人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

夢の中の瞑想会

2023-09-30 09:25:18 | 祈りと瞑想
今朝、一寸不思議な夢を見ました。
私は誰も知らないような、小さい規模のある瞑想会に行こうとしていました。
途中、バッタリ顔馴染みの瞑想家、K先生に会い、その集会室に誘われて行きました。
その中は、如何にもという感じの、何やらインド風の装飾にあふれ、香の臭いが立ちこめている感じで、K先生の趣向が表れているようでした。
実に久しぶりの出会いにも関わらず、先生からはそのことを感じさせない表情が見られました。
私は、正直に別の瞑想家の集まりに行こうという旨を伝えたのですが、「ほお、そうなんだ?」と、かなりアバウトで、あまり立ちいった、微妙な話題になることもなく、少し共にいつものシンプルな瞑想をしました。
その瞑想では、別に珍しいことじゃないですが、ある種の”波動共鳴”?のようなことが起こり、心地よい気分のうちにそこを後にして、すっかり外は暗くなった中(どこの駅だか分からないのですが、かなり具体的に思い描ける)、路面電車らしいものに乗り、その集会所を目指しました。
そこに着くと、かなりみすぼらしい、バラックのような家で、中はやはりかなり荒れ果てていて、先のK先生のところとは対象的な感じでした。
その未見であるはずの、何でも元オショー.ラジニーシの弟子だったという以外、詳しく知らない先生は、雑魚寝をしていて、私の他、誰も来ていませんでした。
しばらくして、目覚められて「なんだー、居るんなら起こしてくれよう!」と、初対面ということを全く感じさせない、やはりアバウトな立ち居振る舞いなのでした。
顔を見ると、絶対にどっかで会ったことがあるということが分かりましたが(これも、かなり具体的に思い描ける)、どこで会ったかは分かりません。
かつて大阪にあった、小さいレコード屋さんの店主に酷似していました。瞑想家というより、安居酒屋の朴訥なマスターという感じにしか見えません。
「ここは、表向き踊りを教えていることになってんだけど、瞑想なんて言うと、警戒して貸してくれないからなあ!」とか、誰も来ないまま、その初めて携わるであろう、瞑想の説明も無いまま、雑談をいくつかしているうちに、強い”波動共鳴”が起きたらしく、そこからの記憶は無くなってしまったのです。
そして、目が覚めると...その波動共鳴は続いており、深い瞑想状態というか、深い祈りの、現臨にある、と言ってもほぼ同じ意識状態になっていたのでした。
これは、本当に何にも代えがたい至福の一時という他ないものです!ただ、それに与っていたらいいので、余計な説明、理屈など一切要りません。
そして、いつも感じるのは、”ああ、どうしてずっとこういう状態のままで居られないのか?”、というものです。又寝ると消えてしまうので、もう寝たくない!、という望みも空しく、自然な生理現象には勝てないのでした。
コロナ感染と共に始まったこの月も、中秋を迎えて終わろうとしています。
疲労感や、旨の圧迫感が中々抜けず、まだ元通りにはならない状態が続いているのですが、何かが”開かれた!”という感じは確かにあります。
それにしても、何故か久しぶりのK先生、そして又全然心当たりの無い謎の瞑想家...あれは誰だったのだろう?...
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霊性の回復

2023-09-28 09:41:07 | スピリチュアル
精神的な道には、誰かの創始とされる、数多の教えや方法があります。
創始者がそういうものを考えたのでしょうか?
けれども、それが一個なる者の考え、力に留まるならば、行き詰まるか、型にはまって生きたものにならなくなるでしょう。
何故ならば人間存在は、考え、為すだけのものではないからです。
それを超えた、超越的な領域、あるいは内在、内奥に息づいているものに根源的結びつきがあるからです。
この思いを超えたものに開かれることなく、つながりを持たなければ、生きたものにはなりません。
とはいえ、自分の考えや力で捉えることが出来ない故、時には教え、方法といった、何らかの形を”借りる”必要性もあるでしょう。
しかし、それがその”仮”に表したものを超えたものを示さないならば、その生きたものでない形だけが残るということになってしまうのです。
このことは、多くの形骸化した宗教、スピ界や、全く知的遊戯のような、観念世界に閉じ込もり、行き詰まった感のある哲学界の現状を思い浮かべるまでもないでしょう。
霊なる、命のエネルギーはその超えたところから流入し、それに与ることが出来るのです。人間存在の根源にあるもの...それを霊性と言ってもいいでしょう。
人間は神と一つであるとか、想像に基づいてあまり思念を膨らます必要もありませんが、私はこの霊性とのつながりを疑うことが出来ません。
それが何故、我々はその生き生きした霊性を感じることが出来ないかと言うと...意識していないからです。思考に閉ざされて、表に顕わになってこないからです。
だから、思いを超えたものに意識を向けて、霊性を回復しなければならないのです。
しかして、その方法は?...いつも言ってるでしょ?
方法はあなたに適したものなら何でもいいけど、囚われたら霊性を閉ざしてしまいますよ!
私は、それは祈りと瞑想の道と言ってもいいと思いますが、幾分、超越的な方に意識が向かうものが祈りで、内在的な方に向かうものを瞑想と呼んでいいでしょう。
意識を向けるとも向かうとも言ってます。向けるのは多分思い、為そうとする自分でしょうが、向かうのは、霊性によって呼び覚まされるようなことです。
こういう祈り、瞑想には方法なんてありません。
私はただ自分に自然に身についた、適した道を言い表しているまでです。
自然に、というのは”本来性”を示しています。霊性に根差した在り方とは、けだしそういうもののことでしょう。
だから、それは回復されるものなのです。
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現実はどうなのか?

