人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

幻想の彼方に

2015-01-30 15:49:38 | 雑感
「ムー」と言う雑誌が有るのを御存知ですよね。
UFO,異次元、超能力、終末予言、超古代ミステリーetc…ありとあらゆる空想を掻き立てる情報の百貨店ですね…
こういう世界と私が言う「人生の裏側」とは直接関係が無く、その扉をノックするにあたっては、空想事は脇へ置いておく必要がある、とは度々述べていることです。
ただ、そうでない時、何か面白いネタはないかなあ、なんて思っている時…これがまた…
実に面白い!…
超能力に関しては、ネコと話が出来る事以外、元々興味無かったですが、昔からこういうの好きですよ!照れくさいですけど…
特に日本の超古代文献とか日本=ユダヤ同祖論なんかは結構資料を漁ったりしましたね。

「日本は太古の昔から世界の中心で、モーセ、キリスト、釈迦も日本に来て根本神が伝える真理を習得した。…」
私が学生時代入信していたM教団に居た頃、こういった言説はその教団の教祖が真の神から伝えられた真理である、と信じて疑いませんでした。
その出どころが何であるかなど、詮索する必要も感じていませんでした。
教団の言説こそ絶対権威だったからです。
やがて、そこを離れて白光会に関わるようになって、ある人の紹介で自称宇宙考古学者K氏を知るようになりました。
この方の話から、M教団の金科玉条的?超古代観の出自が判明しました。
K氏が人生を捧げたと言ってもいい、「竹ノ内古文献」です。
より正確に言うなら、この文献と大本神話をミックスさせた「神霊正典」なる文書がM教団の教義の中核的部分に大きく影響を与えたのです。(ハッキリ言ってパクリです)
実は私には超古代の事より、K氏を通じて神の経綸による世界の変容を伝える、大本などの情報を詳しく聞けた事の方が意義深いものが有りました。
つまり以前より大分理性的かつ自由なスタンスで、太古の神の因縁や根本神の仕組みなどを、よりオリジナルなテキストで学び直すようになったのです。
それと共に私に巣食っていた閉鎖的、短絡的観方も開かれたものに成っていったようです。
こういう神の世界のお話というのは、当然のことながら客観的実証、論証のなされようが無く、又主観的に短絡的に信じ込むことは、私にとって飽きもせず愚かな堂々巡りになるだけです。
この点、この神ながら的学びを通じて、いつの間にか私にファジー(死語?)な理解、「そういう事にしておこう」精神が養われたように思います。
酒井勝軍、小谷部全一郎などはいずれも出口王仁三郎師と同時代人で、日本=ユダヤ同祖論者でしたが、とにかく考証、論証を重ねて客観的に自説の正しさを主張することに明け暮れていました。
私はトンデモ学会のように彼らを揶揄するつもりなど毛頭ありませんが、どうも彼らが実証しようとすればするほど、その説が荒唐無稽に思えてきてなりません。
一体何を躍起になっているんだろう?と…
実は出口聖師にも日本=ユダヤの太古の因縁、神の経綸に関する言説が見られます。
でもそれは単純な日本=ユダヤの関係に限った事ではありません。
厳と瑞、富士と鳴門の関係など~いや男と女の関係かも知れない~が複合的に絡んでいます。
全く訳が分かりませんで、済みません。
ただ、心象にそのような関係的なものが映ってくるか、どうか…
元々一つだったものが、愛別れて又結ばれて…という…え、益々訳分からない?
要するに心象に映ってくるか、どうかが重要なのです。
思うに日ユ同祖論者を突き動かしていたものも、このような心象に映った何かだったのではないでしょうか?
私はこの幻想とも現実ともつかない、心的領域に真偽の判断を下そうとは思いません。
神のみぞ知るとしか言いようがないですね。
ただ盲信から解放される契機となったのは間違いありません。
心象にあるものは何一つ固定した、限定されたものは無いのです。
有るとしたら、それこそ幻想というべきものです。
証明されなければならない、信じなければならない…そんな幻想を超えて、神遊びに任せるのみです。
物事を決めつけないで、オープンな気持ちで…。
やがてそこから本当に幻想を超えた疑いの無い世界も開かれてくるかも知れません。






