人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生は勝ち負けじゃない!

2023-12-31 09:55:46 | 雑感
「勝ち負けがすべてじゃない!、みんなが幸せになれたらいいんです!」
って、リアルタイムではちょこっとしか観てなかったけど、最近動画で通して観ていた、ぶっ飛び法廷ドラマ「リーガル.ハイ2」で、後半になると、その理想主義者ぶりがハナにつくようになる、そのぶっ飛び弁護士のライバル弁護士がいつも決めゼリフのように言っていました。
けど、法廷の勝ち負けって大きくないですか?
これが、スポーツだともっと大きいです。勝ち負けがすべてだと言ってもいいくらいです。
取り分け、ボクシングなどの格闘技では、先日の井上尚哉の世界戦を観ても、結果もさることながら、試合後の両者の顔には勝者、敗者の色がくっきり映し出されていました。
勝ち負けを競っているのだから、勝たなきゃ意味が無いのです。(この点、井上尚哉の試合は、白黒がはっきりしていて、いつも観ていて気持ちがいい)
勝つことがすべてなんだ、人生は!...って、そうは言ってません!
私の人生なんて負けてばっかりですよ!...努力、鍛錬、諦めるな!、負けるな!
私はプロボクサーじゃないし!(あれは、全く私とは相容れない世界を見せてるから、観ていてとてもワクワクさせられるのでしょう)
キツい、苦しい、逃げたい!...負けちゃダメなんですか?
人生そのものは、法廷でもスポーツでもない!...勝ち負けがすべてではありません。
かつて、象をも倒すと言われ、おそらく単純なパンチングパワーでは、史上最強と目される、元世界ヘビー級チャンピオン、ジョージ.フォアマンは、はるかに非力の技巧派ボクサー、ジミー.ヤングに負け、控え室で意識朦朧となり、“神の声を聞いた“と言ってキリスト教伝道師となったのは有名な話です。あれは一種の覚醒体験だったのかもしれません。
これまで、何人かのボクサーは、実際そういう話も見聞きしたこともあるし、リングで大の字になって、そういう経験をしたこともあるかもしれないのです。
リングの裏側では何が起きているか分からないのです。
まして、人生そのものの裏側では!
負けて、何もかも失ったように思えても、与ってしまうことがある!
それは、勝者には与りしれないものなのかもしれません。
勝者は永遠では無い、次は敗者かもしれない...(尚哉よ!、不敗神話という夢を見せてくれ!)
けれど、本当に自分の内奥に光りが差すようなことに与るのなら、そこには、戦って勝ち取るということも、負けて失うということもありません。
年を越せようと、越せまいとどうでもいいではないか?
勝ち負けを超えた世界に目覚めるなら、みんなが幸せになれるだろう...

明日目覚めたら、世界は新しくなっているかな?
良いお年を!




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絶望の一秒前

2023-12-29 08:57:24 | スピリチュアル
又々、懲りずに某坂道系の楽曲からお題を拝借しちゃいました。
例によって書く内容は、その歌詞とは直接関係ないのですが、このフレーズには何だか魂が揺さぶられるのを感じてなりません。

“絶望の一秒前、星は微かに光り、漆黒の闇が来るよ...“

“ああ...もう絶望だ!“...何に絶望するのかはともかく、絶望だと思っているうちは、本当に絶望の状態になっている訳ではないでしょう?
絶望とは望みがすべて絶たれてしまうこと...希望を持てないと思う、そう思うということは、絶望というものも、そう思っているということなのです。
だから、そういう思いが絶たれてしまうことが本当の絶望なのではありませんか?
でも、それは希望も無ければ、絶望も無いのかもしれません。
希望を失うと絶望的になり、それが消えると希望がやって来る...自分の思いで良くなったり悪くなったり...こういうシーソー状態から解放されること自体が、もしかしたら本当の望みなのかもしれません。...
それは、決して失うこともなく、絶望に転じることも無いのだから!...我々は本当はそれを望んでいるのではないか?
“絶望の一秒前、漆黒の闇がやって来る!“...そして何もかもが経たれる!...それは気を失ってしまうことなのか?、あるいは死を意味するのだろうか?
だが、その闇の中から微かに光りが感じられる...まだ倒れていない、生きているらしい...
倒れると思ってたら起きていて、死んだと思ったら生きていた!...
もしかして、これまでがちゃんと起きている、生きていると思っていただけなのかもしれない...
自分の思いを超えたものが臨んでいる!
“星は微かに光り、漆黒の闇が来るよ!“...絶望の一秒前の予兆...
絶望的な“震え“もやって来た!
それは、もう、そこからは逃れられないという印!
何故ならば、それは自分の思いを超えたところで望んでいたことなのだから!...

