような場所でそんな事を思うのは、御祭神に対して失礼ですね。あなた様には何ら関係のない事なのに・・どうも判官びいきと言うのは厄介なものです(-_-;)

竜宮を模したとされる社殿の左手に建立された三基の「赤間神宮十三重御宝塔(水天供養塔)」。安徳天皇は御位のまま入水された事から水天皇・水天宮と称されており、先の大戦中に水没し殉職された方々の霊を水天皇(水天宮)に鎮めてもらう為、この塔が建てられた旨が案内に記されています。

続いて社殿左手にある「芳一堂」へ。いささか趣味の悪い赤い堂内には木造の芳一像が祀られています。で、断言しても良いです!小泉八雲の「耳なし芳一」を知っている人は、夜明け前&夕暮れ時の対面は避ける事を強くお勧めします(^^;)

芳一堂の左手は「平家一門之墓」「平家塚」とも、また「七盛塚」とも呼ばれ、耳なし芳一の物語では、何物とも知れぬ鎧武者に手を引かれて連れてこられるのが「お屋形」と称したこの場所でした。

境内には壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門14名の供養塔が建立されています。「七盛塚」の由来は名前に「盛」の付く人が七名いたからと言われています。でも実際には6名でした・・残った一人は、彦島に墓がある清盛ではないかと言われているそうです。

境内の鳥居越しに見る関門海峡。穏やかに行き交う船、彼方に見えるのは豊前の国。源氏と平家・・この地に繰り広げられた戦いを知っているのは、悠久の時を刻む空と海だけ

昭和60年(1985)、源平八百年を期に石川県輪島市にある平時忠の子孫「時国家」に分霊が親授。その際に邸内社が建立され「能登安徳天皇社」の称号が授与されました。(2015年 能登の車泊旅より)

参拝日:2012年11月15日&2017年12月3日

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下関あちこちウォッチ~其の二 in 山口県下関市

2024年03月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市阿弥陀寺町、唐戸親水緑地「姉妹都市ひろば」の一画に「与次兵衛ヶ瀬(よじべぇがせ)の碑」が建立されています。どのような謂れのあるものなのか・・調べてみたら結構お気の毒な経過を辿った碑という事が判明(^_^;)

かいつまんで書くと、秀吉が名護屋に出陣していた時、母危篤の知らせが届き、即大阪に戻る事に。途中、関門海峡の「死の瀬(篠瀬)」で船が座礁。先行していた毛利秀元に救出される。で、秀吉が乗っていた船の船頭「船奉行の明石与次兵衛」は責めを負って自刃(又は斬首)。死の瀬は与次兵衛ヶ瀬と呼ばれる様になり、危険を知らせる石碑が建立された。明治になり昼夜等建設のため撤去、海中投棄(-"-) 大正時代に岩礁撤去の際、発見され内務省の裏庭に再建されるも、防空壕を掘る為撤去され海中に。戦後有志によって引き上げられ現在地に・・・な・・・長い(-_-;) しかもシーボルトのスケッチの碑とは形が違う、笠も違う??? 謎です。

下関市唐戸町にある「唐戸市場」に向かう道すがらに見つけた「馬関名物・ふくのふくろ競り」モニュメント。

「袋競り」は黒い筒状の袋の中で、競り人の指を仲買人が何本握るかで価格が決まる、かなり独特な競り方法。現在この競り方法を採用しているのは、ふぐ専門市場である南風泊(はえどまり)市場のみだそうです。

ふくと言えば「ふく刺」、関西では「てっさ」と呼ばれていますが、薄い刺身の下から見えるお皿の柄がそれはそれは雅で美しい。でギネスに挑戦中の「世界一のふく刺大皿 (500人分)

さて、下関の名所と言えばもう一か所、かの有名な「宮本武蔵VS.佐々木小次郎:巌流島の決闘」(画像:観光案内より)

下関唐戸1号桟橋から出る関門汽船の「巌流島連絡船」。切符売り場や桟橋付近には顔出しや看板などもあって、私たちが通りかかった時も結構盛況でした。

もちろん、私たちは潔く桟橋からお見送り(笑)

何故か竜馬とお龍さんが??

