人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊和の道

2020-10-31 10:02:08 | スピリチュアル
「ブッダの教えを学び続けることによって、ついにその枠組みを超え、キリスト、孔子、ソクラテスにも又共通の、人間にとって普遍的に固有のものを捉えることができた。それは、この人生という表舞台を裏打ちしている舞台裏からのおとずれである」(玉城康四郎)
「超理念の世界とは何か。
神か如来か、アラーか梵か、天か無か。
名称はいかにもあれ、人の魂の志向する絶対界に超理念の根源はある。
人間の心魂を呼ぶ本願者i
人間の実存を担う実在者i
その声を寂聴し、その光を霊視し、その愛を体受せよi」(小池辰雄)

私は、もう、私個人のみが悟りを得ることには意識が向けられなくなってきました。
それは、個なるものが普遍なるものと分離することにつながり、このこと自体、普遍的"超個"の有り様から外れてしまうということが明らかになってきたからです。
私という一個は、普遍と離れては真の個たり得ないのです。
このことは、私の内に霊性なるものが息吹き、育ってくるにつれて、ヒシヒシと身に覚えられてきました。
そして、現実世界に転じてみると、一個の運命は普遍世界と切り離せないものであることが、この度の世界的規模の日蝕という、大きな試みを通し、否応無しに感じて来ざるを得ません。
これをごく単純に言えば、命の事態に立ち返らざるを得なくなってきたということでしょう。
純然たる命の事態には、相異なる宗教信仰のことや、思想、イデオロギー、各種の方法論のことに囚われ、それらに閉じこもっている限り、それに与ることは出来ないのです。
それら表層の世界に隠された、命の事態に目覚めれば、我々は、その内に本来から息づいている、"霊性"によってつながっていることが知られるでしょう。
キリスト、ブッダなどこれまで人類の教師たちが伝えて来たものこそは、霊なる命の消息に他ならないでしょう。
一個人が霊性に目覚めれば、自他に調和がもたらされる道が開かれるのです。
"霊和"の道は既に開かれている...
"旧型"を一新すべく、"新型"は示されてあるi
我々はもう、その霊性に立ち返るには疲れきって、無力なのかも分からない...
しかし、私はその霊なる命の本源の方が、神的な力の方が裏側から我々に働きかけているのを覚えて、これを書かされている次第なのです。
霊和の道は、見えるものの見えないものとの和合から始まるのでしょう...。
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悟りと神人合一

2020-10-29 12:04:47 | 覚醒
昔から女性で、"悟った人、覚者"という存在はあまり聞きません。
こういうものは、男性のイメージが付きもののようです。裏を返せば女性は、そういう世界とはあまり縁が無いとも言えそうなのですが...。
しかし、私には断然、元からして女性の方が天国に、救いに近い存在だと思えてならないのです。
上記の傾向の理由として、女性からはそういうことへの言及が、あまり為されることが無いから...つまりは、そういうパッションが元々希薄で、自然とそっちに赴くことが無い、ということなのでしょう。
これは、それだけ主我的な思いに囚われることが少ない、ということを表しているのではないでしょうか? これだけでどんだけ救いに近いことかi
今、ネット界隈で、"悟り、覚醒"といったことについて覗いてみれば...そこに如何に主我的な、我見への固執の思いが渦巻いているかが知られるでしょう。
悟り、覚醒の何が本物で、完全なもので、あっちは偽物で、今だしのもので...、とこっちはそういう我見がそう言っているのです。
そうして、主我的な思いから離れなければダメなんだ、と頭では分かってはいても、離れようとして、離れられずにもがいているよう...これ、男のサガなんだからしょうがありませんi
そこへ行くと、女性の方は元々その頭でっかちの、忌まわしき傾向は抑えられ、ただただ、最愛のものと一つになりたい、結ばれたい、というパッションに駆られて行くのです。
当然のことながら、男のサガを抱えている私自身は、私"が"悟ろうとすることと、この合一への願いと、どちらに自然に意識が向かわされるかというと...もう自明ではないかi...書いてるだけで"じんじん"してきますよi
我が魂は、本当のホーム、最愛なるものとつながらなければ、安らぐことが出来ないのですi
そもそも、そのもの無くして悟りも覚醒も無いのであれば、それに偏って追い求めることなどどうでもよいではないか?
そして、神的なものとつながることで、主我的な思いから離れられるのです。
しかしながら、多くの場合、女性の最愛なるものとは、"最愛なる人"のことであるのは言うまでもないでしょう。
でも、その存在を自分の中に元々息づいている、愛そのものの光に照らして、深く心に感じてみれば...その存在を通し、その存在を超えて、多くの恋歌で歌われて来た、"永遠の愛ーこれが形なき最愛なるものと共にある愛に他なるまいiー"に目覚めることが出来るかもしれないのですi
女性は、このように本性から"明け渡し"の美徳を備えていると言えるでしょう。
この美徳無くして、もう、この世界はもう立ち行かなくなるのではないか?
故に、女無くして世は開かれない...。
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存在を超えた愛

