かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

都道府県対抗駅伝広島大会を見ていて思い出したこと。

2016-01-24 | 気ままなる日々の記録

  今日1月24日テレビで全国都道府県対抗男子駅伝広島大会を中継していました。広島は雪が降っていて駅伝日和だとは思いましたが選手の服装を見るととても寒そう。特に襷を待っている間が寒いだろうと想像していたら、自分も高校1年の時クラス対抗の駅伝に出たときのことをまるで昨日のことのようにおもいだしました。

 私が高校へ通った頃はアメリカ占領軍の命令によって(GHQ)、小学区制で高校の駅伝は自分たちの学区の市町村を全部回るという方針でコースが決められ、区間の長さも3キロから7キロまで不揃いで、各クラスとも誰をどの区の走者にするか頭を悩ませていた。

 駅伝の前に全校のマラソン大会というのもあった。これは1月の寒い日に学校の敷地の周りを10回ぐらい走って回るというもので初めの一周はクラスごとに並んで走ったが2週目ぐらいから自由競争になるという変則的な競技だったと思う。その時の順位を参考に各クラス選手を決め誰が何区を走るかを決めていたとおもう。

 兎に角今と違って道に車が少なく車と云えば荷馬車とバスぐらいしかなく、学生がマラソンをしていたら車の方が徐行して応援してくれた時代であった。

 私は当時から痩せ形で、畑仕事で鍛えた筋肉は少し自慢できた。マラソンに関しては早くはないが普通の速さで長時間走ることに少し自信を持っていた。クラスの選手に決まってから夕食後2時間ぐらい過ぎてから4キロほど走って密かにトレーニングもしていた。

 誰がどの区間を走るか決める会では①家の近くの道は走りたくない、知っている人に見られたくないという其れだけの理由で強く主張し②短距離を速く走るより長距離をマアマアの速さで走る方を希望し、ついに、自宅からは遠く離れた5キロの区間をはしることになった。

 当日は自分の自転車で襷を受け取る地点まで行き、服装を着替えて襷を待つ。その間の寒いこと、とてもジットしておられない。襷を受け取って走り出すと数台の自転車が僕を取り囲みイチ、二、イチ、二、と掛け声をかける。これを伴走と云っていて、彼らが夢中になって、鬼のように選手のお尻を打つ。「よーし、一人追い抜くぞ^-」などと気合を入れて選手を追いたてる。やっと区間を走り終え襷を渡すと伴走の連中は新しい選手を取り囲んで去ってゆく。一人残された僕は生理運動のつもりでその場で足踏みを続けて呼吸を整える。するとお腹がきりきりと痛くなる。もう道の脇で立っておられなくなり、道から降りて枯草のあぜ道に倒れ込んだ。どうしてお腹が痛くなるのか乏しい知識を総動員して倒れ込んだあぜ道で考えていた。低血糖値症で腸を動かしている筋肉が軽い痙攣を起こしているに違いない、とすれば、救急車をお願いしたり、大騒ぎするまでもない、なるべく丸まって体温の放散を避け、少し休もうと心に決めてうずくまっていた。

 すると、誰かが僕の体を揺さぶり「おい、生きているか返事をしろ」と云っているではないか。目を開けてみれば友人が心配そうにのぞきこんでいてくれた。その友人が最初に呉れたのが森永のミルク飴だった。友人は「疲れたときはこれが一番だと思ってくる途中でかってきてくれたとのこと。このキャラメルのおいしかったこと。もう一人の友人が水筒を渡してくれ、水筒のお茶を飲んで一息ついたところで友人が持ってきてくれたジャージを着てオーバーに身を包んで体の奥から暖かくなるのを感じたときの幸せ感は忘れられない。

 聞けば僕がいっこうに帰ってこないのでどこかで倒れ込んでいると思い探しに来てくれたとのこと。キャラメルと水筒と防寒具を持ってきてくれるとは完璧な友人たちだった。今も感謝している。(T)

    初雪


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