人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と虚無

2018-08-30 12:38:13 | 
所謂ノンデュアリティの道もかなり検証もなされ、その矛盾点も明らかにされてきました。
しかし、いまだに"自己というものがあるから、苦難、問題が起こるんです。自己なんて元々無いんですから、苦しみも無いんですよ~"と説き続ける教師も居て、それを真に受けて"そうなんですよね、自分なんて無かったんですよね~"と、しっかり自分の思いで何とかその教えに合わせようとする信者も結構見受けられます。
"自分という個人は無い"という教えの周辺には、かえって"自分、自我"にまつわる思いが蔓延してくるように感じます。
それは、自分という思いから離れ、解放されることは、自分自身ではどうにもならないことなので、そうさせるものも、とっかかりも無く、ただ思いだけが勝手に馳せ廻るばかりになってしまうからでしょう。
その思いから解放され、ラクになる、幸福になると感じるのは、一体誰なんでしょう?
"個は無い、全体しか無い"この紋切り型の分離志向は、段々二元性を強めて行く一方になるようです。
それとも...その行き着く先は、個も全体も無く、苦難も不幸も、平安も幸福もない、永遠の虚無のうちにすべてが消えて行く道しか無いのでしょうか?
私見では、これは神的なものと共ならざる道、自分のみの思い、力から推し進められた(これは所謂自力の道と結び付くものですが、その在り方は一様ではありません)道の行き着くところという気がします。
もっともその道のある契機に、何らかの自己を超えた力が介入するものと思われますが、私にはそれを神の恩寵と同じようには語れないのを感じています。
それはすべてを無に引き込む虚無的な力ともいうべきものでしょうか、それも神的現臨に導く無化のハタラキとは異なるもの、あるいは現臨に導かれない、それと共に無い、虚無に向かうばかりの力かと思われます。
そういう道に赴こうという人の気が全く知れません。悟りみたいなものを求めているのでしょうか? 
悟りというものは、その観方、感じ方はそれこそ人の数だけあるでしょうが、これまでそれは多く、平安、幸福、救済といったものと結びつけられて語られてきました。
私は否定しません。でなきゃ、一体誰が求めたりするでしょうか?
それとも、平安も幸福もない、それを感じる自分を無きものにしないと、本当の悟りに達することが出来ないのでしょうか?"バカを言えi"と言いたいi
愛、平安そのものである神的なもの、現臨に与るのは、自分の意志、力ではどうすることも出来ないのです。
現臨に与ろうとしない我意の心根に、あるいはブラックホールの如き、永遠の虚無のフタが開かれるのかも分かりません。
本当の悟りなんてのが、あるのかどうかなど分かりませんが、分かりきっているのは、私のような俗っ気たっぷりの人間は、それと程遠いということです。
悟って居る個人は無いとはいえ、見た目にそのように映る人といったら、例えばラマナ.マハルシのような人を思い浮かべられるでしょう。
彼は南インドのアルナーチャラの聖地に導かれて、死ぬまでそこからほとんど出たことがなかったそうです。
彼はおそらく普通人のように、市井の中で生活することは困難だったかもしれません。
ああいう人は自分も無く、いつも苦しみも無ければ幸福も無い境地だったのでしょうか? あの溢れんばかりの生気を物語るような目が...ですか?
ラマナの生涯とは、恩寵によって導かれ、真我に目覚め、常住それとともにあった、ということを伝えているのです。
それは、その実二元性を強めるばかりの今流ノンデュアリティとは違う、特定の教師、教義、修行を介さない直接的な、本来のノンデュアリティを伝えるものとも思われます。
すべてが虚無に帰す道を伝えていた訳ではありません。そうでなければ我々はその教え、伝来に接することなど出来ないはずです。
伝える誰が居て、それに接する誰が居るというのか?
悟りの道といい、救いの道といい、そこには確かに"自分という個人は無い、不幸と隣り合わせの幸福も無い"といったことにも触れてくるでしょう。
それはしかし、自分も幸福も、あらゆることは"思われたものでない"ということを伝え、我々の根底には相対に関わらない揺るがぬものが息づいていることを伝えているのでしょう。
でなければ、本当に何一つ、何も無いだけです。おそらく虚無的な思い以外は...。
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首が回る

2018-08-28 17:20:05 | 祈りと瞑想
夕べ寝違えたのか、朝起きたとき首が回らなくなってしまいました。
普段、意識することが無いけれど、首の状態というのは結構重要ですね。
心身ともに快調か不調か、ということもこの首の調子が握っていると言っても過言ではないでしょう。
心身ともにとは、首は正に頭と胴体をつないでいる部位だと言うことです。このことだけでも如何に重要かということが知れるでしょう。
それにしても...毎月月末になると首が回らなくなるのは何としたことでしょうか?...

