人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

観念と現実

2021-02-28 08:37:18 | 詩的文章
つらい、苦しい...
現実に...そう感じている
しょうがないi
現実は動かせない
現に感じていることは観念じゃない
つらくない、苦しくない...
どんなに観念ごとにしようとしても...
つらいものはつらいi
太陽が東から登って、西に沈んでも...
つらいものはつらいi

神よi、これはあなたが与えたもうたのですか?

現実は受け入れなければならないi
そうしようと思わなくても...
眼中に現実はある
太陽が西に沈んでも...
空が深紅に染まっても...
いつの間にか、光が紫雲のうちに消えてしまっても...
いつの間にか、つらさが消えて行ってしまっても...
ん...どうしたんだ?
この現実は?
そう思っているのだろうか?
思わなくたって、日は暮れて夜は来る...
夜は暗いのに、明るいことになりはしないi
暗いものは暗い!
そして...つらくない、苦しくないi
うれしいi...
観念ごとになどしたくないi
これが現実なのだから...

神よi、これはあなたが与えたもうたのですね?


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思いの抜け道

2021-02-27 10:05:44 | 求道、探究
自分の人生を省みて、人間の性格というものは、変わらないものだとつくづく思います。
少なくとも、自分から変えようと思って変わったためしなどありません。
例えば、自意識にトラワレて神経症のようになる性格なんかは、そうして変えられない、変わらないことでかえって自分を責めて、新たな神経症の種を生み出してしまう始末です(笑)
しかし...あれほど私の精神を苛み続けた、あの思いのガンジガラメ地獄というのは、何十年もご無沙汰になっているのです。今のところ...
先の理由で、自分でそれを克服したという感じは持てないのですが...
勿論、悩み多き人生ではある訳で、心が引っ掛かるようなこともあるのですが、大概はすぐ解消されてしまいます。自然と...。
そう、自然と"神的なものに意識が向けられる..."、これが大きいことなんですi これが本当に神がかったことなんですi
神的なものは思いを超えているものなのだから...
よく悩んでいる時は、空とか海とか大きなものを見たらいい、とか言います。
原理は同じようなものなのでしょうが、それよりもはるかに即応的です。
見てるだけじゃなくて、じんじんと意識に浸透してゆく感じがあります。
そして、自分は自分だけで生きているんじゃない、ということが感じられてくるのです。
そういう風に自分の思いをコントロールしたり、イメージ.トレーニングするってことじゃありません。
それも悪くないでしょうが、どっかに思いの抜け道を作った方がいいでしょう。
要するに、自分をどうこうするってことじゃない、自分の思い、行為のことにするんじゃないのです。
自分がどうなってても、そのままでいいってことです。
といって、自分が苦境に陥っている渦中にあって、そのままでいいことにはならないですよ。
"そのままでいい、そのままでいい"、と思おうとしたって、苦しいものは苦しいのです。
それでも、どっかに思いの抜け道は感じられるはずです。人間はいくら頭の中に思いが一杯であっても、思いだけで生きてる訳じゃないのですから...たとえわずかな隙間、通気孔のようなものであっても...
そこから漏れる僅かな新鮮な空気が感じられれば、それがいつの間にか思いの密閉状態から解放してくれるのです。
いつの間にか、その僅かな空気が自分のすべてを包んでいるようになってしまう...
神的な気というもの...それが感じられたら、感じられるから、そのままでいいのです。
実は自分でこう書いていて、どうしてこういう風になったかよく分からないのです。
ただ、意識が向く、向いちゃった、としか言いようがありません。
自分で自分を変えることは出来ないけど、最愛なるものにあって、春の訪れのように、変わる時は変わるということでしょう。

