人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

セミとアブラムシ

2022-07-31 09:32:23 | 詩的文章
この夏はセミの声があまり聞こえないらしい...
多くのセミは地中に埋もれたままなんだろうか?
こないだ、羽化する途中で息絶えてしまったセミの画像を見た
可哀想!
やっと日の当たる世界に出られるところだったのに...
あと半分だったのに...
その奇しき調べを奏でることなく
自由に宙を飛び回ること無く
天命を果たせないまま...昇天...
亡骸を残して...
半分抜け殻が亡骸なのか、半分成虫態なのがそうなのか?
セミの天命?、昇天?
土に帰るだけではないのか?
ただの虫ではないのか?
でもあの姿はやっぱり...
すべての被造物の悲哀が映し出されているみたいだった...

夜、いつもの衝動に駆られる!
おのれ、生かしておくものか!
“シュ、シューッ!”、毒霧攻撃!
えーい、まだくたばらんのか!
わっ!、飛びやがったぞ!
アブラゼミみたいな色しやがって
そう、お前はアブラムシ!
古い?、ゴキ...ああ、名前呼ぶのもイヤだ!
もはや禁句の四文字!
にっくき、ゴキ...
何で生まれてきやがったんだ!
お前も、ガサゴソしないで、柱で”ジイジイ“鳴いてたらよかったんだ!
羽化の助けもしてあげられたのに...
全く...悲しくなってしまうよ!
愛深そうなのか、残忍なのか分からないこの性格が...
でもしょうがないよ!
生まれてきてしまったんだからな!...

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人生の教師と見えざる導師⑨

2022-07-30 10:17:34 | 人生の教師
出口王仁三郎聖師と言えば、その著書の大多数も復刻されて、今や一教団の教祖という枠を超え、又宗教思想をも超えた霊性の巨人として広く親しまれるようになりました。
私が初めて聖師に触れた昭和53年頃のことを思えば、隔世の感がしてきます。
その主著の「霊界物語」などは、長らく”秘教秘典”、という扱いだったものですが、今じゃ文庫本も出回るようになり、大衆小説のように読まれるようになったのです。
これ、王仁師自ら願っていたことに他ならず、さぞ天界にて本望と感じていることでありましょう。
同じく霊性の大衆化を図っていた、五井先生はというと...私が目に付くものといったら、陰謀論などのオカルト説に囚われた、カルト思考に堕したような例ばかりでして、五井先生の信奉者というのは、こんな人間ばかりなのかと思うと、もうやり切れない思いにさせられていたのです。
しかし、最近ネットを観ていて、私と同じように霊性の道において、五井先生を知ったことが、その大きな糧となっている例も案外多いことに気がつきました。
私自身は、そんなに熱心に惹かれている訳ではありませんが、「奇跡のコース」という、スピの教えがあり、その関係者に結構五井先生に縁のある方が多いようなのです。
先生の教えがその理解の下地になっているという例もあれば、逆に後から先生に触れて、難解な”コース”の教えが分かるようになったという例もあります。
この他、私も一度面識のある、”シャンタ○“、という謎のおっちゃんも、王仁師、”OSHO”などと並んで、自らの霊性の道の重要な導師として、五井先生を揚げていることが分かりました。
彼らが語る五井先生の存在は、一様に一教団の教祖という枠を超えているのです。
ということは、“五井先生以外に正しい教えは無い!”、とする、あの歪んだ宗我意識、カルト思考から自由だ、ということです。
五井先生の道は、普遍性に開かれている!...彼らは異口同音にこのことを証しているのです。
私は正直、うれしくなりました!...それでこそ先生も報われるだろう!...
先生に限らず、すべての霊性を明らかにした者たちは、相対次元を超えた、普遍調和の世界を志向し、その音信を伝えることを本願にしていたのではないでしょうか?
それを生かすも殺すも、後進の者たちの意識の有り様次第でしょう。意識は、どこに向けられているのか?
教団の関係者に言われた通りのことを、ただずっと何十年も繰り返し続けているだけだったら、あまりにもノウが無さ過ぎます!...そこに、愛、平安が感じれるだろうか?
その創始者たる先生に、否その指し示しているものに何故、直接聞かないのか?!
もし、それにブチ当たって、心が揺すぶられ、意識が向けられたなら、おのずと思いを超えた、見えざる導きに与ることになるだろう...それが取りも直さず愛、平安に導かれるということなのです!
見える導師は、見えざる導師と一体になる...そして、この私も...
これが神、導師、私につらなる自然な霊性の歩みではないでしょうか?
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現臨と動くもの

2022-07-28 10:12:02 | 現臨、ハタラキ
「如来とは、ダンマに目覚めて如来となったものである。如来は法身であり、ダンマをみずからの体となしているものであり、従ってダンマも如来も同じ意味である。しかし如来となると、我々にはダンマよりもいっそう親しみを覚える。というのは、如来とは”真如より来れるもの”という意味で、如来そのものが”ダンマが我々に顕わになる”、ということを表しているからである」(玉城康四郎「仏教を貫くもの」/大蔵出版刊)