我が国の上古代人の叡智を伝えるとされる「カタカムナ」に関する本「相似象」第9号(相似象学会発行。公刊はされてない)を読み返していたら、この首のことを"クヒ"と表されていて、それは根源的ハタラキ"ヒ"を、自由に保つ"ク"というひびきを伝えているという意味のことが書かれていました。
実に、首はその原初的エネルギーとの交換がなされる、管みたいな役割があるらしいのです。
となると...如何にしてそのハタラキを受けるか、という根本的な、切実な命題も起こってきそうですが...
体操にあるように、首を回すとか、ほぐすなどをすることで、特に身体面である程度その土壌は作れるかもしれませんし、"コる、カタマる"という不自由な状態の防止にもつながるでしょう。
しかし...相似象の解説者、宇野女史は「首を"クヒ"にするとは首の運動では無い」とキッパリ言っております。
大体、私はこのブログで"具体的な方法"などほとんど表したことがありません。それは如何なるものでも"トラワレ、カタマる"温床になりやすいからなんですが...
然るに同女史は「そうではなくて、逆に首の力を抜いて真に自由な状態に"マカス"ことである」と言っています。
私が普段している、正にそのマカスことを重点に置いている"瞑想モドキ"では、自分の意志とは別に、自然に首から鎖骨の辺りにかけて"カクッ"と瞬間に弛緩が生まれ、回ったり、上下運動のような動きが起こります。
同時に"ウッ"という横隔膜辺りからのやはり無為的な発声があります。(これは人前でやったりすると、見た目どこか痛みを感じているように見えるのか、"大丈夫ですか?医者呼びましょうか?"と余計なお世話を呼び込む原因になったりします)
私はこうしたことがエネルギー交換が始まったシルシのように感じているのですが、これはバシャールなどのチャネリングで、エンティティらしきものがチャネラーにかかってくる時の動きと似ていて、ある人からも「一体、何を取り次いでいるのか?」と訊かれたこともありました。別に見えざる導師のメッセージを伝えている訳ではありません(笑)
このエネルギー交換で直ちに意識の変容がもたらされる訳では無いですが、日常意識にある種の"ゆらぎ"が生じるのは確かなことです。
瞑想モドキの実習?は、別に時間は決まってないのですが、取りあえずはこれが始まるまで続けられるのです。(これは私の意志に基づいているのですが、大体数分もかかりません)
そのやり方というのは特にありません。首は回そうとしなくても自ずと回るし、呼吸もその時自ずと行われるのがナチュラルな呼吸でしょう。ただ、リラックスして自然(じねん)のハタラキに意識を向けるだけです。
それは瞑想の技法というよりも、私的にはやはり祈りというものと通うものがあります。
首が回り始めたら、大抵その後自然に祈りの動きが起こります。
これは祈り心から自ずと芽生えたものとも言えるのです。
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見えない実現

2018-08-26 12:27:08 | 哲学・思想
この世では、何かに与ろうとするならば、"それを獲得しなければならない"と思うのがフツーのことですね。
それを得るためには"何かを為さなければならない"とも...
そしてそれに与り、それを得た時、目指していたものに達成した、とかその何かが実現したとか思うようです。
それは幸福とか悟りなど目に見えないものにも向けられるようです。
だから一生懸命修行などに励むらしいです。
スピ界には、神の実現とか真我の実現といった言葉が散見されますが、これがどうも誤解を生むような気がします
一体何が実現されるのでしょう。実現されなければ確かな手応え、充足というものは味わえないでしょうか?
いや、それが実現されてこそ、望んだこと、為してきたことの証なのでしょうか?
これはこの見える現実世界においては、勿論そういうこと、そうでなければならないこともあります。
絵に描いたような家に住むことは出来ませんからね。
この現実世界では思い描いただけのものは、何も実現しません。
"思ったことは実現する"という教えもありますが、皆そう思っているだけだったら、この世はゾンビ帝国です。
だけど、神も真我も幸福も愛も目に見える、形あるモノじゃないのです。
異性や友人、家族、ペットなどには、しばしば幸福や愛が宿っているように写し出されます。
しかし、それらが感じられなくなったらどうなるのか?
現実に手に入った瞬間、どうもそれまで胸をときめかされたものと違って感じてしまったりするのは何故か?
目に見えるものは、常在するものではありません。だからと言って無価値、無意味なものとして捨て去っていいという訳でもありません。
この見える現実世界には、見えない現実世界が重合しているのですから...
見える現実では、実物があること、実証出来るものなど、ものの実体性が大きくものを言います。
この観方、感じ方のみからは、見えない現実は到底理解され得ません。
そこには何一つ実現されたものとて感じられません。何かを為して到達したというものがありません。
実体も無く、実証も為され得ない現実、それはこの世の如何なる現実に比ぶべくもなく、リアルなものなのです。
これは真に"実あるものが現わになる"という実現なのかもしれません。
見える現実しか分かろうとしない者には思い描いた世界と、内奧に開かれる世界の区別がつかないらしいです。
私は何回でも言います。そのもの自体が顕現するという他はありません。
そこに実体があると感じさせる、見える現実の有り様とは、その実体なきそのものが写し出されたものと言えます。
そのものに与るには、"得よう、捉えよう、為そう..."といったこの世の流儀からはアプローチが出来ません。
じゃ、棚からぼた餅のように何もしないでいたらいいって訳でもありません。
そこに、待ち望む心持ち、そのものに意識を向ける~祈りというものがあるのです。
これはその気のある人だったら、言われなくとも理解出来ることですし、もうしていることでしょう。つまり意識が向いちゃっていることでしょう。
神の恩寵を受けるとか、神の実現、真我の実現を願って...しかし、そうしていると何だか有り難い、平安な気持ちになったりしてくるものです。それを得ようと、何も実行してなくとも...得なければならないと、とらわれていたら気がつかないかもしれません。
願っていたものはとっくに実現していた...かもしれない...。








