スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&表象像と理性

2024-05-10 18:56:59 | 将棋
 札幌で指された昨日の第35期女流王位戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女流四段の先手。先手がなかなか角道を開けなかったので,後手の福間香奈女流王位は角道オープン向飛車に構えました。後手が角道を止めたところで先手が角道を開けてすぐに開戦。先手玉がコンパクトにまとまっているのに対し,後手は囲いが未完成でしたから,うまいタイミングでの仕掛けだったと思います。後手は囲いが完成してから角道を止めた方がよかったのではないでしょうか。
                                       
 この将棋はここで☗5八同香と取ったために☖8八金☗同玉☖6九龍で一遍に終わってしまいました。☗5八同金と取ると形が悪くなる上に,☖6四桂や☖5七歩などの攻めは生じますが,それでもすぐに先手玉が寄るわけではなく,まだ激戦が続いていたでしょう。
 里見女流王位が連勝。第三局は23日に指される予定です。

 理性ratioは身体corpusの刺激状態の観念ideaではありません。理性の基礎は共通概念notiones communesですが,共通概念は身体の刺激状態の観念と異なったものだからです。人間は外部の物体corpusに刺激されるafficiことによって諸々の表象像imagoを獲得しまた共通概念を獲得します。いい換えれば,自分の身体が外部の物体によって刺激されることによって,それが獲得されるという点では表象像も共通概念も同じです。しかし表象像が自分の身体の刺激状態の観念であるのに対して,共通概念はそうではないのです。このことは,諸々の表象像が混乱した観念idea inadaequataであるのに対し,共通概念が十全adaequatumであるということから明らかだといわなければなりません。身体の刺激状態の観念というのは,刺激するafficereものと刺激されるもの,すなわち外部の物体と自分の身体の双方の本性essentiaを含むような観念です。ですからそれは外部の物体の十全な観念idea adaequataではあり得ませんし,自分の身体の十全な観念でもあり得ません。前者は自分の身体を刺激する限りでの外部の物体の観念ですし,後者は外部の物体に刺激される限りで自分の身体の観念であるといわなければならないからです。しかし共通概念はそうした観念ではないのであって,刺激するものと刺激されるもの,つまり外部の物体と自分の身体に共通するものの観念です。そのゆえにそれは,第二部定理三八および第二部定理三九により,十全にしか概念され得ないのです。ただしそれは共通するものの本性なので,個物res singularisの本性ではありません。つまり,外部の物体に刺激される限りでの自分の身体の観念ではありませんし,自分の身体を刺激する限りでの外部の物体の観念でもないのです。よって共通概念は,身体の刺激状態の観念ではありません。
 國分はこのことについて,哲学の伝統としての説明を与えています。共通概念を基礎とした認識cognitioは,自分の身体の刺激状態の観念を対象とはしていないがゆえに,この種の認識は理性といわれるのです。理性を身体から独立した認識とするのが,哲学におけるオーソドックスな考え方だからです。ただしこの種の伝統は,スピノザの哲学では新たな側面が与えられているのも事実だといえます。スピノザは理性を最高の認識とはしていないからです。

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