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自己と神的なもの②

2021-02-25 11:46:51 | 
私がやたらと神的なもの~神のことを持ち出すのには、大きな理由があります。
これまで何度か書いてきたことなのですが、それは、私が生来から自意識過剰な性質を抱え込んでいたことです。
これが私の人生でしばしば思いのガンジガラメ、観念地獄の苦しみを引き起こす要因ともなったのですが...
これは、限界ある自己にまつわる思いに、意識が閉ざされた状態であることを物語っているのですが、こうなると袋小路の中で思いは果てしなく流転し続け、しまいに強固に凝り固着しだし、所謂ノイローゼのような状態に陥ってしまうのです。
この苦しみはイヤというほど味わって来ました。ということは、そういう私の生来からの弱点というべきものは自覚されていたのです。
それと共に自意識過剰ということは、自我的な思いが強いということになる訳ですが、こちらの方は中々自覚されない...というか、だから自我が強いというべきか...トホホ...多分それはこのまま改善されないでしょう。
フツーに考えれば、こういう質の人間が精神的目覚めに与るのは難しいことで、あまり無いように思えるのですが...だって、超えられるべき思いがガンバってる訳なのですから...
それが、エゴの強さが克服されないまま、何の間違いでか、そういうことになってしまったのは、おそらく思いの限界内に閉じ込められる苦しさというものを知っていたからでしょう。
そして、思いを超えた世界から再び自意識の強い生活に戻ると...どういうものが意識にもたげてくるかは分かりきってます。"私は悟った人間だ、特権階級の人間なのだi"、といったテング性です。
つまり、思いを超えたものを目の当たりにしていながらも、そういう主我的な思いもずっと払拭されることが無かったのです。
それで、そういう思いがもたげつつも、そのことを他に向けて言い表すことは封印されたのです。
これは、私の思いを超えたところから為さしめられたことです。それを見えない導きと言ったりするのですが、内なる私の声と言ってもいいものでしょう。
"お前は何も知らなくていい、何も言わなくていいんだi"...そういう風に赴こうとすると、かーっと頭が締め付けられる感じがしたり、思考がバラバラになって言葉が出なくなったりするのです。
今みたいに、スラスラと言葉が出てくるようになったのは、その後、ああいう精神的目覚めというのは、全くこの思われたままの自己がどうなる、こうなるってことじゃなかった、ということが単なる頭の理解からでなしに、身に覚えるようにも腑に落ちるようなことがあってからです。
と同時に、そのことに意識が向けられると、この思いの固着というものが、スルッと抜けるというか、離れてゆく感じを覚えるようになったのです。
そうです...意識すると、ぱっとそうなる感じです。
こういうことは、何度も言うように思われた自己だけからはそうなりようがないのです。(自己というものは、それを超えたもの共々があって自己なのであって、それのみの切り離された自己というものはそもそも存在しないのでしょう)
そこに思いを超えたものが現存している...現臨してくるものがある...それを神的なものと言っているに他なりません。
ここに、神的なものとは、思いを超えたもので、超えせしめるものである、とくどいほど言っている理由があるのです。
エンライトメント、精神的目覚めに与るということは思いを超えるということです。しかし、この神的なものと共にあるということが蔑ろになるならば、そこに容易く思われたままの自己が、その真の主体者に取って代わってしまう事態にもなりかねないでしょう。
それは全くもって、"すべての私"の生における、もっとも取り返しのつかない事態だということは知らされています。
だから、私は神に意識が向けられざるを得ないi...それは私が図ってやっていることではありません。自ずからそのように赴かされたことなのです。
神と共にあることは、すべての私に関わることなのでしょう。
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自己と神的なもの

2021-02-23 03:23:25 | 
初めてこのブログを読まれた方は、一体何を書いているのか戸惑う向きもおありかと思います。
例えば、神という言葉がやたらと出てくるので、何かの宗教を信奉しているのかと思われたりするかもしれません。
しかし、私は神を実体論として語ることはほとんどしていないつもりなのです。
創造主であるとか、宇宙、世界を見えないところで支配しているであろうような神についてはほとんど言及していないのです。
そういう神は、私には有るとも無いとも分からない...
このことも含めて、なるべく決めつけたようなこと、トラワレになるようなことは書かないように心がけているのです。
そして書いていることは、ほとんど私の個人的な備忘録のようなものです。
読者に何かの信仰を押し付けるつもりは毛頭ありません。
そういうことを含んでのことですが、人はそれぞれ何かに強く意識が向けられて生きているもので、その部分が強調されて表現されるものだと思うのです。
人は一人一人顔も違う、それがのっぺらぼうでない人間の個性として表されるのは、ごく自然なことでしょう。
しかし、それが勢いで決めつけたような言い回しになることもあるかもしれず...そうなったら悪しからずということで...以上のことお含み下さい...。(含みっていうことは、ある種の幅、自由さをもたらすようでとても大事なものだと思いますね)
それで多くここで表現されている神というものですが、これは以上の理由でホントは、"神的なもの"というべきものなのです。メンドクサいので神と言っているに過ぎないのです。
その実体が何かは分からない...しかし、感じることは出来る...それが深まれば深まるほど、思いが超えられた感じになる、自分が思われたものでない感じになる。
それは私の実体験では、この思われた私だけからはそうなってこないのです。そうさせるあるものがある...というかそれは実体を持った何かでなくハタラキ的なものです。
このような思いを超えた、超えさせる何かを総じて神的なものと呼んでいるのです。(そういう含みがあるってことです)
ちなみに仏陀は、自分と別在、超在するような神のことはほとんど語っていませんでしたが、"ダンマ(法)"というものは強調している...これが正にそういうものでしょう。
そう、正に正にそれは自己と切り離されたもののようには感じてこないのです。
矛盾した言い方ですが、それは自己と超越した(それが思いを超えているということ)もののように感じたりします。しかし、そのような他者的なものにあれば、あるほど自己は自己そのものになるような感じになってくるのです。
そういう感じをもたらすものとして、私は何かすべてを見透す光に照らされている(自分が"観察"することと区別して、"照明"と呼んでいます)、というようなことを言ったりします。
この自己に超越して観ているものは、真我(これも私はそういう実体あるものとしては認識出来ないものなのですが...)だとも言われているのですが、そうかもしれません。
いずれにしても、私が神と言っているものは、自己と切り離されたものではない(といって全く一つのものものとは言いきれないですが)という含みがあるのです。
そして宗教はともかく、最近のスピ界隈でも神とは言わずとも、こうした限界ある自己を超えたハタラキ的なものについて語れない向きもあることが、私にはいつも不思議でしょうがなく思っているのです。
それは思われた自己だけからは、しばしば思いの出口の無い、ガンジガラメ地獄にハマってしまい、絶望的状況の中でふと、密閉された部屋にあって、通気孔から涼風が吹き込むようにも、思いを超えたものが開かれたという実体験から来るものなのです。

