人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神のことは分からない

2020-02-28 11:40:06 | 
私は年々、ユダヤ人哲学者マルティン.ブーバーが「私はもう神を第三人称で語ることが出来ない」と言っていたことにとても共感せずにおれなくなって来ました。
自分自身に示されること、スピ界隈に他山の石のように写し出される、思いを超えた領域のことを自分の思いで分かったつもりになり、それに取り込んでしまうという、惨たんたる有り様を見るにつけそう感じざるを得ないのです。
こういう人たちは、例えば神のことが本当に分かるのでしょうか?
だとしたら、きっと彼らは神になったか、あるいはそれ以上のものになったつもりでいるのでしょう。実にお気の毒な人たちです!
"神のことは分からない"
マイスター.エックハルトが言うように、分かったような神は神ではありません。少なくともここで語っている神については...
"神は唯一のものである、いや、多神である、ある救世主を通じて現れるものである、宇宙の法則である、あるいは又人間の苦悩や恐れをエサにしている宇宙存在である..."
さも真理を悟った、神が分かったかのように語る人間は、このように第三人称、他人事のように平然と神を言い表します。
彼らは直に、全く真向かいに、到底他人事のように語ることの出来ない、神(的なもの)を知らないのでしょう。いや、それは決して主我的な思いで"知ること"は絶対に出来ないのです。
そうして思いを巡らせていても、いつまでも頭のベルトコンベアが回り続けるだけで、どこにも行き着けず、着地することが出来ないのです。
そしてどこまでも何かを捉えようとして、トラワレ続け、決して神的なものに"捉えられる"(こうなることで無限ループから抜け出せる)ことがないのです。
私は何度でも言います。"神のことは分からない" ...それは思いを超えたものだから...
だけど、思いを超えたところから愛、平安がもたらされることは分かります。いや、ここではそう感じられると言った方が適切でしょう。
又こうも言える。感じられる、ということは頭で分かるよりも分かりすぎることである、と。
それは、リンゴは食べてみれば分かるようなことだから。
しかし、実は...それが神から来るか、どうかということは分からないのです(な、なんだi)。少なくとも私には。
神はひょっとして我々を愛してくれないし、救い、守ってくれないのかもしれないのです。
だから信仰熱心な人のように、"神に救われました~"ということに殊更拘る必要もないのでしょう。
だけど、それが何だか分からないが、キョーレツにそういう風に感じて、随喜の涙が溢れることもあります。
そう感じたなら、素直にそのことを受け入れるしかありません。いや、受け入れているからそう感じるのでしょう。
これが本当に、本当に救いなんだからしょうがないi ...分からない人は、きっとこの世に生きることの重圧、苦しみに打ちひしがれて涙したことがないのでしょう。このどうしようもない際から光が差し込む...
もし、そのことになおもツベコベ理屈をつける向きは、さっさと宇宙のチリとなるか、神と呼ばれる彼ら"宇宙存在"のエサになったらいいでしょう。
私がいつも神(的なもの)と言っているものは、この"人生最大のオドロキ"という事態から導き出されることに他ならないのです。
これがオドロキでないというのなら、"自分の力で自分の思いを止めてみろi"、と言いたいi
そして、"ああ、こういうことは神のなせる業なんだなあ..."、ということになる訳です。
分からないということは、あまりにも自分に近すぎる、直のものであるからでしょう。他人行儀で居られる訳がありません。
そして思いがそっちに向けられ、開かれてくるのも、この幸か不幸か、考えなければ生きて行けない人間の、(ラマナ.マハルシならそう言うであろうように)ごく自然な本性なのではないでしょうか...。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体は知っている

