人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

方便でない祈り

2022-05-31 10:00:06 | 祈りと瞑想
祈りというと、どうしても一般の理解では、神仏を対象に置いて、こちらに祈る自分が居て、という風に、二元的な在り方として捉えられているようです。
そして、祈ろうとする...そういう意念的、思念的なことが超えられないものなのだ、と。
いや、祈りは、それを超えるためにあるとも言えるのですが...要するにそれは、そうなるための方便として捉えられているのです。
ある人は、祈るだけでは物足りないので瞑想をする必要がある、などと言っておりますが、私などは、それをやろうとする自分が居て、その二元性を超えようとすることで、そこに何の違いも感じられないのです。
そうかというと、“自分は元々神と一つなので、祈るも祈らないもない!”などと、ただそう観念的に思っているだけ、そう信じたいだけのものも居るのです。その御仁、つい最近まで“祈りあるのみです!”などと言い切っていたのですが...
当たり前の話、すべて思っている自分がしていることなのです。一つ言えることは、ただ観念で分かったつもりでいるだけなら、祈りでも瞑想でも打ち込んでいる方がずっと意義があるということです。
すべて思いだけで終わるのなら、すべての生もそれで終わりでしょう!...頭だけのすべての生が一体何になるか!
方便というのなら、祈りでも瞑想でも形あるものはすべてそういうものでしょう。
一定のやり方、祈りの言葉...人によってやり方が違うということは、取り替えも可能なのです。それは任意、人為的なものと関わっているのです。
しかし、実際に祈ろうとか、こう思うでしょ!、今...あのね、思っている私がしているのですよ!...私は、手放しで無為の境地に居るなんてこた、言ってやしません!
ただ...そうすると、あの思いを超えたものが臨んでしまうのです!...そして、それにあって諸々の思いから離れられてしまう!
これにやり方も何もありません。やろうとする前にそうなってしまう!
この私だけからは絶対にそんなことにはなりません!
こいうことから私には、それは祈りという認識があるのです。先とは違う意味で瞑想と同じ感じなんですけれども...
勿論、最初は”フツー“の祈りからいつの間にか、そういう風になったとは言えるでしょう。
自分の努力でそうなったという自覚が無いからいつの間にか、なのです。
祈ろうとすることで即そういうことになってしまうのだから、祈りはそうなるための方便だなんて言ってられないですよ!
形の無いこの祈りは、他のやり方とか取り替えが効きません!
この祈りは、私の内奥の根本的在り方、意識の在り方と切り離されることが無いのです。
ここに二元だとか一元だとかの区別はありません。
インドの神秘家サンダー.シングも言っているように、「祈りは呼吸と同じ」なのです。
祈りの方便的理解だけで留まってなど居られません!



 