言葉の響きというのは、とても大事なものです。
僅か一文字だけでも、そこに内包されているものが伝わって来ることがあります。
玉城先生が述べられている“如来”という言葉などは正にそうです。阿弥陀如来、薬師如来...それは仏様の名前でありながら、そこに既にその顕現して来る様が言い表されているのです。
そうなると、単なる”称名”に留まるものではなくなってしまうようです。
この意味では、熊野、蔵王などの”権現“という名前もそうした響きを伝えるものと言えるでしょう。
私が現臨と呼んでいるものも、それは元より一般に認知されてはいない言葉ですが、ただの名詞として使っているのではありません。
それは神的なものが、現実に臨んでくる様を言い表しているに他なりません!
“ああっ!、ほら、そう書いているだけで、ジンジンしてきたーっ!”
これは私的には、どの宗派にも限定されない超宗派的なマントラと言ってもいいものなのです。
といって、そういう称名などしてないですが...要するに、パッと意識が向けられ、そのものに包まれてしまう、言葉であって、そうでないものをそう言っているのです。
言葉に、それを超えた動くもの、生きてハタラくものが媒体されているのです。
何だか念仏の奥義みたいなことを言っているようですが...
各人にもそのように、強く即応して来るようなマントラというものがあるでしょう。
名前であって動くもの...それはどこまでも自己自身に直に関わるものであるのは言うまでもありません。
現臨...”これは、なんか響きがあっていいな!”、なんてテキトーに使っていたのですが、いつの間にか私の方が使われるようになったようです。
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神と一つ

2022-07-26 05:20:12 | 独語
神と一つになるんだとか...
私が?...なれるの?、どうやって?
随分ご大層なこった!
私が...俺が...我、ガ、が...
重いな!...暑いし...
神と一つになれるのかどうかは分からないが...
神を想うと軽くなってくる...らくうになってくる...
”私が“、が薄くなってくるよう...
私をどうこうしようと思わなくなってくる...
私が何だか分からなくなってくる...
私、他者、あなた...あなたは誰?、私は誰?
私とあなたは一つ?
呼吸をしている...いや私は何もしていない!
それは、ただ起きているのだ!
息を吐くたびに何かが離れてゆき、吸うたびに何かが入ってくる...
呼吸は一つ...
耳鳴りがしている...私は何もしていない!
耳から聞こえるのだろうか?
耳の外?、耳の中?、それとも耳の奥のどっか?、頭の中?
どっちにしろ...耳鳴りは一つ!
遠くの方で雷が鳴っている...
神鳴り?
ゴロゴロゴロ...ピカッ!
遠いな...
うわっ!...バリバリバリ、ドッカーン!
稲妻と雷鳴が一つになった!
キターっ!!
神がなった!
神を想い、神がなることは...
一つになることなんだ!...


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神の手は一つ

2022-07-24 10:29:09 | 宗教
前回も触れたように、私は幾つかの宗教的グループと関わり、各々が伝えている”秘儀伝授“?!を受けて来たのです。
心残りに思っていることは、玉城康四郎先生に就いて参禅する機会を持てなかったことです。
それは謂わゆる禅宗の禅とどう違うのか、何よりも“ダンマが顕わになる”ことを体感してみたかったですし、その他直接先生の口からお聞きしたかったことも多々ありました。
もう少し、早く先生のことを知っていたなら、その法縁に接し得たのは間違いありません。
そしてもっと早く、精神的覚醒というものについて、理解を深めることも出来たであろうと感じています。
ところで、もしその種々の秘儀のいずれかを通じて、確信、覚醒体験に与っていたとしたら...それは私にとり、他の諸々のものの中の一つのようには捉えられず、そのグループ共々特別な意味を持つようになるだろう、と想像されます。
そうなるのは、ごく自然な流れだと思います。だからといって、“これだけが唯一の道だ!”などと狂信に走ったりすることは別のことですが...それは多分、いや絶対無い!
私が初めてそれに与ったのは、いずれの集会、秘儀を通じてでもなく、全く単独の、それも俗事に従事している最中だったのです!
言うなれば、私の神、見えざる導師から直接秘儀伝授を受けたのです!...これはもう決定的な意味がある!...他の道なんかと比べられるもんですか!...って、そんなこたない!、多分?...他の道でそうなったことが無いので分かりません。
しかしながら、その後小池先生なき後のキリスト集会、キリスト友会(クエーカー)で、最初の爆発的規模でないですが、“神の手に捉えられて”、ある種の法悦状態に与ったことがありました。
集まっている人たちの目にはおそらく、”ああ、このヒト、我々の集会でキリストに捉えられたのだ!“、と映ったことでしょう。
そうかもしれません、が...私自身に自覚されていたものは、聖書に伝えられているキリストに直結するものではありませんでした。
クエーカー的に、“内なる光、キリスト”と言われれば、そうなのかもしれませんが、キョーレツに呼び覚まされるものといったら、あの原体験に臨んだもの...名付けられない、神的な現臨だったのです!
同じことは、キリスト教的でない、別の集会でも起こり得たはずです。
集会ごとに各々違う聖なるものが臨在するなんてことはあり得ません!
要するに、同じ神の手に捉えられるはずなのです。当たり前でしょ?
私の実存は一つしか無いのだから...
逆に言えば、キリスト様でもミロク様でも阿弥陀様でもスサノオ様でも、あるイメージを借(仮)りて表れるものは、あまりそれに囚われなければ、何でもいいのでしょう。
各々の神縁、仏縁に応じたものに合わされる、というのも自然な流れだと思います。
人によっては、そういうイメージを借りないと、祈りでも瞑想でも深く入って行かない場合もあるかもしれません。
でも、どこかでそれらも突き抜けて、相対次元を超えさせられる契機もあるでしょう。
私の場合は、様々な秘儀に接して来たが、そのいずれも定着することは無かったということです。
これは、おそらく学生時代、ある宗教に入っていて、そこから離れる際に、特定の宗教への信仰ごとというものが壊れてしまったことと、関係があるのでしょう。
どっちみち、自分の縁に従わされることが、ベストで自然な道なのでしょう。
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