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進歩という幻想

2018-08-24 04:32:47 | 哲学・思想
"現代は過去よりも進歩している...過去から現代、又未来へと段々進歩して行くものである..."
多くの人は、現代という視点で、現代の水準(何をもってそう規定されるのかはともかく)から過去の事相を評価し、短絡的に時間の経過と共に進歩して行くものと捉え勝ちになるようです。
なるほど、技術の進歩などを見ても、昔とは比ぶべくもなく発達してきているのは、疑いようがありません。
この技術は、科学の進歩に負っている部分が大きく、多くの人には進歩と言えば"科学文明の進歩"と認識されているものと思われます。
何かが進歩すれば何かが向上するものらしい...然るに改めて述べるまでもなく、何故現代ではかくも人心の劣化、自然界の崩壊といったことが叫ばれなければならないのでしょうか?
何かが進歩すれば、何かが後退、失われてしまうことこそが認識されねばならないでしょう。
"文明、人間の叡智は常に上へ上へと成長し続ける...一体我々の何が進歩、向上して行くのか? かつてのスローガンに「人類の進歩と調和」というのがあったが、それは調和というものと伴っているのか? その目指すものは何なのか?"
いや、人類存亡の危機まで取り沙汰されているくらいで、もう進歩向上の行き先は究極の下落、その終焉しかないようではありませんか?
この進歩の楽観主義は、精神世界にも浸透しており、"現在、人類は飛躍的霊的進化の目前にあり、次元上昇に入らんとしている..."というご存じの言説も根強く信奉され、個々においても、たゆまぬ信仰、修行を続けていけば霊的進化の道をまっしぐらに進むものと捉えられているのです。
そこに揺るがぬ根拠、全身心を揺さぶるような確信がある訳ではないのに...ただ、何となくいつかは目指すべきところに到達出来ると信じられているだけのようです。
これはしかし、今に始まったものではありません。昔から宗教、スピ界隈にはこうした短絡的な信仰は付き物なのです。
人間精神の、科学文明の進歩というものもこの短絡的楽観信仰と同じ軸にあるのでしょう。
今日の抜き差しならない諸々の危機的状況は、この何処にも行き着きそうにない進歩信仰に胡座をかいていたからと言ってもいいでしょう。
それでも私は、今日多くのスピ関係者が述べているように、我々の精神のある面ではかつてなかったような、ある直接的なその変容の道が開かれているのを感じざるを得ません。
しかし、それは我々の飛躍的霊的進化によるものとは感じていません。
ある面何かは確かに進歩しているには違いない...しかし、別の面でそれは同時に行きどころのない末期症状を呈しているとも言えるのです。
人類はそれ自体が発達、進歩して行くものなのでしょうか?
楽観的進歩信仰が見落とし、蔑ろにしているものは、そのうわべの、上向きの進化に隠れた"深化"であり、平安、調和と相まって進行、浸透してゆくあるものでしょう。
後者と切り離された進歩というものは、元より進歩とは言えません。
そして、それは我々自らの力によって求められ、獲得出来るものと捉えられるのなら、短絡的進歩信仰と何ら変わらなくなってしまうでしょう。
我々のうわべの、上向きの思いに隠れた、見えざる思いもよらぬもの、そう在らしめるハタラキにこそ、進歩と調和の源泉を見出だすべきなのです。
人類は単純に過去から現代、未来へと進化して行くものでなく、調和と共にあるものであり、その裏には、そのものが我々を通して顕現しているということが隠されているのではないでしょうか?
今日の状況は人類の進化か、退化か、あるいは終焉が迫っているのかは観方、感じ方によるでしょうが、そのものの顕現が著しくなってきているように感じられます。








