スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

習志野きらっとスプリント&漠然性

2017-07-26 19:27:12 | 地方競馬
 北海道から1頭,笠松から1頭,兵庫から1頭が遠征してきた昨晩の第7回習志野きらっとスプリント
 発馬が最もよかったのはディーズプリモでしたが内から交わしていったスアデラの逃げに。押してきたフラットライナーズとディーズプリモが並ぶところ,加速がついたタイセイバンデットが間を突いて2番手に上がりました。5番手にハイジャ。この後ろはワディ,ニシノラピート,ブルドッグボス,マルトクスパート,ランドマーキュリーの5頭が集団で追走。最初の400mは23秒0でミドルペース。
 3コーナーを回って前の2頭が3番手のフラットライナーズとの差を広げていきました。押したタイセイバンデットが直線に入るところではスアデラの外まで並び掛けましたが,まだ手応えには余裕があったスアデラがここから追い出すとタイセイバンデットを置き去りにし,鋭く逃げ切って優勝。タイセイバンデットが6馬身差で2着。コーナーでは離されながらも懸命に前の2頭を追っていったフラットライナーズを直線で外から交わしたブルドッグボスが1馬身半差で3着。フラットライナーズは1馬身差で4着。
 優勝したスアデラは南関東重賞初勝利。一昨年の6月にデビューして3連勝。昨年はクラシック路線を歩んだものの手が届かず。今年の5月に1200m戦で復帰すると5馬身差で快勝。前走の1400m戦も5馬身差で圧勝しここに挑戦。結果的にみると,クラシック路線でそこそこ走っていたのは競走能力の高さがあったからで,本質的にスプリンターであったということでしょう。短い距離のレースではかなり活躍できそうな勝ちっぷりでした。父はゴールドアリュール。母は2007年のエーデルワイス賞を勝ったマサノミネルバ。Suadelaはローマ神話の女神のひとり。
 ジャパンダートダービーを勝ったばかりの船橋の本田正重騎手は南関東重賞は一昨年のハイセイコー記念以来の3勝目。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理している船橋の佐藤裕太調教師は開業から約2年9ヶ月で南関東重賞初勝利。

 スピノザによる第三部定理五三証明は論理的にいえば成立していると僕は考えますし,納得することもできます。しかし最初にいったように,僕はこの証明Demonstratioは漠然としすぎていると感じます。なぜそのように感じるかといえば,現実的に存在する人間の身体corpusが外部の物体corpusによって刺激される様式を,自己自身ならびに自己の活動能力agendi potentiaに限定して,いい換えればその部分だけを抽出しているからです。実際にはこの様式が現実的に存在する人間に齎すのは,自己自身ならびに自己の活動能力を観想するという事象に限られるわけではありません。それなのにこの部分だけを抽出して,それは喜びlaetitiaであり,かつより判然と表象するimaginariほど大きな喜びであるというのは,実際にこの様式が僕たちに齎すものの全体からみたら,否定されるような要素が含まれているといえるでしょう。
                                     
 僕たちは自分の身体が外部の物体に刺激されるという様式そのものから,喜びを感じるということがあり得ます。つまり自己自身ならびに自己の活動能力を表象せずとも喜びを感じる場合があります。またそれとは逆に,そのことによって悲しみtristitiaを感じるという場合もあります。スピノザがそういうことがあるということについては肯定するであろうことは,第三部要請一から明白であるといわなければなりません。
 したがって第三部定理五三というのは,たとえある人間が外部の物体に刺激されることによって悲しみを感じるということがあったとしても,そのことによって自己自身ならびに自己の活動能力を表象するならその限りにおいてそれは喜びであるという意味が含まれていなければなりません。そして実際にこの定理Propositioにはそういう意味が含まれているのだと僕は解します。端的にいえば,悲しんでいる自分自身を発見するなら,それはその限りでは悲しみではなくて喜びであるということをスピノザはいっているのだと僕は解します。ただ,この定理や証明の方法からは,そのことが見えづらくなってしまっていると僕は感じるのです。このために僕はこの証明は漠然としすぎていると感じるといったのです。
 悲しんでいる自分自身を観想することはなぜ喜びであるといえるのでしょうか。
コメント
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