スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&チルンハウスとステノ

2024-05-01 19:33:28 | 将棋
 4月25日に樫野俱楽部で指された第35期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は福間香奈女流王位が40勝,加藤桃子女流四段が13勝。これはNHK杯の予選を含んだものです。
 振駒で福間女流王位が先手となって5筋位取り中飛車。後手の加藤女流四段は超速銀。6筋で銀が向かい合ってから持久戦になり,先手の銀冠に後手の左美濃なりました。
                                        
 第1図から後手は☖5六角と打ちました。先手が☗4七銀と角に当てて受けると後手は☖6七角成。
 手番を得た先手は☗3五桂と打ち☖3四銀に☗3六銀と受けに打った銀を活用。後手は☖3一玉と早逃げしました。
                                        
 これは広い方に玉が逃げようという意図ですが,この展開では手数が伸びるだけで後手が勝つ要素が皆無になってしまいました。なので後手はどこかで勝負に行かなければならなかったことになりそうです。ここに示した手順でいえば,☗4七銀と打たれたときに☖同角成☗同金☖5六金のような手段が必要だったということです。それでも負けかもしれませんが,実戦は同じ負けるにしても悪い負け方になってしまったように思います。
 福間女流王位が先勝。第二局は9日に指される予定です。

 ステノNicola Stenoの手に渡った『エチカ』の手稿が異端審問所に提出されたのが1677年9月23日です。スピノザが死んでから7ヶ月後のことです。このときには当然ながらチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはローマにいたのです。ステノが何らかの方法でチルンハウスから手稿を入手したのはローマにおいてだと考えなければならないからです。それから,ステノはそれを入手してすぐに提出したわけではありません。内容を精査した上で,弾劾書も書いて提出したのです。この手稿は,ほぼ僕たちが読むことができる『エチカ』と同じ内容になっています。いい換えればほぼ同じだけの分量があります。ステノがそのすべてを精査したかは分かりませんが,仮にそうであったらそれは1日とか2日とかでできることではありません。ですからこの場合には,もう少し前からチルンハウスがローマにいたと考えなければなりません。
 ステノはスピノザがレインスブルフRijnsburgに住んでいた頃にスピノザと出会っています。その後でカトリックに改宗し,フィレンツェに移りました。チルンハウスはシュラーGeorg Hermann Schullerと知り合うことによってスピノザと会いました。これはスピノザがハーグDen Haagに住んでいたときのことです。オランダに来たのは1668年だったと思われますが,そのときはスピノザはフォールブルフVoorburgに居を移していました。ですからふたりがオランダで顔を合わせていたことがあるとは想定しなくてよいでしょう。何らかの理由でチルンハウスがイタリアに行ったので,そこでふたりは出会ったのです。ただ,ステノはこの時点ではカトリックに改宗しているスピノザの反対者ではありますが,かつてはスピノザの友人,おそらくは師弟のような関係で結ばれていたことがあり,チルンハウスも『エチカ』の手稿の保持を許されていたくらいの信頼をスピノザから受けていたのですから,出会ってしまえば,スピノザのことを話すということもあったでしょうし,その関係から友誼を結ぶということもあり得たのではないかと思います。
 チルンハウスが『エチカ』の手稿を所持しているということを,なぜ知ることができたのかは謎です。チルンハウスは少なくともホイヘンスChristiaan Huygensにはそのことを隠し続けていました。
コメント
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