人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

僕を呼ぶ声

2022-02-27 09:34:15 | 詩的文章
一体ここはどこなんだろう...
どこまでも原っぱみたいのが続いてる...
ここより前のことは覚えていない
ずっと泣いていたようだ...
不安だ!...どうしていいのか分からない...
何かにすがりたい!
“お願いです!、どうか助けて下さい!
誰も居ないの?...居るんでしょう?
なんでもいい...答えて下さい!...”
すると...遥か地平線の向こうから何か、呼ぶ声が微かに聞こえた!
僕を呼ぶ声
行かなきゃ!...呼んでるんだ!...あの声とつながるんだ!
だから...どうしても行かなきゃならないんだ!
たとえ、どんな困難に会い、どんな敵が現れても...
しばらく歩くと...
目の前に大きな岩壁が出てきた!
大変、つらそう...無理かもしれない...
どうしよう?
でも、行かなきゃ!...あきらめる訳にはいかないんだ!
ダメでもここを登らなきゃ!...ここを越さないと...
ここを...
向こうで待っているんだから...
あの向こうにはきっと幸せがある!
そう感じてるんだ!
感じてる、感じてる...確かに!
それに僕が引っ張られているようにも...
もうすぐそこから聞こえてくるようだ
僕を呼ぶ声

もう、日が沈む...
地平線が見えなくなりそうだ...
どうしよう?
ここで休むしかないか...
疲れたよ...
今度は微睡みの中に声がする...
僕を呼ぶ声
“私はここにいる!”

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実存的な祈り

2022-02-25 10:24:17 | 祈りと瞑想
“神的なものと自己は、切り離すことが出来ない。”
と、いつも言っておりますが、もう、自己の外にばかり神を拝すような時代は過ぎ去った、という感が強くあります。
言い方を変えれば、意識を内側に向けて神に祈れば、ますます思いを超えた、大本の自己が生き生きと、開かれて来るということでしょう。
超える、超えられるということは、開かれることなのです。
考えている私のままならば、思いを超えることが出来ません。だから祈る必要があるのです。
祈りといっても、私は広く、深い意味で形を超えた、“意識を神に向ける、向いちゃう”ような消息のことも言っているのですが、そんな掴みどころのないことばかりでなく、言葉による祈りのこともたまには触れてみたいと思うのです。
といって...“こうこう”という、どっかで定められた、決まった祈りの文句を唱える、なーんてこと私が言う訳ないでしょ!
上に書いたような内容の祈りなのであれば...人から教えてもらって、それに従ったりする、てーのは、ちょっと情けないじゃありませんか?...自分自身のことなんですよ!
自分のまっ中心に投げ出すような祈りでなければ...
何の虚飾も、体裁も要りません。真っ正直に心に浮かんだままに祈ればいいのです。
祈り方が分からないのなら、“祈り方を教えて下さい!”、と祈ればいいじゃないですか?
神が分からないのなら、神に触れたいのなら、“神よ!、アリアリと現れ、お示し下さい!”と祈ればいいじゃないですか?
神のみ旨が分からないのなら、“み心のままに...”と祈ればいいじゃないですか?
と、こう書いてきて、もう、言葉にならない、言葉を超えたものとならざるを得ない感じになってしまうのです。
祈りが届くもなにも、何かが来てる感じになってしまう...
どっか遠くの、誰かが言っているような神、祈りなんかであなたの魂が揺さぶられたりするでしょうか?
神はもう真向かいに居る!...私の実存と一つに...
この春は、一段と間近に、密になって来る兆しが...
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ブッダとアートマン

2022-02-23 10:12:52 | 仏教関連
「ブッダは、絶えず変化している経験的集合体とは区別される真実の自己の存在を、否定していない...彼は、恒常不変の自己の存在を否定するというより、それについての思弁を否定したのだ」(S.ラーダークリシュナンー出典、前記事に同じ)