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なつかしの邦画あれこれ

2018-08-22 17:09:34 | 映画・音楽など
盆休みの機会もあって、このところ昔の邦画をyoutubeでよく観てます。
こんなに続けて観たのは、何十年ぶりだろうか...91年から96年ぐらいまではレンタルビデオでも、自主上映会でも昔の邦画ばかり観ていたものです。(それ以前の3年ぐらいは洋画が中心でした)
いずれも短い小品といった感じのものばかりですが、印象に残ったものを記してみます。

※「有りがたうさん」36年松竹/清水宏監督
イケメン俳優上原謙主演。共演は元祖モガ(モダンガール)桑野通子。
乗り合いバス道中のごくあり来たりの人間模様を描いたロードムービーです。
運転手さんは、行き交う人に「有がたうi」と声を掛けて、客でもないのに、用事を頼まれたら、引き受けてしまうというお人好し。如何にも都会的なモガ?との対比が面白い。台詞回しが何ともゆったりしてて、ホンワカにさせられるけど、東京に身売りに出されて行く"チョイと"可愛い娘との絡みから、不況に喘ぐ時代相もリアルに描かれています。それにしてもクラクションがまるで暴走族のようにケタタマしい...連中はここから借りたに違いない...

※「8時間の恐怖」57年日活/鈴木清順監督
前記と同じくバスの道中の話ですが、こちらはサスペンス仕込みです。
主演金子信雄(主演作はこれしか知らない)。冒頭にちょび髭を生やした初老の小太りのオヤジが出てきますが、私はてっきりこちらが金子親分かと思ってしまいました。私にはお馴染みの役どころだったからです。"チョイと"イケメンで、寡黙な護送中の殺人犯役です。
バスが遅れて到着して、イライラしてる乗客たちにも、不気味な乗客の存在でピリピリ感が漂いますが、ホントの恐怖はこれからだった...凶悪犯の二人組がバスに乗り込んできたi...
たまたま似た設定の作品を観ましたが、すぐ傍らは断崖絶壁という蛇行した山道といい、人のことを気遣うデリカシーのない会話が飛び交うことといい、勝ち気な女といい、「早う出さんかいi」と、せっかちな客にせっつかれて運ちゃんも楽じゃないことといい、微妙な人間関係の機微を作り出している車中で迷惑そうな喫煙、飲酒のシーンといい、前記の作品を下敷きにしているのかなあ、と勝手に想像してしまいました。

※「てんやわんや」50年松竹/渋谷実監督
上原謙と並ぶイケメン俳優佐野周二主演。淡島千景の銀幕初出演とのことですが、堂々たる演技、"チョイと"イカしたプロポーションi
何といっても脇役がいい、黒沢映画の顔志村喬、時代劇の老中役でお馴染みの薄田研二、酔っぱらい役では、多々良純と双璧?三井弘次、笠智衆と並ぶフケ役藤原鎌足...そして私が好きな俳優の一人三島雅夫。この人は悪役でも例えば通俗時代劇の定番、豪胆な"ウワッ、ハ、ハ"の悪代官、その権力に取り入り、下の者には冷淡にふるまう姑息な、"エッ、へ、へ"の悪徳商人のどちらにもハマり(特に後者がピカイチ)、はた又如何にも善人という感じのノンキなオヤジ役もハマるという、得難いキャラクターで制作会社を超えて重宝にされました。
とにかく彼らのような名脇役たちが50年代辺りの日本映画の黄金時代を支えたと言ってもいいでしょう。私はどうしてもスターよりも脇役に目が入ってしまいます。
主人公は社長の不祥事で会社のゴタゴタに巻き込まれ、東京を離れたくなったところへ、社長の伝令で慰安を兼ねて四国へ滞在することになった。社長の知り合いの"ワッ、ハ、ハ"と型破りな大富豪の家に寄宿することになるが、その取り巻き連中の間には四国を独立させ、理想社会を建設するという怪しげな革命思想が奉じられて、その運動の片棒を担がされるハメになる...

他の作品に触れるスペースが無くなってしまいましたが、ほとんどが私の生まれる前の作品で、"なつかしい"なんてどころでなく、オールドファンでなきゃピンとこない名前も次々出てきたことでしょう。
私は見慣れているせいか、全然違和感を感じません。
何だか"あん時は、生きるのが大変だったけど、ノンビリしてて良かったなあ..."なんて錯覚もしてきそうです。
現代の感覚からすると、稚拙に感じられるところもありますが、現代では絶対に出せない味があるのも確かです。
なつかしく感じるのは、時代を超えて息づいているものが呼び覚まされるからでしょう。

"チョイと"(今じゃ全く使われなくなった言葉遣い)原チャリ跳ばして、レトロな西武池袋線へ行きたくなりました。




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