何故か赤いワンピースのお猿さんが???

下関市唐戸町にある「唐戸市場」。ふぐの市場としても有名ですが、もちろんタイやハマチの市場としても有名。でも・・やっぱりメインは「ふく」

ドドーン!と巨大ふく

屋外にも仲良く並ぶ波乗りふく一同

ご亭主殿、お疲れですか??

そう言えば2012年も2017年も予定に入れていた「火の山公園」。2017年は高いところ大好きのJさんも同行だったのに、結局一度も行こうという話になりませんでした。

訪問日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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下関あちこちウォッチ~其の一 in 山口県下関市

2024年03月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市南部町、海の見えるポケットパークの一画に「捕鯨船第二十五利丸のモニュメント」。写真付き案内に経緯が紹介されていますが、長文なので要点のみ抜粋。

「第二十五利丸は、旧大洋漁業株式会社(現 マルハニチロKK)の捕鯨船として昭和37年(1962)に建造。~中略~ 2002年9月に捕鯨船としての役割を終え、同年12月に下関市に寄贈。2005年から下関漁港関門近くに係留・展示し、一般公開を行いましたが老朽化の為、船に備え付けられていた、捕鯨砲、プロペラ、錨(アンカー)及び風向風速計をここに設置しその功績を顕彰する・・」

モニュメントの近くに聳えるという言い方がしっくりくる「海峡交番」。じつはご当地交番って意外と楽しい建物が多いのですが、ここもその例にもれず中々ユニークです。

下関市あるかぽーとにある「はいからっと横丁」、大きな観覧車がある入園無料の遊園地として市民の憩いの場になっています。(2023年10月をもって閉園)

その一画で見つけた二階建ての赤いロンドンバス

基本的にバスは苦手ですが、洒落たバスを見るのは好き(笑)。観覧車とロンドンバスを背景にJさんとツーショット。

「市立しものせき水族館:海響館」。物凄く時間に余裕があったら入ってみたいけど・・この行程ではまぁ無理(^^;)

ここから9号線を跨いで涼し気な一画は「寿公園」。奥まった場所に、休憩場所を兼ねた「金子みすゞ顕著碑」があります。20歳のみすゞ、物静かで考え深そうな面差しの美しい肖像です。

唐戸地区に点在するゆかりの場所には「金子みすゞ詩碑」が設置。と言っても私が見つけたのは「日の光」の一基だけ。おてんとさまのお使ひが 揃って空をたちました・・・・・

カモンワーフの一画に「堂崎の渡し場跡」「山陽道はここで終わり 関門海峡を渡って九州へと続いていました。ここは、日本で初めてキリスト教と西洋文化を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルや、吉田松陰、高杉晋作らが、この渡し場の石段を踏みしめて、歴史の1ページを書き加えていったのです。」碑文より抜粋

振り向いた先に飛び込んでくる建造物は「海響ゆめタワー」。高い所が苦手な私は「ふ~~~ん」。高いところ大好きなJさんは「ハァ~~~💗」

2015年、かって山陽度の起点であったこの地に一里塚跡を示す記念碑が建てられました。「安芸境小瀬川より三十六里 山陽道 起終点一里塚跡 赤間ヶ関街道 萩より十九里」。のちに唐戸に九州への渡海の関所(堂崎の渡し)があ ったことから、亀山八幡宮の下に「山陽道」碑ができました。

という事で、亀山八幡宮鳥居の足元に「山陽道」碑。山陽道終点を示す碑で、明治11年に建立。長門国志に「ここは山陽道の起点 九州渡航の起地なり。山陽道第一塚なり」

まだまだ続くコース無視の二度に渡る下関市内あれやこれ、続きは明日のブログで

訪問日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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みもすそ公園 in 山口県下関市みもすそ川町