“もう、絶望だ!“と思うことは本当の絶望ではありません!
それは、絶望の一秒前のことなのです!...
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何かがリングに降りて来る!

2023-12-27 09:29:51 | 雑記
昨日のボクシング、井上尚哉の世界スーパーバンタム級王座統一戦の、某サイトの予想アンケートは、94%がモンスターのKO勝ちとしていました。
ボクシングには絶対というものは無いけれど、私は99%でもおかしくないと思いました。
それくらい両者の実力に開きがあると思っていた人は、私だけではなかったでしょう?
正直言ってこの試合は、昨年暮れのバンタム級王座統一を賭けたポール.バトラー戦同様、私的には、両者の手に汗を握る白熱した試合は、ほとんど期待出来ないな、と踏んでいたのでした。
私は4団体統一戦云々の看板より、モンスターを脅かす強豪との対戦を観たいのです。
んで、この相手のマーロン.タパレス。彼が王座戴冠した相手、ムロジョン.アフマダリエフと一度は話もあった、再戦したらきっと負けるだろう、というくらいの評価で、まあ、3ラウンドまでに決着が着くだろうと、予想していたのですが...
つおい!...これは私の完敗!...判定まで行くかと思いましたよ。すまない、タパレス!、あなたは本当に上手かった、強かった!...あんなにディフェンスが上手く、コンパクトに強いパンチが打てるとは!(もっと大振りで、スピードが無いと思った)
しかし、あのサウスポーの斜め構え、どっかで見覚えがある。そうだ、5年前のボクシング史に残るであろう、モンスターの1ラウンドの、あの電撃的ワンツー.フィニッシュの相手、ファン.カルロス.パヤノです。
敢えて、あのスタイルで来たとは!...本来は井上のパンチが当たりにくいもので、それをタパレスは実証して見せたのです。
パヤノ戦では、見事に踏み込んでワンツーを放ち、ツボにハマったという訳です。
あるテレビ番組で井上は、その試合を振り返って、「何かが降りて来て、相手の動きが一瞬分かった」と言ってました。
井上の段違いの快勝劇には、きっとこれがあるんだと思いました。人間離れした神がかったものを感じてなりません。
自分の思いを超えた何かが!(もっともその悦に浸っていたら、秒で夢見ですよ!)...
昨夜の試合では、どうもそういうものは見られませんでした。タパレスのガンバリかあったのも言うまでも無いですが...
モンスターももう30過ぎて、動体視力も体のキレも落ちて来るだろうし、階級を上げることによるパワーダウンも出て来るでしょう。
何か、そのようなことも感じさせられる、昨夜の一戦でした。
ただ、ある解説者はこの試合「苦戦)と言ってましたが、手こずりはしましたが、苦戦というほどではありませんでした。(唯一の苦戦は、ドネア戦1のみ)
やはり、普通に強かったタパレスよりも、超がつく強さはまだまだ井上にはあります。
これからは、あまり神った試合も期待出来ないのかもしれませんが、どうもここんとこ、試合の交互に降りて来るようだし...
次戦(悪童ネリーが相手か?)では、果たして?...
コメント (6)
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無心の呼び声