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真の幸福

2015-01-29 20:32:44 | スピリチュアル
私は最近つくづく「人間は普通に生きていて、幸福に生きられない訳がない!」と感じています。
何故ならば、生かされているという事は幸福な事でしょ?
何かをやらないと幸福になれない、何かを得ないと幸福になれない…。
こういったことが叶わなかったら、それでは不幸なんでしょうか?
いいや、むしろ何かをやろうとして、挫折したり、なかなか何かを得られなかったりすると不十全感に苛まれて、幸せになれません。
はたまた折角求めていたものを得たとして、それを失う事になった途端、幸福から急転直下…不幸を背負いこんでしまいます。
幸福になる筈だったものが不幸の種になってしまうとは¡…

もう一つ…当たり前のようなことですが、幸福とは他の誰でも無い自分自身が幸福と感じなければ、幸福でも何でもないですね。
世間で言われている幸福、他人が「これが幸福なんだ」と言ってる幸福…それが一体何だというのでしょう!
自分の幸福は結局自分にしか分からないものでしょう?
だから他人の幸福を羨んでもしょうがないのです。
世の人が勝手に決めている幸福の尺度など、何もあてになりません。
幸福とは畢竟自分自身の幸福感のことではないでしょうか?
つまり幸福な意識の状態と言うべきか…
このような時というのは、何をやっていても…突っ立ってるだけでも楽しいし、幸せなものです。
逆の場合を考えれば、より分かりやすいかも分かりません。
何をやっても面白くない時…分かりますよね?

「幸福は失われたり、減るんじゃなないだろうかと考えるとコワイ…」と言っていた方も居りますが、絶対に無くなりも、減りもしません!
それは無尽蔵の幸福の源泉から来るものだからです。
その恩恵は自分自身にそれに預かれる特権が与えられています。
でも、それは他の人を差し置いて、自分だけの独占、独善と言う意味とは全く違います。
人それぞれに与えられた特権なのです。
それは一人一人性質が違うものです。
だから他から奪ったり、よそから獲得したりする必要も無く、自分だけ享受する事で後ろめたく思う必要も有りません。
それは元々与えられているのです。
そして自分がその与えられた幸福を享受することで、全体の幸福、調和にも響きわたる…
個的なものと全的なものはつながっているからです。

故あって、今不幸な境遇に置かれている方も多いだろうと思います。
私にも勿論辛い時もあります。
そんな時は表面的な気分や状況と関係無く、地下水脈のように心の底で生き続けている幸福感そのもの~サムシングと共にある感覚~にアクセスするようにしてます。
それは、この世の諸々の重圧に有っては、淡いものかも知れない…でも私は知っています。
それは、時に大噴泉のようにほとばしり出る事が有るのを…
それは、彼の世界とこの世を結ぶパイプなのです…。

















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貴方はどっちだ!

2015-01-24 20:31:27 | スピリチュアル
今回はいつも言ってることと、視点の一寸違うことを書いてみたいと思います。
前にも触れたように、相対世界に生きている我々は、自由か平等か、右か左か、あれかこれか…と、(どちらか/もしくは)一方に偏した見解に捉われて、あるがままの世界を受け入れられず、生きにくくしています。
でも、勿論人生はどちらかを選択しなければならない事も多々あると言うのも事実…一面では選択肢の連続である、とも言えますね。
だから迷い、遠回りと思えるようなことも有る訳ですが…。
我々は歩こうとしたら、一歩踏み出そうとしたら、右足か左足かどちらかから踏み出さねばなりません。
又道路の真ん中で歩いたり、止まったりして、迷ってたら大変な事になりますし、起きているのか、寝ているのかハッキリしないと夢遊病のようになってしまいます。
実は話を強引に誘導するようですが、我々のほとんどは夢遊病、白昼夢の世界で生きているようなものです…。
この事は突然意識が目覚めてしまったらハッキリ分かることです。
目覚めた瞬間「ああ、今まで私は寝ていたんだ!」と実感されます。
つまり目覚めているか、眠りこけているか(白昼夢状態)どっちかなのです!
所謂悟りというものに至るプロセスには何段階も有るという教説が有ります。
曰く、アストラル次元、エーテル次元、幽界あるいは霊界の階層云々…
そのような段階、レベルといったものが有るのかどうか…
ある意味この世以上に上下の階層というものを浮き彫りにしているようで、この観方自体、極めて相対的なものに映りますが…
どっからどこまでが六道輪廻の世界で、相対次元は超えられるのか、あるいは留まり続けるのか…
私にはサッパリ分かりません。
実は悟りなんていう世界も有るのかどうかも…
眠りから覚めたか、覚めないのか…それっきゃ分かりません!どっちかしか無い!のです。
段階、レベルなんぞが有ったとして、目覚めた世界ではより上の段階を目差そうにも、意志的な力は全く働かないので、アキラメるしかありません。
ただ自己を超えた導きに委ねれば、委ねるほど自然(じねん)に意識が深まり、広がっていくというところはあります。
この寝起きの違い、境い目は思考の次元を超えたかどうかと言う観方も出来ます。
ですから、「ハハーン!みんな最初から悟っているんだ!」「運命は決められているんだ!」と、ああだこうだと考えて、分かったつもりになっててもしょうがないのです。
普通に考えてみても、そう言う類の話は、実際目覚めに預かった人が言ってこそ意味が有る訳で、観念の世界で宙ぶらりんになってしまって、白昼夢の中で覚醒する?ということにもなりかねません。
だから「体験すりゃいいってもんじゃない」のです。
本当に「わお!」にコミットできるか…そこに人生の決定的な選択肢があります。
「わお!」をもたらす当体への意思表示、一歩踏み出すという事です。
それは祈りや瞑想を通じてなされるかも知れません。
自分がホントにそれを望み、歩み出すか、どうかそれだけです。
お義理や付き合い…そんなもの見気分じゃどうともなりません!
外野でヤジ飛ばしてないで、プレーヤーにならねば…
もし、そして見えざる神の導き、神の手が触れたら、もう選択の余地は無い!
全託です。全部は危険なので半分だけ…
それが一番危険だというのに…
オール・オア・ナッシング、全部か無かどっちかです。
行き着く先は…全無
どっちも本当だった…。









