みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

捕らえようとしたが

2017年07月29日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 7章25−36節

 いっしょに聖書を読んでいる方のお宅の帰り道、アジアの食材を売っているお店に立ち寄りました。お米や冷凍餃子などを買い求めて店を出ようとすると、お店の方がお煎餅を一袋、「食べて」とくださいました。お煎餅を買おうかなと思いつつ踏みとどまったところだったのでびっくり。神さまはこんな小さな者の思いをもご存じなのです(お煎餅を食べたそうな顔をしていたわけではないのですが…)。

 ここにはイエスとはだれかについて、人々がどう見ているのかが出ています。ここに登場するのは、「エルサレムのある人たち」、イエスを捕らえようとした「人々」、「群衆」、「祭司長、パリサイ人」、その手先となる「役人」、「ユダヤ人たち」と呼ばれる人です。それぞれの立場によって、ある人はイエスがガリラヤの出だということが妨げになり、ある人々はイエスが神を父と呼び、父と等しいと言ったことを問題にして亡き者にしようと画策し、ある人々はイエスのなさったしるしを見て信じるのですが、キリストとしてではありません。イエスを巡っても人々の見方が混乱している様子が見て取れます。

 そしてここにも「イエスの時が、まだ来ていなかった」ということばが出ています。捕らえようとしたが、捕まえることができなかったのです。それは、イエスは父がお定めになった時に向かって進み続けていたからです。それを妨げる外的な要因は、どんなに周到に準備がなされたとしても「イエスの時」の前には無力です。イエスは、成り行きで、次第に人々からの圧力が強くなったので、ついに捕まえられて十字架につけられたのではないのです。

 考えてみますと、私たちは自分では時を自分の思うように動かすことができません。「時の流れに身をまかせ…」というフレーズで知られる歌謡曲がありましたが、だれもが、時の流れには抗(あらが)えないのです。「私の時は、(神の)御手の中にあります。」と詩篇31篇にあることばが心に浮かびます。


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