2024年03月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市みもすそ川町、みもすそ公園のスタートは、関門海峡を背にたつ「馬関開港百年記念碑」。碑文要約「文久3年(1863)以来、長州藩は沿岸一帯に砲台を築き、外国艦船に砲撃を加えた。翌年17隻の艦船からなる四国連合艦隊が下関一帯を砲撃。「止戦講和」が結ばれ海峡通行の安全、馬関港出入の自由を約束。往時より一世紀、昭和40年にゆかりの地に記念碑を建立。」

さて、下関と言えば壇之浦、壇之浦と言えば平家滅亡・・三題噺のようですが、次の碑は「壇の浦古戦場址の碑」。寿永4年(1185)3月24日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。合戦の地は「早鞆の瀬戸」とも言われ、関門海峡の幅が最も狭く潮の流れが激しい場所です。古戦場跡の碑には、赤間神社所蔵の安徳天皇縁起絵図第7巻(壇の浦合戦)と、第8巻(安徳天皇御入水)が描かれています。

「安徳天皇御入水之処」。平家の敗北を覚悟した二位の尼は、わずか八歳の安徳天皇を抱き壇之浦にて入水。【 今ぞ知る みもすそ川の御ながれ 波の下にも みやこありとは 】この辞世の歌から「みもすそ川」という地名が生じたとか。

かってこの地には「御裳(みもすそ)川」という小川があり壇ノ浦に注いでいました。「御裳川碑」と、往時を偲ばせる赤い欄干の「御裳川橋」

源平合戦と言えば『源義経』の八艘跳び。己の非力を誰よりも承知していた義経は、敵将から身をかわす為に、船から船へひらり、ひらりと飛び移ったと言われています。

平家の優勢で始まった壇ノ浦の戦いは、潮の流れが西向きに変わり始めると共に源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められていきます。最期を覚悟した平知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って大錨を担いで海峡に身を投じ、こうして平家一門は滅亡しました。

この戦いにおいて、義経は平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれています。

時代が違えばこれほどの好敵手に巡り合うことも無かった二人・・その義経もまた兄:頼朝に疎まれ、奥州平泉で壮絶な最期を遂げます。

壇之浦古戦場を目の前に臨むロケーションのもと、壇之浦合戦の様子をリアルに分かりやすく語る「歴史体感紙芝居が上演されます。私たちが見かけた時は休憩中だったのか、それとも観客待ちだったのか、いずれにしても名調子を聞く事は出来ませんでした。

時代は下がって風雲急を告げる激動の幕末。長州藩は攘夷戦争に備え、彦島から長府に至る沿岸の各所に砲台を築きました。

「壇ノ浦砲台跡」には、フランス政府了承の下、ロータリークラブから寄贈された「長州砲(八十斤加農砲)」のレプリカが、雁首揃えて馬関(下関)の海を見つめています。

また東屋の中には「天保製長州砲」が大切に保存展示されています。

長州砲はフランスが下関戦争の戦利品として持ち帰っていたもので、貸与という形で返還してもらったそうです。画像では見えませんが砲身部分には菊花:雲龍が美しく刻まれています。

本物にしかない迫力は流石・・・。

訪問日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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南部町郵便局&山口銀行旧本店 in 山口県下関市

2024年03月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

昨日紹介した秋田商会のビルに隣接する、煉瓦造2階建て洋風建築「下関市南部町(なべ)町郵便局」。設計は領事館をはじめとする多くの官庁建築の設計に携わった『三橋四郎』が担当し明治33年(1900)に竣工。現役の郵便局舎としては国内最古のものであり、2001年に国登録有形文化財建造物に指定されました。

元々は赤間関郵便電信局として建築されたもので、昭和50年(1975)、下関東郵便局の移転に伴い、同じ建物を使用して新たに当局が設置。

玄関前の赤い丸ポスト。考案したのは赤間関郵便局の郵便業用具の制作、改良に取り組んでいた下関の発明家『俵屋高七』。明治37年(1904) には自動郵便切手葉書売下機の発明もされています。何が驚いたって、既に明治21年(1888) に木製のたばこ自動販売機を発明していた事。いやもう、ただ尊敬します。

