ヨハネの福音書 6章60ー71節
スイスからの帰路、有名な保養地にお住いの方を訪ねました。途中、スマートフォンのナビが「あと1時間15分で到着」と目安を示していましたので、予め何時ごろに着くのかを電話で知らせました。
ところが、それからが大変。アウトバーンを降りて黒い森を通り抜けて目的地を目指そうとしましたが、工事中のために行く手を阻まれてしまいました。「それでは…」と、もう一度経路を確認して出発。ところが、選び直したルートも工事中。やむなく迂回すると、今度は農道のような道を通るような羽目に。そんなことが4回ほど立て続けに起こります。結局、予定到着時刻よりも一時間半も遅れてしまいました。やはり無料のアプリはこんなところが弱いのかもしれません。
忍耐して待っていてくださって、ほんとうにありがとうございました!
イエスによる「五千人の給食」というしるしは、イエスについて行こうとする弟子が増えましたが、結局はイエスから離れて行ったというのがきょうの箇所です。離れて行ってしまった人々は、イエスが話しておられることの意味がわかりません。それで、「これはひどいことばだ」とつぶやくのです。彼らは、目の前でパンや魚をおびただしい数に増やすことができるイエスの弟子となることで、生活の基盤は満たされるというような考えでいたのかもしれません。ですから、そんな彼らにはイエスが話しておられることの意味がわかりません。わからないどころか、「ひどいことばだ」とさえ言うのです。
きょうの箇所にも、イエスがすべでを知るお方、神であることを福音書の作者ヨハネは証言しています。「にわか弟子たち」の心にあることを知るイエスは、十二人の弟子たちの中の1人が裏切るのも知っておられました。けれども、ここでイエスはご自分を裏切る者は「…だ!」と名前を明らかにしてはおられません。「みことばの光」が書くように、彼に悔い改めの機会を用意しておられたのかもしれません。
イエスがすべてを知っておられるというのが自分にとってどのような意味を持つのかと、問うてみるはどうでしょうか。