2023-09-25 09:53:55 | 求道、探究
「哲学が我々にいかにくわしく普遍的理性の存在を教えても、それが私の理性とどんな関係にあるのか教えてくれなければ、何の慰めにもならない。...彼らの主張する諸学説は、生きた、人格としての人間にどのような恩寵と光明を与えてくれるのか?...」
(ベルジャーエフ「人間の運命」

ベルジャーエフは、同時代の哲学者たちにこのような不満をぶつけていたのですが、ことは恩寵と光明ということになれば、哲学を含めた精神的な道全般の問題ということになるでしょう。
そう、我々が現実に幸福、光に与るかどうかが問題なのです。
それに答えられない、如何なる高踏な教説、方法論があろうとも、所詮はただの能書きに過ぎないと言わねばならないでしょう。(勿論、これは主体となる自己の在り方、向き合い方とも深く関わるのは言うまもないですが...)
だから私は、”この教えを信じたら、この方法に従えば、必ず幸福を得られる”、という文句など全く信用していないのです!
ものは試しということもあるかもしれませんが、私はほとんどそういう風に試みた、ということがありません。
本当に私が幸福に導かれる道があるのなら、最初からその道に赴いているはずです。
これは、どういうことを言っているのかというと...最初から意識がそっちに向いちゃうからそうならざるを得ない、ということ...言い換えれば、現実にそっちに意識が向くということなのです。
向かないものは、いつまでも自分と切り離されて、向こうに置かれたまま、思い描いていて、分かった、為したつもりになるだけです。
だけど、能書きにひっかかる人というのは、得てして、”これをし続けていたら、そのうちに求めているものを得られるだろう...”という思い込みから抜けられないようです。
その場合でも、そうし続けていて、かくなる未来でない、今の自分が幸福に感じているかどうかがポイントとなるでしょう。(そして、未来に囚われていると、得てして気付かないもので、いつも”そのうち、そのうち”で、一日の、否人生の日が暮れるのです)
現実にどう感じているか、ということは、今の自分の意識がどっちを向いているか、どうあるのか、ということに他ならないのです。
意識が向くとか、動くということは、そこにそういうハタラキがあるということで、これは、意識するからはたらく、はたらくから意識されるというように、切り離せないものと言えます。
私は”こうすれば!”、という特別な方法には意識がどうしても向かわなかったのですが、これは現臨感覚に目覚めた頃と対応しているかと思います。
意識はそっちに留められていたのです。
これは、今まで自覚意識(意識のことになるとどうしても表現がややこしくなります)は無かったのですが...私の意識は大体において、(前々回に書いた)”私、神(絶対的なもの)、ハタラキ”、の三位一体の中にあった、と言うことが出来るでしょう。
それは、現臨の中にあることと言い換えてもいいのです。
それが、私、神的なものを現実在らしめるものに他ならないのだから...
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認識と秘儀参入

2023-09-24 10:25:19 | 人生の教師
「我々が認識を霊的に理解するならば、認識とは、”それによって、又、そこにおいて、あるものを現実にもたらすはたらき”、ということが出来よう」
(ベルジャーエフ「人間の運命」/白水社刊)