2012年の訪問時、この時と変わっていない景色が尚更に懐かしさを呼び起こしてくれます。

場所は離れますが、郵便と無縁でないという事で、下関庁舎の向かいの一隅に建てられている「下関電信局(電報)発祥の地」碑。題字は「電報中継機械化完成」、 説明版には「 昭和41年(1966)に、 日本電信電話公社下関電報局で 電報の中継業務の機械化が行われたことにより、 国内全ての機械化が達成したことを記念して建てられた」と記されています。

下関市観音崎町に建つ「山口銀行旧本店」。建築家『長野宇平治』の設計監督により大正9年(1920)に三井銀行下関支店として建設。昭和8年(1933)に前身である百十銀行の本店となり、山口銀行の創立から昭和40年(1956)の新本店新築まで、本店として使用されました。

外壁主要部は徳山産花崗岩を使用。正面玄関脇には渦巻状のイオニア式とアカンサスの葉飾りのコリント式を組み合わせたコンポジット式の柱頭をもつ付け柱。大正時代の建築様式の特徴を色濃く残し、また、当時の銀行の様子を伝える貴重な文化財として、2005年10月に棟札とともに山口県指定有形文化財に指定。2004年3月から1年かけて建物の復原及び耐震補強工事を行い「やまぎん史料館」としてオープンしました。

訪問日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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旧下関英国領事館&旧逓信省下関海税務署 in 山口県下関市

2024年03月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市唐戸町に建つ煉瓦造2階建の建物は「旧下関英国領事館」。英国政府の要請を受け、下関市から提供された敷地に、英国政府建築技師長ウィリアム・コーワンの設計により着工。明治39年(1906)12月に竣工しました。

レンガ造、桟瓦葺、本館2階建、附属屋平屋建。領事館として建てられた建物としてはわが国現存最古のものである事から、1999年5月に国の重要文化財に指定。

2008年12月より文化財として保存と活用を図るための保存修理工事を実施。下二枚の画像は、2012年訪問時の「旧下関英国領事館」。当時は残念だった修復中の画像ですが、振り返ればとても貴重な画像となりました。

約5年7ヵ月間休館し、2014年7月に再オープン。現在は記念館・市民ギャラリー等、公共の施設として利用されています。

下関市田中町に建つ「旧逓信省下関海税務署」。大正13年(1924)、電話の需要増加に応えるため、旧逓信省下関郵便局電話課庁舎として建設。中国地方で初めて「共電式」の電話交換を導入した逓信省の建物です。

庁舎は大正13年から昭和41年(1966)まで電話局舎として使用され、昭和44年4月に下関市の所有になり福祉センターとして利用。二度目の内部改造を経て昭和51年から1991年3月まで、市役所の執務室として使用。現在は田中絹代をはじめ下関にゆかりのある文化人を顕彰する「下関市立近代先人顕彰館」として公開されています。

 

訪問日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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旧秋田商会ビル in 山口県下関市南部

2024年03月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市南部・唐戸地区には当ブログ作者(私)垂涎の、歴史的建築物が幾つか残されています。2012年、2017年、二度の下関訪問で目にする事が出来た素晴らしい建物たち。忘れ難い旅の記憶です。

下関市南部、道路に面した一画に、ひときわ目を引くモダンな塔屋の「旧秋田商会ビル」。

木材取引中心の商社活動と海運業を営む秋田商会の事務所兼住宅として大正4年(1915)に竣工。施工は大阪の駒井組。現場監督は関門商事に勤める新富直吉。設計者は西澤忠三郎。和風建築部分は京阪神で活躍していた宮大工の後藤柳作と推測され、西日本で最初の鉄筋コンクリート造の事務所建築。

地上3階、地下1階、塔屋付き、塔屋に設けられた螺旋階段で上る屋上には日本庭園。お庭を見ながらくつろぐ茶室兼離れ座敷・・と、和洋折衷のユニークなつくりで、現存する同種建築物としては最古級と言われています。