2020-02-27 12:01:32 | 雑感
新型コロナ.ウイルス問題は、一寸我々の思いを超えた事態になっているようですね。
ここへ来てスポーツや音楽関係のイベントなどの相次ぐ中止...流行性疾病によるそうした動きなど私は過去に聞いたことがありません。
過去の、結核、コレラ過など、まだ医療が発達していない時代ならいざ知らず、しかも世界規模に広がっている(先進国ばかりなのは何故?)ことなどを考えると、これは国全体の、いや国際社会全体の問題になりつつあるようです。
この流行病の実体がよく分かっていないのに、いやだからなのか、ネット社会ではその功罪そのままに、真偽ともども情報が交錯していて、益々我々を混乱させているようです。
その一つに"風邪、肺炎には、ビタミンCを摂取したらいいi"、という情報があります。専門の学者らしき人たちが、科学的根拠を基にそう言っております。
ところがそれに対して、当然の如くと言うべきか、"そんな科学的根拠などないi"、と反論する向きも現れるのです。
出たよi、伝家の宝刀"科学的根拠"...我々素人の手が届かないところで何が議論されているのか分からないけど、こうして真っ向から意見が別れるということは、本当の決め手が無いってこと、要するに分かっていないということなんでしょう?...我々は、そういう科学的根拠を絶対視する根拠も無いってことなんでしょう。
私はつい三ヶ月(そう、これはそれほど瞬く間に広がったことなんですi)ほど前、確定された訳じゃないですが、限りなく黒に近く(医者がそう言っていた)、肺炎らしきものにかかりました。
初め三日ぐらい、体がだるく、熱っぽく、タンが絡むような症状があったのですが、一旦は収まり一寸無理して仕事に出たのです。
その日午前中は何とも無かったのですが、午後それまで比較的穏やかな天候だったのが、北風が急に強くなると共に私の体の"風向き"も変わってしまったのです。
それからがもう大変なことに...先の時の数倍の苦しみが襲いかかってきたのですi...私は確かに体の"無理しないでねi"、という信号を聞いていて、そうなってしまう予感も感じていたのですが...
一週間か10日ぐらい、日によって軽かったり、重くなったりはありましたが、そういう状態が続きました。
この間、とにかく食欲が無く、特に油物は全く受け付けず、1日バナナ数本だけという日もありました。
そこで床の中でウンウン唸りながら考えさせられました。
私はいつも本当に体(多く胃腸)が欲しているものを、体のペース、キャパに合わして食事をしていただろうか?
お腹が減ってもいないのに、昼時になったら、何か食べなきゃいけない、という習慣だけで、頭が命ずるままに食べてはいまいか?
体が望んでいなければ、無理に食べる必要が無いということを改めて感じたのです。
そして毎日のように体が欲していたのは、レモン、ミカンなどのビタミンCを含有した飲料水なのでした。
よく考えたら昔から風邪をひいた時はそうだったのです。普段は予防のことなど考えてませんが、私の体感するところでは、あれらは癒しの効果はあるように感じます。科学的根拠などないですが...
こう言って、私はあることを危惧しています。今のところそういう現象は起きて無いようですが、日本中のスーパーなどからあれらの果物、飲料が品棚から消えてしまうことを。(一頃マスク人間が急増したかと思ってましたが、最近は減ったようだが、"何に買えない?"...いつからこの国は"がいこく"になったのかi)
本当に苦しくて欲しがっている人が、それにありつけることが出来なくなることを想像出来るでしょうか?(予防だけのためにバカ買いするのは本当にバカなことですi)
この話はまだ、"世界人類の救世主ビタミンC"の定説が現れていないので、想像上のことに留まっていることですが、私はこの世界的危機?!の本当の予防薬ともなり、深化させることで特効薬にもなるものは、"愛、思いやり"だと思います。
科学的根拠など勿論ありませんが、自分が病んでみたらきっと分かることでしょう。人間の思いよりも体の方がよく知っていることを。
体が感じていることには単なるモラル以上の抑制力があるのです。
そしてその奥にあるものは、体と心は切り離されないものだということでしょう。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SOUVENIR(贈り物)

2020-02-24 10:39:26 | 映画・音楽など
SOUVENIR (贈り物) By Billy Joel

A Picture Postcard (絵はがき)
A Folded Stub (折れた半券)
Program To The Play (演劇のプログラム)
File Away Your Photographs Of Holiday (休日の記念写真)

And Your Momentos Will Turn To Dust (そして思い出はチリとなって消え行く)
But That's Price You Pay (でも、それは代償なんだ)
For Every Year's A Souvenir (いつもある贈り物のための)
That Slowly Fades Away (それはゆっくり離れ去って行く)

