【ぼちぼちクライミング&読書】

-クライミング&読書覚書rapunzel別館-

「よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年」辺見じゅん/保阪正康

2012年11月07日 22時22分26秒 | 読書(対談/鼎談)

「よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年」辺見じゅん/保阪正康

昭和天皇の思いを御製から読み解こうというこころみ。
結果として、昭和そのものを振り返ろう、という企画。
対談者が、辺見じゅんさん阪正康 さん。
この対談の内容は濃いよ。
以下文章を紹介する。
青文字が辺見じゅんさんと保阪正康さんの言葉。
茶色文字が昭和天皇の御製。
黒文字が私の注釈文字。

P10
政治的な言葉で歴史を語ることは、政治闘争には必要ですし、日本軍国主義がアジアを侵略したと、一言、二言で歴史を語ることもできますが、僕は「過去の時代に生きていた人を、後からジャッジしてはいけない。現在の自分の立場でジャッジする権利はない」と考えるようになりました。なぜなら人は生きる時代を選ぶ事が出来ないからです。

P82
昭和天皇は国としての意思決定をするときに、事前にいろいろと意見や注意はするが、一旦政府が意思決定をするときに、事前にいろいろと注意はするが、一旦政府が決定したことについて、拒否するということはありませんでした。自分は立憲君主だという意識が強かったからです。例外は2.26事件と終戦の時の二回だけです。

P94
辺見:終戦後、昭和天皇は疎開中の皇太子に手紙を送っていますね。それには、日本が戦争に負けた理由がはっきり書かれてありました。
保阪:二十年九月九日の手紙です。当時、皇太子は十一歳でした。手紙にはこのように記されています。
「我が国人が あまりに皇国を信じすぎて 英米をあなどったことである
 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
 明治天皇の時には 山形(有朋) 大山(巌) 山本(権兵衛)等の如き陸海軍の名将があったが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考えず 進を知って 退くことを知らなかったからです(以下略)」

P100
終戦時の感想 二首
海の外(と)の陸(くが)に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり
爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

P109
戦後の巡行・・・広島訪問の際に詠まれた歌
ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり

P111-112
保阪:資料を読んで知りましたが、帰国してきた孤児に「どこから帰ってきたの」と聞いたら「サイパンです」と答える子がいるわけ。そうすると、天皇は黙ってしまったという。サイパン島の戦いの悲惨さを知っているからなんですね。非常にデリケートな天皇の一面を知って驚きました。
辺見:当時の巡行の場に居あわせた人に話を聞くと、子どもたちは、天皇がさほど偉い人だという意識がないから、ほっぺたをくっつけてきたりするんですって。天皇が施設から帰るときも、自分のおじさんを見送るみたいに、「さよなら、さよなら」といつまでも車を追っかけたりもした。それが天皇にとって驚きなわけです。おそらく自分の子にも、そんな風にしたわれたことがないから。だからでしょうか、こんな歌を詠まれています。
福岡県和白村青松園
よるべなき幼子どももうれしげに遊ぶ声きこゆ松の木の間に
佐賀県因通寺洗心寮
みほとけの教まもりてすくすくと生ひ育つべき子らにさちあれ

P175
ホテル・クリヨンよりコンコルド広場を眺む
この広場ながめつつ思う遠き世のわすれかねつる悲しきことを
(中略)
コンコルド広場ではフランス革命の最中の1793年に、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットがギロチンで斬首されています。「遠き世」というのは歴史への思いでしょう。

P197
昭和天皇はリンカーン大統領が好きだったそうだ
実際に、昭和天皇は太平洋戦争の期間も、このリンカーン像を自分の政務室に飾っていたそうです。侍従が「それを見て、皆がうるさいことを言っていますよ」と天皇の耳に入れても、「いや、いいのだ」と、言ってそのまま掲げていらしたそうです。
辺見:昭和天皇は随分リンカーンを尊敬なさっていたのですね。
保阪:敵国のかつての大統領の像を、戦争の最中にも飾っていた。おそらく奴隷解放政策などに、強い畏敬の念を抱いておられたのでしょう。

P220
しかし、この年(在位60年記念)、終戦記念の8月15日に、靖国神社に関してはっきりと心情を述べられた歌があります。
八月十五日
この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれいはふかし

「靖国のみやしろのこと」と靖国神社問題を指して、「うれひはふかし」と不快感を示されています。「この年のこの日にもまた」と畳みかけるようにも詠まれていて、このようなお歌はめずらしいですよ。
保阪:昭和五十四年にA級戦犯の靖国合祀が公になりましたが、昭和五十年を最後に昭和天皇は参拝されていません。この合祀について天皇はかなり不快感を持っておられた。
しかし、その後も歴代内閣は参拝を続けた。

P227
沖縄への天皇の思い・・・62年に沖縄訪問が決まったのに、手術のため行けなかった
辺見:戦後、巡行を始めて、四十六の都道府県は隈なく行かれたのに、米軍統治下の沖縄だけは訪ねることができなかった。このことは、天皇にとって最後まで心残りであられた。そこでこう詠まれています。

思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを

沖縄にいくことが天皇としての自分の責任だとはっきり歌われている。天皇は沖縄には特別なお気持ちを抱いておられた。

【ネット上の紹介】
昭和天皇が遺した一万首とされる御製には、戦乱から繁栄へと変化を遂げた時代の色が、そして波瀾に満ちた天皇自身の人生が投影されている。昭和史に精通した作家と歌人が、百七十首余を徹底討論。昭和天皇の新たな実像が浮かび上がる。
[目次]
第1章 若き摂政宮の時代―大正年間;第2章 軍部の台頭―昭和初年代;第3章 いくさの時代へ―昭和十年代から敗戦まで;第4章 主権回復への道のり―昭和二十年代;第5章 高度成長と皇太子のご成婚―昭和三十~四十年代;第6章 大いなる昭和の終焉―昭和五十~六十年代
この記事についてブログを書く
« 帝釈・岩谷エリアに浮石 | トップ | 「週刊朝日」「新潮45」「... »

読書(対談/鼎談)」カテゴリの最新記事