人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本心

2017-11-12 06:38:29 | 雑感
本心...
誰もが言っています。
"私は本心から思っています。本心で言っているんですi"と...
でも、それは大概は自分で"本心だと思い込んでいる"だけではないでしょうか?
思い込みでない本心とは?...
実は...悟ってない私には分かりません。偉そうなことはとても言えません。
ある人は"本心とは、神そのもの、神と一つになった心のことを言い、光一元、善があるのみで、一点たりとも闇や悪、不調和など見出せないものだ" などと宣うかもしれません。
実に悟ったような物言いですね。
しかし、それがただそう思っている、そう思いたいところからの言明だとしたら、これほど本心というものを覆い隠してしまう、見えなくさせてしまうものは無いでしょう。
これまで宗教やスピ界隈で、どれだけこうした"正しい信仰"から偽善者を造り出して来たことでしょう。
私には本心が"こういうもの"と言うことは出来ません。ただ自分の心というものが全くあからさまとなり、全く誤魔化すことも、疑うことも、隠しおおせなくなってしまうようになることは知らされています。
それはどこまでも突き抜けられており、吹きさらしになっているのです。
そこでは、自分の心というものが、まさしく"そう思っていたもの"であることが明らかになります。何も思っていない、思いが超えられてしまうことで...
このようなことは、自分からそうなることは不可能です。自分自身では本心が分からないのです。
思われたものでない本心(らしきもの)は、恩寵の、光の照射によって示されるのです。
そこに正しくありたい人が言っているような、強がりなどあり得ません。そんなものは木っ端微塵ですi
そのように見せる、誰かなど居ません。自己の現存を目の当たりにするだけです。
真反対の無力さ、弱さ、ただ赤子のように泣きじゃくっているだけしか出来ないような、素っ裸の状態にされるだけです。
そこには善も悪もありません。これが本当に"ありのまま"ということでしょう。
そこで初めて知らされるのです。自分を超えた神的なものと真向きに、その中にあり、そのもの無しに寸時も生きることが出来ないということを。
ここから、思われたものでない、深い意識で神的なものと一つになったような領域が開かれたりします。
その主体は、どこまでも限界を超え出た、明け渡された先の"我ならぬ我"なのです。
このことは、ありのままの自分を離れては無いのです。
こんな訳で何が自分の本心であるかは、今でも分かりません。
そう思い込んでいるものは、けっしてそうでないことが分かるだけなのです。

この世に生きている人間はどこまでも弱いもの...如何なる人でも、自分自身のことが分からなくなるように、迷いの淵に立たされることもあるでしょう。
このことに真っ直ぐに向き合い、そのありのままの事実を受け入れてこそ、思いを突破されるものへと意識が向き、自己の本座なるものに導かれるでしょう。



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