2023-12-26 08:53:44 | 独語
人が神と一つになるには、悟りを開くには心を無にしなければならない、欲望を無くさなければならない...
我々は、これまでどれだけ、この無心になることに囚われて来たことか!
一体、誰に為し得よう!
誰がそんな境地に達し得よう!...
”私は長年の修行によって、無念無想の境地に達した!”
私が為したという有心、我心...
何の勲章を貰えるというのか?
”無にならなければ、欲望を無くさなければ神のみ旨に叶わない...”
あなたの神がそう告げたのか?
”前世からのカルマを清算しなければならない!”
神に向き合うことが出来ないというカルマ!
向き合うという気の無いカルマ!
ただ、その気が無いというだけではないか?!
中々そんな心境になれない...
それどころか、ますます心は乱れ、悪しきことに囚われ続ける...
とても、神に向き合うことが出来ない!
申し訳ない、自責の念が起こるばかり...
自分を責め、傷つけるのなら...
それがもとで他者を傷つけるのなら...
そんな時こそ神に思いを向ける!
それだけで、どれだけ自分の、他者の救いになるか分からない!
”私だけを見て、感じて!”
神からの無心の呼び声が聞こえないだろうか?
いつの間にか、そんな心の重石から解かれる
心の曇りが晴れてゆく...
無心に与っている!
この思いを超えた恩寵の他、何ものも遮るものがない!
無とは与るもの、賜りたる無...
思い、為そうとする自分からは決して来ない!
神への思いの他は...
すべて無...



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神の導きは純一

2023-12-24 09:40:36 | ガイダンス
「私はただラーマひとりだけしか、敬うことも愛することも出来ません。私の心も、魂もすべてラーマのものです。私の血の中にも、心にも、魂にもラーマの血が流れております。今も心の中にあるラーマを敬い、愛しているのです」(古代インドの叙事詩ラーマーヤナ)

多くの宗教では、神と一つになるには、敬虔な心を持たなければならない、心を純一に、信奉する神に専一に祈りを捧げねばならない、などと説いています。
だけど、絶えずあれこれ思いを巡らしていたり、何かに囚われている人間の側から中々そういう心境になれるものではありません。
第一どの神、どんな教えに従ったらいいか分かりません。そして諸々の宗教の中の一つを選んで、その奉ずる神に帰依してゆき、他の宗教の神は排し、否定されてしまうのでしょうか?
それで強固になってゆくものは、排他的な思念ばかりなのではないでしょうか?
そこには、思い、為そうとする自分ばかりが場を占めていて、肝心の神は全く思念の外におかれたままなのです。
神の導き無しには、何一つ良きことは始まってこないにも関わらず!...
祈るということは、勿論自分から始めるものではありますが、それはどこまでも宗教の人間の教えでなく、神そのものに向けられなければなりません。
だから、どの神に?って、だからだから、あれこれ思い描いてる人間に訊いてどうするのかってんです!
神は何次元の存在か、悟りには何段階あるかとか、幾つのチャクラを開かなければならない、とか...こんなのはすべて思い描いたものばかりではないか?
神の前ではすべて関係ありません!
敬虔になる、純一になる、専一になる、これすべて神の導きがどういうものかを物語っているのではないか!
あなたをそのようにしむけるもの無しには、そんな心境にはなれないものでしょう。
こう考えると、人を祈りに導くもの自体がそういうものだとも言えるでしょう。
純一に、専一、主一になるとは、そこに例えば宗教が、神がいくつあるように説かれていても、一なるものに貫かれているようなことです。
だから排他的狂信とはまるっきり違うことであり、むしろ広く、自由な心性が自ずから開かれて来るのが普通なのです。
この消息は、すべてで一つであるものとしか言いようがありません。
この帰一的な在り方ですが、そこに自ずから自分自身が諸々の思いから離れて、私という意識に収斂されてゆくものが感じられてきます。
つまり一なる神につながることは、真我の実現につながることでもあります。
これは、あたかも血のつながりのように、本来的に神と同質のものを自分の中に戴いているということを示しているのでしょう。
いや、これはもう親子の血のつながり以上のものではないか?!
意識しただけで、中から言い難きものが呼び覚まされて来るというのは!
だから、思われた自分からは中々始まってこないことも、信じられている神でなく、あなたの神だけに思いを向けることで、容易く開かれて来るのです!
何故ならば、神の方があなたを放っておかないでしょうから!...
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