昨日、ベルジャーエフの本を読み返していたら、前回の記事の内容のことを一言で言い表している、この文章に接して驚いてしまいました。
もっとも、ベルジャーエフならどの本を紐解いても、そういうことが書かれている、くらいのことは私の頭にもあるのですが、これは、”じっつに前記のことを代弁しているではないか!”、と感じ入った次第なのです。
この文章は、哲学的認識に関して述べられたものなのですが、我々はこの認識について、あまりにも皮相的な理解に留まっていると言えないでしょうか?
自分についての、他者についての、世界、歴史、あるいは神...それらを客観的対象にして、何かが分かったような気になったとしても、それは知的概念、抽象論として認識しているだけであって...と、このように文章が続けてられること自体が、正に皮相的な理解たる所以なのです。
一体そこで何を認識したと言えるのか!...主体となる私と対象が分離したままにあって...一番の欺瞞は、自己を客観的にして考える、所謂自己認識と言えるでしょう!
考えているだけのこと、そこから導き出せる如何なる見解も認識には到達出来ないのです。...これらの通弊を招いたものは、多く所謂”哲学的認識”、とされるものとは言えまいか?!
これに対してベルジャーエフの認識論は、「現実の存在は認識を通して照明を受ける...」というところから始まり、「私の存在の意味は私が私自身のうちに、則ち霊のうちに完全に入りこみ、客体が私にとって、全く存在しなくなった時初めて解明される」(上掲書)という具合に展開するのですが...(これが認識論なのか?、と驚嘆する思いと、先のこんなものが認識論なのか?という思いが私の中で裏表になっています)そこでは、自己と霊なるものとの交流が強調されているのです。
彼の多くの著書で、このような認識論をその導入部として、初めの方に位置づけているのですが...この認識が本当になされたのなら、あなたの人生はきっと一変するだろうと思いますよ!
しかし、それをどう読むかはあなたの自由です。
数多の所謂哲学的認識論として読むことも可能です。一風過激で変わった認識論の一つとして...
ただ書かれた言葉をなぞるだけで、見えない手によって、聖霊のバプテスマへと導く、秘儀参入としての按手礼みたいなものが行われる訳では無いですからね...
だが、あなたが本心から、本当の自分、自己を超えた霊なるものを望むのなら話は別です。
言葉、抽象概念を超えて、客観的知識ならぬ、あなた自身の内なるものを揺れ動かす、霊的媒体とならないとは限らないのです。少なくとも私は、そういう読書体験をしたことがあるのです。
本来の哲学的認識とは、自己実存を明らかにする、超越的な現存に与ることであったのです。
これは、正に秘儀参入の道と言っても過言ではありません。
ベルジャーエフは、それを哲学的表現の中に秘儀として隠していたようです。
何人が、その門を突き破って、人生の裏側へと足を踏み入れたかは知る由もありませんが!...
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普遍的なトライアングル

2023-09-22 09:07:23 | スピリチュアル
いつも言うように、私が精神的な道について書いていることには、私が考えた独創的な理論、方法といったものは何一つありません。ただ私なりの表現というものがあるだけなのです。
例えば”神的な現臨”というものでも、古今東西のあらゆる宗教、スピの道において触れていないものは無いと言っていいでしょう。触れていないとしたら、それは観念に浮くか、形骸化するしかありません。
つまり、”道は生きたものでなければならない、そうでなければ何になる”、ということなのです。
そのように、あらゆる精神的な道に通底している普遍的な在り方というものがあるのではないか?
その一つは、”三位一体”の道であろう!...”出たよ!、コイツが言うんだから、それがキリスト教の教理でないことくらい分かってるけど、独自の三位一体論とかを展開しようとしてんだろ?
だからね、そういう表現は、キ教の独占物のように思われていて、あまり言葉としては、表されてこなかっただけで、ホントはそういうものが常に内包されているんだ、ということを言いたいの!”
父と子と聖霊の三位一体、トライアングル。それはこれと重なったものだけど、ただ抽象的な教理として自分の向こうに置いて信じ従っているだけだったら生きたものにならないでしょう。
だから、主体となる私を置いて、現実にその世界に入っていなかったら、すべて絵のように思い描かれたもになってしまいますよ!
子たるキリストとは、私と切り離されたものである訳が無い!...
父とは、名前は何であれ、絶対者のことでしょう。理屈を超えた絶対なるものを頂かなければ、向かうとか、惹かれるとか意識が動くということがありません。
向こうを眺めているのでなく、現実に意識が動く!...そこにはハタラキがある、力学的エネルギーがある...これを聖霊というもので表しているのでしょう。
ダンマと言い、タオと言い、その道が生きたものとなるのは、このものが生きてハタラクからと言っても過言ではないでしょう。
これ無くして、絶対なるものと一如に、一つになることがありません。
しかし、絶対者と私の一如の関係というものは、力学的ハタラキを超えた、愛、安らぎというものがあります。そこにこの三つが一つのものとなることによる綾というものが息づいているのを感じます。
これらのことはことごとく、三つで一つに相即し合って分かち難く結ばれているのです。
私を離れて父も聖霊も無く、父を離れても聖霊を離れても同様に...
神と人と聖霊は一つ!...わが実存において一つ!...現臨にあって一つ!...言葉、表現を超えて、普遍的に一つのものを感じてこないでしょうか!?
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