神という言葉にアレルギーを感じている人が居るのも私なりに理解しているつもりです。
そして私は今、特定の宗教を信奉してませんが、善くも悪くも宗教的な道に関心が向き、関わりもあったのも確かなことです。
神という言葉をしばしば使うのもそういう私のサガの表れなのでしょう。
人間誰でも多かれ少なかれそういうサガを背負って生きているものです。
なるべくお互いそういう部分で障りにならないように心がけて生きたいものでずね。
まあ、あるがままにしか生きられないものだと思いますが...
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あるがまま

2021-02-21 09:49:48 | スピリチュアル
"あるがまま"とは、あるがままとしか言いようがありません。
それは、今、自分があるがままでないので、あるがままになろうとすることじゃありません。それじゃあるがままでなくなりますよi
同じようなことを昔言っていた人が居ました。「森田療法」を提唱した森田正馬先生です。
私は名前は知っていましたが、具体的にそれがどういうものなのか、どういう方だったのか、つい昨日まで知らなかったのです。
これは正直驚きました。又色々考えさせられました。このあるがままに在ることを基調にして、主として神経的病、その病質の治癒に功績があったのだとはi
まだ、詳しくは知らないのですが...これが治療と結び付くものなのか? 健全な心とはどういうものなのか? 現代社会で神経を患っていない人間は果たして何人居るのだろうか?...
しかし、その快癒した状態は、仏教的な悟りと同じだとか違うとか...これは実にメンドクサい話です。神経症になりそうではないかi
"何でもいいだろう、どうでもいいだろう、あるがままなんだから..."
ことに宗教、スピ、すべての精神的道にハマっている人にこそこの門は開かれているとは言えまいか? 皮肉でなしに...
森田先生を例に挙げましたが、パクりと言おうが何だろうが、私が言っていることにオリジナリティなど求める方が間違っているのですi
それは、古来から言われ続けて来たことです。"アーメン"、"無為自然"、"南無阿弥陀仏"、"かむながらたまちはへませ"...あるがままでないものなんかありません。
あるがままとは、現実を受け入れることではありますが、現実を直視するということじゃありませんよ。あるがままの自分を見つめるということとも違います。
いや、定義にこだわっている訳でなく、何でもいいのでしょうけど、"こうしなければならない"、"自分をどうこうしよう"、という在り方はここで言っていることからはズレてしまう、ということなのです。
そこから強迫的、神経症的な、あるがままの状態からの分裂ということが始まってくるのではないですか?
難しいこと言うようですが、この思われた自分だけからは、あるがままにはけっしてなれないでしょう。
あるがままになろうとするからです。何かに取りすがろうとする...捉えようとする...神経症的トラワレの始まりです。
"あるがままに在る"ということは、そう在らしめるものと共に在ることに他ならないのです。
それは日の光を受けるように、照らされるまま、吹きさらしのままになっているということです。
すべては見透かされていて、どこにも隠れることが出来ない、取り繕うことが出来ない...これは神経症的罪意識には裁きのように映るのかもしれません。だが、これは裏を返せば、無限の許し、癒し、救いであるということが知られるでしょう。
つまり、あるがままに在ることで、自分は自分だけで生きていないということに目覚めるのです。そう、それは正しく目覚めに違いないi
あるがままでいい...自分が如何にダメだろうが、悪かろうが、デキソコナイだろうが...何かになる必要も、何かに到達する必要も無い...前言の裏返しですが、これが難しいということは、全くどうかしてるではありませんか? 重度の神経症じゃないだろうか?

私がこういう風にエラそうなモノ言いが出来るのも、私自身がずっと(医者にはかからなかっただけで)神経を病んできたからに他なりません。森田先生もそうだったように...
あるがままに在ること(なることじゃない)は、医療分野を超えて、あらゆる人たちに根本的に関わることではないでしょうか?
ことに今のこの時節は、いやが上にもそのことに意識が向かわずにおれないのを身に覚えます。
コメント (3)
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