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名付けられないもの

2022-05-29 09:28:04 | 現臨、ハタラキ
現臨とは、本来名付けられないものです。
だから、現臨とは何ぞや?、と字句の解釈とか知的概念に囚われたりしたら、それは死んでしまいます。
もっとも、その言葉の響きから生きたものが伝わる場合もあるのでしょうけど...
それは、読んで字の如く現実に臨むものなのです。
私的には、そうならないものをそのようには言わないのです!
もう、それを言い表す度にそうならざるを得ません!...だから書いちゃうんです!
それを書くことが幸せだからに他なりません!
意識をそれに向けるとか向いてしまうというのは、現実に生きたものだからですよ!
生きたものというのは、具体的に感じられるものなのです。ほ~ら、感じられるでしょう?
感じられない?...こんなにも真近いものなのに~...分っからないかなあ?...
これはね、私だけ知っていたら、感じていたらいいんです。私だけの秘密なんです。...って、だったらこうして書いちゃいないですよ!
私が関わっていた、小池先生のキリスト召団の集会では、しばしば、”ああ...私はイエス.キリストに捉えられました!、イエスは今も生きていたもう!”、というような証言が聞かれました。
確かに、そこから生きた現臨の消息は伝わってきました。
しかし、私自身の経験によれば、それがその新約聖書に見える、キリスト.イエスに直結するということは無いのです。その姿も見えず、言葉も聞いたことがありません。
そのキリストというものが、もっと普遍的な意味合い(小池先生の説かれるキリストにはこういう角度のものも感じられました)のものなら話は別なのですが...
キリスト教では、”イエスの御名にあって”、ということをウルサく言うのですが、肝心なことは、それが現実に、私に直に生きてハタラくものなのか、どうかということでしょう。
もし、それを欠いたらイエス.キリストだろうが、阿弥陀如来だろうが、名前負けしてしまうことになるだけでしょう。
いや、そうした”称名”というものは、漠然とした、抽象的なものでなく、具体的な人格的関係を持たせるためにある、ということも私なりに理解しているつもりです。
でも、それはどこまでも、生ける現臨あってのものであるはずです。
もっと一般の人にイメージし易い名前を考えた方がいい、と思わないでもないのですが...
そういうことは、各宗教宗派の人始め、他の多くの人がしているからいいのです。
名前を称えたり、念じたりしなくたって、それは臨むのですから...
いや、もう来ている、ここに生きているのです!
「私の祈りは、”主様!“、これだけです!」(小池先生)
先生のこの言葉にハッキリそうした消息が伝わってきます。
本来、名付けられないものは、名によって分けられるものを超える!
現臨、主様...それでも強いて名付けられるものから、その消息を感じ取ってもらえたら、と思っているのです。
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生きていられさえすれば...

2022-05-27 10:13:05 | 雑感
「生きて、生きて、ただ生きていられさえすれば!
たとえどんな生き方でもー
ただ生きていられさえすればいい!...
何という真実だ!、ああ、まったく何という真実だろう!...」
(ドストエフスキー「罪と罰」.ラスコーリニコフの言葉)

「君はヒマそうでいいなあ...そんなにヒマだと、時間を持て余してばっかりだろう?」
”へっ!、バ、バカな!”

私は、ここ何十年もの間、そりゃあヒマかもしれませんが、時間を持て余すなんてことはありません!
読書とか音楽、動画鑑賞とか、趣味の時間に充てるということはありますが、ネタが尽きたからといって、何をしていいか分からないということはありません!
だったら、何もしなければいいでしょう!...
起きてるか、寝てるかはしてるでしょう。
そんなんは退屈でしょうがない?、んなこたあない!
退屈ってことは多分、不幸なことに違いありません。何もしなくても幸福でいられる...それで退屈に感じる訳が無いのですから...
勿論、私にも何していいか分からず、ヒマを持て余すこともありましたよ。
そういう時というのは、大概、”あれをして何になる?“とか、“何の意味があるか、何の役にたつのか?”とか、しまいには“人生って一体何だ?”とか、色々考えてしまうものでしょう。
考えるだけで死にたくなりそう...
しかし、ヒマだ!...この時間一日48時間あったっていいですよ!
幸福の方が怒濤の如く押し寄せてくるように感じることもあります!
そのような思考に囚われて居なくて、不幸に感じるということはまずありません。
あなたの人生は、考えているあなただけの人生では無いのです!
何をしようが、しまいが今日も東に日は昇り、西に日は沈む...日中ずっと不幸な気分で居て、真紅の夕日を眺めているうちに幸福に包まれた、ということも私には何度もあります。
それとか風が吹くとか、風向きが変わるだけでそうなるとか...(ヒマだろーっ!?)
こういうことは、考えている私からはそうならないのは言うまでもありません!
“それじゃあ、日が暮れるのを待つとか、風向きが変わるのを待ちゃあいいのだな”、ってそうなるかどうかは分かりませんよ!
“考えなきゃあ、いいのだな”、って出来るのならやったんさい!
これはすべてあのもの、あの御方が臨み、それと共にあるということを言っているのです。
それは何も数十年前、そのことを自覚するようになってからのことばかりではありません。
物心付いてから、そうとは知らずにそういうことはあったのです。
そして、私が何故、このことをこうして書かされているのかと言えば、私が人一倍思考に囚われる人間だったからなのです。いや、今だってそうですよ!...ただそれだけで終わりにゃならないと言っている訳です。
私のすべての生というものは、絶対にそれで終わりでは無いのです!
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何かが降りてくるー現臨ー

2022-05-25 10:13:21 | 詩的文章
何かが降りてくる...
何かの約束のように...
それが何かは分からない!
いつの間にか私のすべてが覆われ、包まれる...
すべての思いのしばりが解かれてゆく...
こうなってしまうんだ!
思いの怪物に苦しめられていた、あの時...
僕は、どっかで感じていた...
全くその苦しみとアベコベのあるものを!...
あのどん底から願っていた、望んでいた!
そして、このものが臨んだ!
このものに支配されているのだろうか?
僕の自由は奪われている...
しかし...こんな自由は味わったことがない!
僕の自由は、そう思っていただけだったのだ!
幸福は、求めては得られない...
こうなってしまうことが幸福なんだ!
僕は、僕でなくなってゆく...
僕は、思っていた僕ではないのだ!
これは僕だけのこと?
誰にも分からないこと?
こんなにも、すべてのことなのに...
神、キリスト、聖霊、梵、如来、タオ...
愛、平安が伝わる多くの異なる呼び名...
共鳴し合うものを感じずにおれない!
しかし、それは本来名付けることは出来ないもの...
言葉に言い表すことの出来ないもの...
それでも、敢えてこう呼ぼう...
現臨!
それは、イメージ、思い描いたものじゃない!
現実に臨んでくるもの...
たとえ、どんな苦境の中にあっても...
僅かな隙間から涼風のように吹き込んで来る...
その隙間は、けっして閉じられることはない!
僕は今、人生の晩期に差し掛かっているけど...
この先、どうなってしまうのだろう?
僕は望んでいる...いや、望まされている!

ああ...主よ、望みのままに...





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何かが降りてくるー思いの怪物ー

2022-05-24 12:00:18 | 詩的文章
何かが降りてくる...
一体、こいつは何だ!
人は何かに名をつけて、実体あるかのようにイメージしようとする
されど、イメージはイメージ...
こいつは、すべての理解を超えているんだ!
誰が理解出来よう?
この僕にも!...
だが、あの言い知れぬ恐怖だけは理解出来る...
僕だけだろうか?
あいつが降りてくる...
いつの間にか、あいつに僕のすべてが覆われる...
すべての思いが、あいつに支配される...
ああ...思いががんじがらめにされる!
何に?
それは何に対しての苦悩なのかって?
家庭の?、学校の?、友人関係の?、人生の漠然とした悩み?...
だから...そいつが何だか分からないんだ!
ただ、得たいの知れないものが降りてくる...
そして、段々僕は僕で無くなってゆく...
何を言っているのか分からないだと? 
やっぱりな!、じゃあ聞くなよ!
言っておくが、こいつは、漠然としたものなんかじゃない!
現に、僕はある思いに囚われ続けていて、逃れられないんだ!
何で、そうなるんだ?
ご要望とあらば、敢えて何か名付けてみよう!
そうだな...こいつは、”思いの怪物”だ!
ほんの思いのしこりみたいなものが、いつの間にか制御不能の怪物になっちまった!
小さな侵入口だったのに、もうけっして塞ぐことが出来なくなっちまった!
どんな名だろうと、君にはこの恐ろしさは理解出来ないだろうが...
中学生の僕だけど、将来どうなってしまうのだろう?
あの怪物に完全に支配されちまうんだろうか?
何だか分からない、未知なる恐怖...

ああ...何でもいい、未知なるものよ!、この恐怖から助けて下さい!...

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