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「神秘体験」のススメ

2015-01-22 12:46:03 | 人生の裏側の図書室
神秘体験。それが何を表しているかにもよりますが、ただ何か見えないものが見えたとか、聞こえないものが聞こえたということでしたら、どっちでもいいです。
スピリチュアルな目覚め体験、生きることの神秘に触れ、意識の変容に伴い人生も劇的にかわる体験…それは勿論有ったに越したことはありません。
私はここでその事をおススメしたい…
という訳ではなく、「神秘体験」(ティモシー・フリーク著、ナチュラルスピリット刊)という本の一読をおススメしたいのです!
この本は、1年半程前に出されたのですが、あまりにもタイトルがシンプルかつストレート過ぎてうかつにもスルーしていました。
もっと早く読んでいたら、このブログを始めてなかったかも分かりません。
何故って…私がホントに書きたかったことが、すでに書かれているから!
「どっちも本当」「個我と真我」「2イン1」…自分の過去記事と照らして読んでると…まるでコピーを書いているようで、かなりヤバイ!です。
でもティムはティムだし、私は私ということは如何ともならないということで…

この本の中で私が最も関心を寄せたのは、架空のアドバイタ(非二元の道)のマスター、スワミ・ブランダナンダとの対話です。
みんな最初から悟っている
個我は幻想である
時間も空間も無い…
これら非二元的な理解が最近花盛りのようです。
私はこういう観方を否定しませんが、いつもそんな心境で居られる訳では勿論ありません。
本当にこういう気付きが腑に落ちて、生きていけるのなら何もいう事ありません。
ただ、ティムがスワミに語らせているように「二元性、分離意識があるうちは本当に目覚めたとは言えない」(私は実在の教師が実際にそう述べているのを読んだ事が有ります。)などと言われたらもう興ざめです。
これはもう相対的非二元論と言うべきで、相対的二元論と気が済むまで、この世の終わりまで論争に明け暮れていたらいいでしょう。
これに反して相対的でない?アドバイタ(と言われる)人たちの美徳は無駄な議論などしないところに有ると思います。
(彼らの出現の意義は、この相克に満ちた現状に風穴を開けたところにありましょう。)
さらに「完全に個我性が無くなるまで修練しなくてはならない」といった言葉に至るやもうゾッとします。
まるで究極の悟りというものの行き着く先は「植物人間」かと思えてきます…
輪廻転生というものが有るとして、人がどうしてこのロクでもないこの世に転生してくるのか分かる気もします。
当たり前すぎて見落としがちなことは、ラマナ・マハルシもニサルガナッダ・マハラジといったアドバイタのマスター(と言われる)たちは、いずれも彼らに訪れた体験を通じて前述の気づきを得たということです。
ティムも述べているように、覚醒にしろワンネス体験にしろ、体験そのものは自分と自分を超えたあるもの(表現は様々)との出会いが前提であり、それを認識している自分が無ければ…例えば大海の中に自分が溶け去ってしまったら、そのような認識自体生まれようはずも無いのです。
この出会いというものがあるからこそ、驚嘆すべき「わお!」の体験が生まれるのです。
そしてそれは、一元だとか二元だとかの思議にあらず、(どちらか/もしくは)の視点にあらず、(どちらも/そして)すなわち(どっちも本当)の
視点に導かれるのです。