かって事務所として使われていた一階フロア。現在は下関観光情報センターとして一般開放されており、屋上以外はほぼすべての建物内部の見学ができます。

明治38年(1905)、秋田寅之介によりに設立された秋田商会。国内や満州、台湾など25カ所に支店・出張所を開設。建築用の木材や食料などを運搬して莫大な資産を築き上げた人物。胸像の顔は、Wikiで見る写真よりもずっと柔和で、穏やかな笑みさえ浮かべて見えます。

こちらは何時の時代のお写真でしょうか。秋田家二代目当主のご案内で興味深く周囲をご覧になる昭和天皇。その影を踏まないようにと三歩下がって後に続かれる香淳皇后。私の知らない時代の古き良き・・そして美しいお二方のお姿に思わず目頭が・・・

こちらの写真は「竣工当時の秋田商会」。初めてこの建物を見た時、町の人たちはさぞかしビックリした事でしょう。

秋田商会の社章「一文字三星」紋が染め抜かれた法被。これって毛利家の家紋と一緒だねと思ったら、まさにビンゴ(笑)。どんなコネがあったのか、それともトラック一杯分の袖の下を用意したのかヾ(- -;)□  毛利家から許可を得て社章として使用していたそうです。

ご亭主殿の一押しは、手動式エレベーター「ダムウェーター」。屋上や2階・3階の各部屋に料理や小荷物などを運んだそうです。それにしても大正4年の建築で既にこうした設備を備えられるとは・・・富豪階級の凄さを実感するご亭主殿😆

何を見ても、どこを見ても目移りする素晴らしさに出るのは感嘆の溜息。鏝絵が施された漆喰壁、嵌めこまれたアメリカ製の時計のモダンさがひと際引き立ち、まずはここで大きく感嘆の溜息(^^;) さらに1915年に嵌めこまれてから2017年の今日まで、一度も止まった事がない・・と言う事は102年間!!と、今度は驚愕の溜息(◎_◎;)

小心者の二人は階段を上る時も足音を消して、そろり・・そろり(^_^;)

外観からは想像しがたい、しっとりと落ち着いたたたずまいの座敷。座敷というより大広間。こんな場所に座るにはもう少しフォーマルな服装が良かったかも?、今度来るときは羽織袴を持参しようか(笑)

2012年・・記念の写真に快く応じて下さった受付の方。その節は色んなお話を聞かせていただき有難うございました。

2017年の来館では、全体像を見るには一段高く離れた場所から・・と言う事で、教えて頂いた唐戸交差点の歩道橋の上から。なるほど、ここからだと屋上の離れがちゃんと見えました。

下関市内の素敵な歴史的建築物、明日に続きます。

訪問日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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住吉神社~其の二 in 山口県下関市一の宮住吉

2024年03月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

文化財の拝殿で終わった「住吉神社~其の一」、今日は九間社流造・国宝の本殿からの紹介です。!

大内弘世寄進 応安三年(1370)建立ー九間社流造・正面五カ所千鳥破風附檜皮葺。昭和28年11月:国宝に指定。左右それぞれを正面から。

色んな場所から写して見ました。カメラの腕は上等では有りませんが、被写体が良いと何処から写しても一応絵になって・・・ますよね(笑)

「武内宿祢命のお手植の御神霊樹:大楠」樹齢 約1800年・根回り 約60m。三韓征伐の出陣の際、武内宿禰がこの地に立ち寄り、この楠を植えたと伝えられています。

境内社に建つ明神鳥居は天保13年(1842)建立。鳥居額は「蛭子神」

左より「末社:高元社(須佐之男命)」「摂社:若宮神社(穴門直祖踐立命(神託により神功皇后が長門国に住吉神社を創建した折の初代宮司)』「末社:田尻社(大宮司家祖神)・摂社:蛭子社(事代主神・蛭子神)・末社:七社」

「末社:稲荷神社(宇迦之御魂神・大宮能売命・猿田彦命)」

「厳島社(宗像三女神)」

「東方遥拝所」

「神宮祭主 池田厚子様お手植え」

「宮地築始(みやじきづきはじめ)記念碑 神籠石(こうごいし)」 

「鐘楼」

「日清戦争従軍記念碑」

参拝日:2017年12月3日

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