ビリー・ジョエルと言えば、ロック、ポップスファンなら知らない人は居ないでしょう。
その数ある楽曲でも、この曲はあまり知られていないのではないでしょうか?
これは彼が77年に出されたアルバムと、その同名曲の「ストレンジャー」で大ブレークする以前、74年のアルバム「ストリート ライフ セレナーデ」に納められていたものです。
私はまだ彼が無名だった、75年の夏頃そのアルバムを持っていて、中でもこの2分くらいの短い曲がもっとも印象に残ったのでした。
彼はN.Yのミュージシャンという印象が強いですが、このアルバムはL.Aで作られたものです。この後彼はN.Yに渡る訳ですが、この曲にはおそらくそのL.Aでの思い出を後にするという、感慨が込められていたのではないでしょうか?
歌詞の中の、"支払うべき代償"というのが、考えさせられますが、思い出ははかなく消え去ってしまうものだけど、人生には毎回毎回、新たに色々と経験されるべきものがやってきます。
今日の経験は明日の思い出。今、現在(プレゼンス)経験していることは、プレゼント、明日のSouvenir(記念品、贈り物)なのではないか...
そんなことを感じさせられます。
それにしても、数十年ぶりにどんなメロディだか忘れてしまっていたこの曲を聴きました。私が持ってたそのアルバムは、どっかへ行ってしまったけれど、ちっともチリみたいになってやしなかったi
暗くぼやけた彼方から煌々と朝日が照り輝くように、鮮明に私の内部に復活し、写し出されたではありませんかi

知ってるようで、知らない時の流れがもたらすマジック...喜ばしいことは、何て物悲しいのだろう...
何にしても、これは今の贈り物に違いない...
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失われた洋菓子を求めて

2020-02-23 10:45:22 | 雑感
「私は何気なく紅茶に浸してやわらかくなった、一切れのマドレーヌごと口にもっていった。...しかし、お菓子のかけらの混じった一口の紅茶が口蓋に触れた瞬間、私の中に起こっている異常なことに気づいて身震いした」(プルースト)

19世紀フランスの作家マルセル.プルーストの長編小説「失われた時を求めて」(筑摩書房他刊)は、近代文学史上に残る傑作らしいのですが、私は以前読んで100頁も進まないうちに挫折してしまいました。
ただ、このマドレーヌのかけらから幼少の頃の記憶が鮮明に写し出されたというエピソードは、とても興味を引き付けてやまないものがあります。
この数行の記述は、一冊約500頁で10冊分くらいある、この大作を凝縮したものなのでしょうか? それとも一片のマドレーヌに著者の生きた19世紀のフランスの自然や、人々の生活の有り様のところどころが凝縮されているのでしょうか?
一体、マドレーヌという菓子には、そんなにも魔法じみたものが隠されているのでしょうか?

"マドレーヌi...私は確かにそんな名前聞いたことあるし、食べたこともある...だけど、どんなやつだったっけ?、どんな味だったっけ?
クッキーみたいなやつ? それともパンか...甘いには違いないのだが...甘食?...おお、それそれi そいつとクッキーを合わせたようなやつじゃなかったか?...そいつを紅茶に浸したら、きっとすぐにぼろぼろに崩れて原型をとどめなくなりゃしないか?
何はともあれ、現物を求めて、失われた時を甦らせる魔法に与ろうではないかi...とスーパーに行ってみたが...無いi
もっと高級洋菓子店とかに行かなければ、"東友"とか"シオン"とかではありつけないのだろうか?
しかし、しがない低所得生活者の身ゆえに仕方なし..."徳用"につられて六個入りの甘食を買ってしまった。(何でそうなるのだろう?)
甘食i...懐かしい味だi ...小学4年の頃毎日食べてたっけ...確か春の遠足にも持って行ったっけ...で、それはどこへ行ったんだっけ?...高尾山?...う~ん、ダメだi...甘食では魔法が効かないのか?...
で...おお、そうそうマドレーヌだった...
しかし、よく考えてみれば...その魔法の効果は、それが媒体となって記憶が浮かび上がる、そもそもの原体験ってものがなければ意味が無いのではないか?
そうだったのだ、私の失われた時というのは、最初から失われていたのだったi...ああ、あほらしi
高級菓子買わずに済んだが、甘食一度に六個も食べて胃がもたれて飯が食えなくなってしまったi..."

