山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

人の暮しの哀しさと美しさが融けこむ

2017-03-05 20:14:52 | 読書
 どういうわけか宮本輝の『泥の河』(新潮社、1994.12)を再度読みたくなった。
 あらすじはすっかり忘れていたが、小栗康平の映画の断片シーンがフラッシュバックする。
 戦後間もなくの大阪の貧しい暮らしの切なさと少年らしい初々しさとがオイラの少年時代と重なる。
 切ない痛みと哀しみが暮らしと風景から滲み出てくる。
 それが高度成長社会と共にドライに捨てられてきた今でもある。

                               
 芥川賞を受賞した『蛍川』も北陸の風土そのものが思春期の少年の心象風景となっており、暮しと風景が両作品に共通する。
 団塊の世代よりちょびっと前の世代にはこの哀歓のほろ苦さは忘れられないものだと思う。
 解説の桶谷英昭は、「こんな哀切な情景が日本の小説から失われて久しいのは、日本人の生活がゆたかになったからであろうか。」と問う。

       
 同時に読んだ、『錦繍(キンシュウ)』(新潮社、1985.5)は、離婚した元夫婦の往復書簡だけで構成された小説だった。
 長文の手紙という枠内で物語を描くという手法の限界に挑戦したものだろう。
 それぞれが持つ過去の慙愧の闇を解きほどきながら織り直していくやりとりでもある。

 黒木千次の指摘した「過去は流れ去って完成した時間ではなく、…それを辿ることは過去を生き直すことであり、現在の生活を確かめ直すことに他ならない」という言葉に納得する。

                                  
 いずれも短編だったが、読みながら教科書に載っていた井上靖『しろばんば』を想いだす。
 結末はめでたしとは言えないが、風のようなかすかな希望がときおり吹いてきているのを感じる。
 このへんが宮本輝の真骨頂なのかもしれない。
コメント
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