2020-10-27 12:15:44 | 
私はいつも、"思いを超える、超えたもの"、というように、人間の思考にはその限界、それを超えたものが示される、境界といったものが厳然とあると言ってきました。
これは、"もう何も考えられない"、という具体的な感覚でテキメンに分かることなのです。
では人間の感情、情動に関わることはどうなのでしょうか?
これにも喜怒哀楽などの日常的な感情を表層的なものとすれば、普通では味わえないような、言うなれば深層的、あるいは超越的情動ともいうべきものが知られるのです。
それがどういうものであるかは、超思考的なものと同様、表現するのが困難なのです。
何しろ通常の思考、感情では捉えられないものなので...ただ、私はそこから直ちに想起される、"愛、平安に満ちている"という表現から、なにがしかのものを汲み取って頂くしかない、と思っているのです。
で、この情動に関する領域には、はっきりとした境界があるのか?ということについては私にはよく分かりません。
特に愛に関わるもの、一番(説明する上で)分かり安いのは愛情を伴うものについてです。(逆にこれが境界が分かりにくいということ。私の場合)
勿論、そのより情感のより深い部分では、"好いた、惚れた、愛しい、胸きゅんi"、といった通常の感情は超えられているのは言うまでもありません。
そこには、異性、親、兄弟、ペットでもいいですが、その対象としていた存在はもはや、思われたままではなくなってしまうのです。
その大切な存在は存在として、ちゃんとあるんですが、一方では形を超えた存在のように感じてきます。
それで、その存在への愛は薄れてしまうのでしょうか? いや、さらに愛しいものへと昇華してしまうかのように感じられるのです。
ここに今まであまり明らかにされてこなかった、"人生の裏側"の秘密があるのです。
それは、その自分の外なるものとしての対象が、言わば人の内に隠された原初的な愛と一つになってしまうようなことです。
原初的な愛は自己に元々与えられているもので、これ無くしてそもそも、そうした愛情は生まれ得ません。
そして、そこで感じられるものには、あの"じんじん"と現臨の愛に包まれるような感じと通じるものがあるのです。つまり、そこにはエクスタシーがあるi
といっても、これはよく引き合いに出される、あの楽しいH系のそれと似たものではあれ、永続性があるか、泡沫的なものであるか、という点で区別しています。勿論あの愛に根差した、交わりというのはあるでしょうが...
エクスタシーの本来の意味は、存在を超えるということなのです。そこには私も対象も無い。
そして、悲劇的にも愛すべき対象は、常にそこに在る訳じゃありません。失ったり、変質したり、何よりもこちらの愛情も冷めることがあります。
しかし、そこに無対象的な原初的な愛というものがあるのを発見したのなら、その対象となる存在は、別様の輝きを見せるかもしれません。
又その存在がその愛の道案内となるかもしれないのです。見える対象としてのみにとらわれなければ...
そして又、それが失恋や別離、片思いなどで報われないものであったとしても、あなたの内には決して愛が失われた訳じゃないのです。
あなたの内には最愛なるものがちゃんとあるi
最愛なるものにあって幸福でない訳がありません。
このことを知るだけで、人生は思われたものではなくなりますi
そして、私には最愛なる見える存在と、見えない最愛なるものとの境目というのは、在るような無いような...どっかでつながっているように感じてしょうがないのです。

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恋愛ドラマはややこしいi

2020-10-25 08:27:05 | 独語
"あなたは時に狼男のように豹(狼)変するんですか?"