ところで、このマドレーヌ体験をもたらす感覚についてですが、これは味覚というよりは嗅覚だと思われます。
出口王仁三郎師は「見直し、聞き直しは出来ても嗅ぎ直しは出来ない」と述べておりますが、これは嗅覚が身体的感覚の中でもっとも強いということを言っているのでしょう。
だから嗅覚が記憶の再生には絶大な効果があるのでしょう。
私の経験でも、例えば音楽を媒介にした過去の記憶の再生でも、音楽そのものよりレコードスプレー(レコード世代ならみんな知ってる)の臭いからより鮮明に浮かび上がってくることがあるのです。
だけど、もっと深い部分の...過去も現在も分けられないような根源的な超時間的なものに与るには、身体的感覚を超えた"内的感覚"によらねばならないでしょう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感覚に導かれて

2020-02-22 10:51:03 | 哲学・思想
改めて"感じる"ことなのですが、こうして書かされていることも、人生の歩みについても、私には"感じること"、感覚に負っている部分がとても大きいのです。
思想とか、考えたりすることでも、それが深く自分の中に根付かされるのは、感覚が伴っているからでしょう。これは知性と感性というものは、深い部分でつながっているからそうなるのです。
感覚というと、体感とかいって身体と結びつけられるものですが、あまり認識されていないもので、"内的感覚"と私が呼んでいるものこそ、私にとり"見えない導き"そのものと言っても過言ではないのです。
これは身体のみからは来ないものなのですが、じゃ他はどこから来るのか?、精神?、霊体?...それは意識と密接な関係があることは分かるのですが、何かは分かりません。感覚的なことなので...
一つ言えることは、肉体があって、精神があって、霊体やらアストラル体やらがあるといった認識は、そう"考えられている"のでしょう。
純粋に感じられることには肉も霊も無いのではないでしょうか? つまりそのように分けられないということ...元々が心身合一的なものから来るのではないでしょうか? 内的感覚というものはそのようなものを言い表しているのです。
これに照らせば、ある種のスピで語られる物質と精神、霊とを分けて、やたらと"物質は無い!、ホントの自分は霊、神なのだi"、何て宣っているのは、その実強固な観念に支配されているようにしか思えません。
そう信じようとしているものばかりが伝わり、抽象的でちっともリアリティが感じられません。むしろそうした観念性が強くなるほど凝固的、物質的なものを感じてしまいます。
このリアリティというものこそは...そういう実在するモノがあるからではなくて、まさにそう感じるということから来るのではないですか?
こういうことは、いつも言うように、とかく宗教、スピ界で陥りがちな、"理に走りすぎる"ことからでは、分かったつもりにはなっても身はちっとも頷いてくれないのです。
人生の裏側に足を踏み入れてみるならば、そこに決めつけたり、切り取ってみたり、分離出来るものは何も無い...こりゃ、もろノンデュアリティの言い種ではないか?...真理はこれっきゃない?
冗談じゃありませんi 、切り取られたノンデュアリティ、これほどの真理へのギマンはないi
決めつけ、分離、相克...どうしたって世の中そうなっているように"感じる"ことだってありますよ。
あまりにも卑俗な、バカバカしいことだってあるでしょう...私が感じているんだから間違いありません。
ただ、そのように決まったもののようには感じられないということ...今日は寒風が吹き荒れてつらく感じることもあれば、明日は小春日和で幸せに感じられるということです。
私が感じていることに、一元も二元も、聖も俗も無いのです。
あなたが感じていることもその通りのものでしょう。
私はどうしたって自分が最も愛しているもの、幸福になれるものにすぐ感じてしまいます。
それが真理かどうかなど知りません。理屈じゃないから...
私の人生で"導かれる"ということはそういうことなのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする