古民家ギャラリーうした・ガレッジ古本カフェ便り

古民家ギャラリーうしたと隣のガレッジ古本カフェで催している作品展、日々の発見!、書評、詩などを紹介していきます。

青い月曜日    開高健

2022-11-23 13:23:33 | 開高健

集英社文庫     1974年

 

深い狂気をともなった戦中、爛熟した廃退の漂う戦後を

 

背景に、青く爛れた青春の日々を描いた作品だ。

 

そこには、汚わいと、唾や痰の飛ぶ薬草があったり、どこか

 

卑猥で臆病な悲鳴が響いているが、どこか純潔で純血な

 

ところがあり、爽やかさとは隔絶された孤独がある。

 

響いてくるのは、いつも祈りに近い鳴き声であり、空腹の

 

混沌がないまぜになり、詩を生み出す。

 

そこに開高文学の萌芽があり、前期の青春時代の終わりを

 

炙り出し、パリパリとする狂乱の時代も終焉を迎える。

 

喧騒の中の静寂が文学それ自体を包んでいて、読者を圧倒

 

する。そんな、力強い文学の抵抗を感じた。

 

       (読了日 2022年11・8 11:34)

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シブイ    開高健

2018-11-25 11:16:49 | 開高健
TBSブリタニカ 1990年


体型も生前の開高氏に似てきたにもかかわらず、開高氏ほどに


業腹になれず、せっせとせこせこと除菌している自分がいるわ


けだが。


もう何度目か読むのは、というはなしもあり、あのPPAPのピコ太郎


のピコをピコピコ音楽のピコと思っている人もいるかもしれないが、


この本によると、ピコとは隠しておきたくなるほどチッコイもの(


あれ、だね)を指すらしい。アメリカで受けているのも、その名前も


一因かもしれない。日本人のは小さいという、あれね。


西洋では、イワシは塩焼きでは食べないという。


死体を焼いているニオイがするらしい。


と、いろいろとウンチクもあるしで、もう、おもしろい本は読み尽く


した、という人にもおもしろく読める、というか、もう読んでいるだ


ろうね。
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風に訊け2      開高健

2018-03-29 09:41:27 | 開高健
集英社    1985年。


一気に読まないで下さい、の説明の通り時間を半年くらいかけて


読んでみた。


開高師匠の豊かな写真も載っている。



開高師匠の懐の深さ、人間的な深淵を見せられる思いであり、ホン


トに頭のいい人だったのだな、と分かる。


晩年に書かれた仕事だが、実にエロも含め、深い。


ボクの座右の書である。
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ロマネ・コンティ・一九三五年    開高健

2018-02-02 14:34:17 | 開高健
文春文庫 1973年~1978年



玉、砕ける、飽満の種子、貝塚をつくる、他3篇。



飽満の種子、などベトナムモノでは、そこには貧者をみる



まなざしには同じ者を見る目がある。決して、あわれまず、


対等である、そこが素晴らしいと思った。



だから、読んでいても卑屈にならず、イヤだな、とも思わ



せないのである。そこに嫌悪感は生じない。


そして、表現は詩的であり、短編集、珠玉で読んでいたが、


読み飽きるということがなく、底が深く、理解が深まって


いき、追体験できるようになっている。     


                   (鶴岡卓哉)         
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最後の晩餐    開高健

2018-01-28 11:50:40 | 開高健
文春文庫  1979年。


開高氏は外見からしてうまそうなものを食って


いそうであった。あるいは、食欲というものを


コントロールできていなかったかにも見受けら


れる。



この書では文豪は味について、言葉の妙技を尽く


している。一読しても、それは果たして、どうい



うことであるのか、と一考せずにはおかない深い



表現である。味というのは、とにかく深淵である


らしいのである。


冒頭から、喫人で終わると宣言しておられる通り、


喫人(ハンニバル)でこの書は終わる。


行きつくところはそこか、と思うが、なんとなく



読んでいて、涙がにじんできてしまった。


究極において、人間を食わなくちゃならなくなっ


たとしても、僕はムリだと思う。死を選ぶだろう。


そこで生きても、あとの生を全うできないとしたら


死んだほうがましであるからだ。


開高氏は人肉を食べたかったのだろうか、と考えると


、どこかで食べてみたかったんだろうな、と思う 。



人が人を食う、共食いは、中国では当たり前だった


らしいけどねえ。



人の食欲についてありとあらゆる方面から考察を行い、



美味しい話しを読むのが好きなんだったら、よんだ


ほうがいいかもね、とだけ書いておく。
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夜と陽炎   耳の物語2  開高健

2018-01-25 13:33:40 | 開高健
新潮文庫  昭和61年8月。


自身の体験をもう何度目かになるだろう、開高師匠の



口からきいたような錯覚に陥る。



その物語は、いつもぎりぎりのところにある自分から



語られた。そこにはいつも耳があり、耳によって触覚と



もとれる鋭敏な感覚でもって、ベトナム戦争も釣りも体験



されたようだ。戦争も釣りも闘いであるのか……平和と戦争


と対峙しているようで、極限においての経験という立脚地


にたてば、そこにはなにかしら共通点も見えてくるようで


ある。



そこには開高師匠がいて、耳があったということではないか。



たしかに、僕もそこにいたような気になってくるから、その



説得力たるや本物である。



手にやんわりと汗がにじんでいる自分が読後にいるのだった……。



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破れた繭  耳の物語1 開高健 

2018-01-24 12:18:07 | 開高健
新潮文庫  昭和61年8月


手書きと文豪の文体によって、読んでいて


リズムが産まれ、メロディが奏でられてゆ



くようである。



奥様に騙されたように書いているけれど、や



はり、愛してたんだろうなあ、と感じ入る次



第です。


焼け野原から復興した掘っ立て小屋でバクダン


というお酒をかッ食らっているお姿思い描けます。



子ども時代から二十歳くらいまでのことを



描いていて、その話しはどこかで読んだなあ、



と思っても、また違った角度から考察できて、



おもしろいです。



文学に迷っていた時代もあったのだな、と思う



と励みになる。



文学とはこうでなくちゃいけないねえ、などと



ほざく自分がいます。
  
                (鶴岡卓哉)
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