桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

見解の相違ではない

2017-05-09 | Weblog
俺のブログを見てくれる人は、どのくらいいるのだろうか。
別に人様に見て貰うために書いている訳ではない。今の自分の想いを刻みたいだけで書いているから、見て貰う人の数は、全く気にしてはいない。
色々と感想的なことを書いてくれる方がいるのは知っているし、読んでもいるが、個人的な会話の場所ではないように思うので返答をしない。ただ刺激を受けたときだけは、それなりに反応を示すことにしている。
今、佐伯さんという方が、色々と書いてくれているが、本当に善良の日本人だと感じて、こういう生き方をする人が増えれば日本は、ますます良い国になるだろうと思わされる。嘘や令色の言葉で国民を騙す政治家や官僚たちに爪の垢を飲ませたいものだが、佐伯さんの善良は政治家や官僚たちを増長させてもいると感じることがある。
俺は神は信じていない。人や動物までもが神となる日本は馬鹿馬鹿しい限りだ。でも、祈りの大切さは知っているつもりだ。願力無窮ともいう。人の願い求める心、祷る心は、何ものかを動かす力になる。しかし、禱るだけでは解決しない問題があるのが人間社会だ。そこに行動が加わらなければ、何も変えられないだろう。
佐伯さんもブログを書かれているそうだが、佐伯さんのブログを支持する人があったとしても、それは佐伯さんの意見が正しいことを示さない。もちろん、俺の意見とて同じだ。その意見が人間社会の普遍の原理に基づくものかどうか、それで決まるだろう。
佐伯さんは俺の意見が「よその社会に出たときに通用するか」と案じて下さるが、判って頂けないなぁ!と残念な思いだ。
あの第二次大戦のとき、日本で戦争反対と声を上げていた人たちがいたのをご存知だろうか.?民主主義を求めた人たちの存在をご存知だろうか?
あの狂信の時代から70年、神を抱く神国日本と熱狂した人、それに付和雷同した人、沈黙した人、裁かれるべきが誰か、今の世から見れば明らかだ。
あの狂信の時代に沈黙した人も、あの時代を作り上げた共犯者だ。今、社会の実態を知らずに同調する人も、また時代の共犯者なのだ。見解の相違ではなくて、知っているか、知らないか、の差だろう。
今の俺の意見を「よその社会が受け入れない」のは、だからこそ、こんな出鱈目な社会なのだ。これが70年後も、このままだろうか?佐伯さんの神の前に出たとき、その神は、俺の意見を称えるだろうか?それとも佐伯さんの意見を称えるだろうか!