ぷ、ぷっi...
あ、あれはねえ、一種の願望を書いて見たかっただけなんだよお...
狼男になって、美女をi...なんて願望も無い訳じゃないけど...
とにかく、僕は昔からこういうのは、とても不器用で、好きな娘が居ても"、"好きだ、愛してるi、って言えなかった。
けど、こんないい歳になって、ようやく人を好きになる、愛するってことがどういうことなのか、分かってきたような気がする...もっとも僕が言うんだから、かなり浮き世離れしてるかもしれないけど...
ホントに好きになったら、絶対、自分を抑えられなくなってしまうよi
で、狼のようになって、"ぐわああっ"、と...
そうじゃなくってi...そういう感情が態度に出ちまう、出ずにおれなくなると思うな。
これは、あれ、"じんじん"、"ぶるぶるぶるっ"、っていう"あれ"と本質的には同じだと思う。
こないだ、久しぶりに恋愛ドラマを観たんだけど、居るねえ、ウジウジとしたの...
周りから"お前、彼女に気があるんだろ?"、とか煽られて、"そ、そんなことある訳ないじゃんi"、なーんて...ああ、メンドクサi
僕なら、とにかく、"全員黙っていてくれi"、と言いたいi...黙っていたならすべてが分かる...めんどくさい人間は黙ってろi...当事者だけの問題なんだi (僕は今"あの日に戻って、このことを強く言いたいんだi)
そんでもって、ヒロインというのは決まってツンデレだ...自分も好きだったらツンツンすることないだろう...で、何か男が気に障るようなこと言ったか、やったかしたら、"もう、あんたなんか知らないi"
コイツらみんな分裂してるぞi
もう、ちょっと大人になってからのドラマでも、"僕は君を幸せには出来ない(これは身に染みる)、別れようi"、なんて...で、相手から"いやですi、別れるなんて..."てなこと言われたら、"そ、そうかi、その言葉を待ってたんだよi"、という具合になんで進まないのかなあ?
観てるこっちが頭が分裂しそうになる...
もっとも、くっつく過程もあれば、分裂、別れる過程も描かなければ、恋愛ドラマなんて成立しないのだろうなあ...ああ、ややこしi
もし、お互い好きな者同士だったら...抑え難いことになってしまうかもしれない...人目も憚らず抱き合うとか...
相手は最愛の人なんだぞi...人の目など気にしてられるかってんだi...それが分裂の無い、全的な人間の在り方ってもんじゃないかi
理性はうち砕かれたのだi..."Waoon!"
もっとも、こういう私なりの恋愛ドラマっていうのは、大体が"単体"で演じられるものなのだが...
きっと、すべての恋愛ドラマってものは、妄想が作り出すものなのだろう...
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神と罪

2020-10-23 12:19:46 | 宗教
世の中宗教離れになって久しいし、新手のスピでも神信仰については説かれなくなってきたようです。
でも、昔も今もある種の神への信仰は根強いものがあります。
それは人に罪の意識を植え付ける神のことです。
それはどっかで信じられている神だろうと、個々の良心といったものだろうと、社会通念だろうとどうでもよいことです。
我々は、常に何かから罪意識を吹き込まれてきた、ということに変わりは無いのです。
そして、その傾向は近年より強固に、より暴力的になってきたと言えるでしょう。
つまり、罪悪感を背負い込むことに耐えきれなくなって、はけ口を失い、我々の外部へと暴発してきているのではないか、ということです。
この前には、我々の道徳観念、理性的判断ではもはや太刀打ち出来ないでしょう。
我々は自らの思念により、自らを精神的に袋小路に追いやり、その逆流してくる業のツケを抱え込むハメになってしまったのです。
この罪深い、呪われた運命を一体どこにぶつけたらいいのかi
そして、そのもっとも罪深い所業と言えば、その罪意識を駆り立ててくるものの先を"神"に帰した、ということではないでしょうか?
それは、我々からその救いの道を永遠に絶ってしまう、ということに等しいのではないでしょうか? だから罪深いというのです。
我々は宗教者だろうと、無神論者だろうと神のことは全く分かっていなかった、ということを知るべきなのです。
人が語り、信じている神を知ったつもりでいただけなのです。それは実質、神との関わりを絶つことにつながる...これが罪意識の淵源であろう。
熱心な宗教信者ほど罪意識の奴隷だということは、何ら不思議なことじゃありません。
そして、実際には聞くことが出来ない神の仮借なき言葉に、その被告者的な思念を投影させたのでしょう。
しかし、このどこにもぶつけることの出来ない思いも、ただ一つ神にはぶつけられます。
神にぶつかれば、思いは超えられるのだから....
神が何であるかは勿論分かりません。しかし、私には常に声なき声で、"お前はどこに居る、私はここに居るよi"、と呼び求めているのが聞こえて止まないのですi
神を自らの思いで勝手に遠く、近づき難いものにしてしまったが、神はその声なき声のあるところにどこでも居られる...これは我が神だけのことだけなのでしょうか?
他人が、世の中が神に擬して語っていることなどもう通用しません。
神に向き合うことは、罪に苛まれる故にそんなに恐ろしいことでしょうか?
神の本当のみ心など聞いたことがないのに...
それらしきものを聞いたが最後、もう...絶句...(易々と言えるかi)
聞く気の無い人間には、どうしたって分かりません。
耳ある人間には、神の方が沈黙の声で語ってくれる...かもしれない...。




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