以上の問題以外でも
スピリチュアリティと科学の接点(これはかなりスペースを割いています)
思考、自我との向き合い方
いわゆる信じやすい人たちの危うさ、自分で考えることの重要さ
など、啓発されるところ満載です。
これはそのタイトルが示すように、神秘体験の教科書みたいです。
これからお目覚めの方にも、目覚めちゃった方にも、お休みになる?方にも広くおススメします。

(某局の朝の情報番組の顔だった杉O美Oさんが結婚された! オジサンキラーがまた一人…)







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ペロちゃん

2015-01-19 14:15:22 | 
私はこれまで超能力が欲しいと望んだことはほとんど無いのですが、一度だけ「あったらいいなあ」と思った事が有ります。
それは動物、とりわけネコと話が出来たら…というものです。
四年前の春、近くの公園のベンチで本を読んでいたら、突然何か膝の上に生暖かく、プヨプヨしたものが乗っかって来たので魂消ました!
ネコです!何という人懐こさであろう…まるでそこが自分の格好の安息所であるのが当然のように、ノドをゴロゴロさせながらリラックスしてるではありませんか!
どうやら私がこちらへ来るずっと前から、この公園に居ついてるノラのようです。
見ると、いつも愛嬌よく舌を出してペロペロやってます。よってペロちゃんと名付けました。
以来、休みの日の朝は何時もこの公園に来るようになり、ペロちゃんとの触れあいが楽しみになりました。
私が先にベンチに座っている時など、どっからか目敏く私を見つけ、ネコまっしぐらにこちらに向かってきます。
そして私の足元まで来ると、何故か八の字に周りだし、それからチョコンと私の膝に乗ってくるのです。
あれは一体何の儀式なのだろうか?…
実はそうしていながらも、心のどこかにはこの子に情が移ってしまうとヤバイかな、という懸念も有ったのですが…二か月もしないうちに陥落です!
雨の日以外で中々姿を見せない時など、二時間ぐらいも心配になって待っていた事も有りました。
それから季節はノラネコたちには過酷な冬になり、予報で1,2日したらその冬一番の寒気がやってくるという三年前のある朝、ペロちゃんは何故かしきりに私の顔をやたらと見つめていました。
どこか寂しそうに…。
その時…「この子が何を望んでいるのか、辛くないのか…もしかして暖かい部屋に行きたがっているのか…」
などと考えさせられたのです。
そして、ちょっと無謀、無責任も省みず私はあることを決心して、その日の夕方再び公園を訪れました。
ペロちゃんを家に引き取ろう、と思ったのです。
しかし…ペロちゃんは居ませんでした。
すっかり日が落ちるまで待っていても…二度と姿を見せる事はありませんでした。
近所の人は、ペロちゃんはもうかなりの婆ちゃんネコなので、きっと死に場所を探して居なくなったんだろう、と言ってました。
私は今まで何匹ものネコと付き合いが有りましたが、ペロちゃんはとりわけ忘れがたいものが有ります。
ただのネコバカのたわごとかも知れませんが、あの私を見つけるや脇目も触れず向かってくる姿…何か無条件の愛というものを感じてしまいました。
それを見るともう、ジッとしてられなくなり、何かで答えようとする私…。
そして姿が見えなくなってからのペロちゃんの居ない公園のベンチ…
数週間続いた侘しさと愛おしさが込み上げてくる気持ち…
そこに理由とか打算などは無いのです。
大いなる命、見えざる導き…それに触れるや理由なしに喜びが立ち上り、ジッとしてられなくなる…私にこの感じを思い出させてくれました。

硬骨漢で知られる哲学者のベルジャーエフは、実は愛猫家でもありましたが、ムリーという死に間際の飼いネコが、彼の机の上に全身の力を振り絞って上がり、別れの挨拶をした時「ムリーに全被造物の悲哀を見る思いがした」と言っています。
さらに私は日ごろ死後の世界の事など考えたことも無いのですが、ベルジャ―エフのこの言葉にペロちゃんを重ねて言いたいです。
「ムリーの入ることを許されない天国など、到底受け入れることが出来ない!」
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