スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

合同興行&次回の通院

2014-09-04 19:11:53 | NOAH
 馬場が大巨人と初めてタッグを結成したのは1990年4月13日の東京ドーム大会。全日本プロレスと新日本プロレス、そしてWWFの合同興行でした。このときWWF側の交渉の全権を任されていたのが佐藤昭雄。この興行の経緯についても佐藤はインタビューで明かしています。
 佐藤が準備のために帰国したのは1989年1月。まず馬場に会いました。佐藤は全権を委任されていましたが、過去の立場からしてまずは馬場に会いにいくべきだと考えたようです。ただ、このときの佐藤の頭の中には、WWFと全日本プロレスで合同興行を開催し、もしも馬場が断ったら、新日本と交渉して、新日本との合同興行を開催するという考えがあったようです。
 佐藤との会談の中で、馬場の方から、全日本とWWFだけでなく、新日本も一緒にやろうという提案がありました。新日本とは馬場の方から話をするとのこと。当時、新日本は坂口が社長で、猪木や長州がトップであったならこうしたことはあり得なかったと僕は思いますが、馬場と坂口はそれほど険悪な関係ではなかったので、馬場もこうした提案をしやすかったのでしょう。
 ここから話はとんとん拍子で進み、28日にはWWFの社長だったビンス・マクマホンが全日本のリングに登場。翌日に馬場、坂口、ビンスの3人で記者会見が行われました。
 マッチメークに関して、WWFから日本側には注文はなかったと佐藤はいっています。馬場がカードについて佐藤に尋ねたとき、佐藤がアンドレとのタッグを提案すると馬場はにっこりと笑ったとのこと。おそらくそれが馬場にとって最も望んでいたことであり、佐藤にもそのことがよく分かっていたのでしょう。
 合同興行の直後に天龍源一郎が全日本を離脱。天龍が移籍したSWSがWWFと提携することになりました。それが11月のこと。佐藤はこのときも事前に馬場を訪ね、WWFとの提携をもちかけたそうですが、天井を向いて葉巻の煙を吐くだけで無言。佐藤はすべてを察し、馬場のもとを立ち去りました。
 WWFにとっては分かりませんが、この提携を拒んだことは馬場にとっては正しい判断だったといえるでしょう。そうでなければ最良の時代を迎えることはなかったであろうからです。

 次回の通院は1ヶ月後に設定されました。通常は2ヶ月後ですから、期間が短くなったことになります。これはHbA1cの値が悪かったため。そしてもうひとつの事情もありました。U先生が3月一杯で,みなと赤十字病院を退職することになったのです。したがって、それまでと同じ間隔での通院となると、4月になりますから、新しい主治医が担当することになります。もしも検査の結果に異常がなかったなら、そういうふうになったでしょう。しかし今回は結果が悪く、そのために注射するインスリンを増量するという措置を講じました。ですからU先生としても、すぐに新しい主治医に引き継ぐよりも、もう1度、自身で診察したいということだったのです。なのでもしもU先生の退職ということがなかったなら、2ヶ月後の通院ということになっていたかもしれません。
                         
 そしてこの日から、また血糖値測定器が変更されることになりました。血糖値測定器具一式が変更されたのは、2012年の12月の通院のとき。まだ1年半も経過していなかったわけですから、再度の変更には多少の驚きがありました。こういうのは病院側の事情によるものと思われますから、その理由は定かではありません。患者としては指示に従うよりないところです。ただし、患者からの都合でいえば、ひとつだけ考えられることはあります。このときまで使用していた測定器は、従来のものと比較したなら、だいぶコンパクトになっていました。ただし小型化されることは、一概に利便性が高まることを意味するわけではありません。針の着脱などで使い勝手が悪くなったと感じた患者はおそらくそれなりにいた筈で、もう少し大きなものを要望する声があり、それに応えたという可能性は皆無ではありません。ここからお分かりのように、今度のものはまた大きなものになっています。
 この変更のためにまた講習が必要となりました。前回と同じように、奥の処置室で。このときは看護士が対応しました。測定の方法は同じです。また、測定器の内部にメモリがあって、通院のときに測定器を渡すと、結果が自動的に出てくるのも同様。つまり自己管理ノートが僕だけに必要なものであるという状況に変化はありませんでした。
コメント
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