"ブッダは、真我、恒常不変の自己なるもの(インド教では"アートマン")を認めていたのか、否定したのか?"、を巡って今でも仏教研究者の間で見解が分かれているようです。
原始仏典によっても、あるところでは肯定的に語られ、別のところでは否定的に語られていることがその要因でしょう。
もっと、それをもつれさせているのは、後者に関連しますが、"ブッダは真実の自己なる存在を否定した"、という微妙な言い回しの受け取り方にあるでしょう。
これは、そのようなそれ自体のみから成る、"実体あるもの"としては、否定した、という風に解されることは、ブッダの縁起観に基づく無我論から導き出されるでしょう。
それについて、そんな有るのか、無いのか分からない、実体なき真我など信じられるか?と、感じている人も多いだろう、と思われます。
これは神でも、霊、霊界でもスピリチュアルなものは、すべてそういうものと言ってもいいでしょう。(宗教、スピ界にはこういう実体信仰が根強いのはどうしたものでしょうか?)
実体が無ければ信じられない、というのなら唯物科学と何ら変わりはありません。そして、人間の精神は、信じ、疑うという表層意識に基づくものがすべてではないのですi
しかし、ブッダとは要するに、よほど不定見な人間のようにも思えて来ますが...いや、これこそがブッダの真骨頂なのではあるまいか?
つまり、唯一絶対の神的存在ブラフマン、不変、真実の自己アートマン...このような定見、思いの固着、執着となるものを否定した、ということでしょう。
即ち、そこに権威がはびこり、安易な迎合が生じ、思考停止に陥ってしまう...そうなると反省、内省の道が閉ざされ、表層の思考に依らない、ブッダの智慧ともいうべきものの発露が閉ざされるから...平安に与ることが出来なくなるから...、ということではないでしょうか?
ブッダの目覚めにより、安心に導かれる...分かりきったことではありませんかi
いや、待てよi...安心に与るものは誰か?...恒常ならぬ、顕れては滅したりする自己なのでしょうか?...そこに平安など求められるでしょうか?
それは、もとより常にそう考えている自己の沙汰でないのは言うまでもありません。そして、そのことについて誰一人私に明言などしてくれないでしょう。お釈迦さんと言えども...
私自身が内省し、アキラメ(明らかにする)なければならないのです。
いや、この直接的な道に入ること自体に、心に安らぎが、見えない導きが感じられて来るのではないか?
それは、全く思われた私を超えたところから来る...その実体が何かは分からないが...
少なくとも、私はその思いを超えたあるもの、そしてそれが思われた私でない私とつながっている、あるものを否定し去る気にはなりません。
いや、そういう気が全く起こってこないのだから、どうしようもありません...。
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幻想と化されること

2022-02-22 10:04:21 | 哲学・思想
「ウパニシャッドは、人生が一睡の悪夢だとも、この世が不毛な空夢だとも教えていない。むしろ人生は、この世の調和というリズムと共に、ときめき、躍動している。この世も、神による、神自身の啓示なのだ」(S.ラーダークリシュナンーインドの元大統領、宗教哲学者ー「インド哲学史(上).ヴェーダーンタ哲学の源流」/文化書房博文社刊)

究極の真理とは何か?...生来から哲学的欲求と言えば聞こえはいいが、言い換えると頭でっかちのサガを抱えた私は、こういう文句には弱いものがあります。
しかし、最近の私は、いくら深遠な(そう思える)教えだろうと、現実にそのように受け取れない、すーっ、と自然と内面に入って来る感じを受けないものは、スルー(否定することではない)せざるを得ないものを感じています。
一時期の私は、ノンデュアリティの教えこそは、究極の真理だと思おうとしていたのですが...ご存じのように、この教えは主として、古来インドでウパニシャッドとかヴェーダーンタと呼ばれる思想群の主流を成している、不二一元論(アドヴァイダ)から借りたものなのです。
そこでよく知られている教えに「神のみが実在している。この世は幻想に過ぎない」というものがあります。
この教えを継承している、ラマナ.マハルシなどにも似たような言説が見られますが、これは、少し前に触れた「私は神である」という言葉と同様、微妙な言い回しの違いで、全く違う受け取り方に導かれるようなのです。
私はかように、何度か思おう、信じようとしたのですが、リアルにそう感じたことは一度もありません。
リアルに感じるものと言ったら「今日も金が無い、一体どうすりゃいいんだi」と、モロ動かし難い現実の厳しさばかりなのでした。
こうなると、もう祈るっきゃないというもの...この世が、いや神が幻想だろうとなんだろうと...
すると.."これは夢なのか?...いや、そうじゃないi....じんじんと、あの感じが雲のように立ち込め、さっきまで思っていたことが夢のように感じられて来るではないかi"
見てる景色は同じだし、厳しい現実もそのままで...何かが決定的に違うのですi...世界も、現実も神的なものと共にあるi
この物質世界も、肉体も幻想として消えてゆく訳じゃないのです。
もし、字句通りに自分の思いだけで「現実世界、肉体はないi」という教えに信従しようとすれば、それは、意念的、思念的に否定しようとすることであり、そうしようとする自分と、現実にそうならない自分とが、分裂することになりかねなくなるでしょう。
そして、その実本当に得心した訳でもないのに、観念的に分かったつもりになる...これが、偏った精神主義の陥りやすい罠と言わねばなりません。
現にあるものが無くなるのでは無い、持ち前のものが否定されるのでは無いのです。
神的なものが、私の現実に臨むことによって、現実が神的なものに変容されてゆくのです。
これを私は"化される"、と言っています。正確には思いが化されてゆくのでしょう。
なるほど神的なものに化されないものは、幻想に思える...この意味で神しか実在しないのかもしれません。

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主一、全一の祈り

2022-02-20 10:55:29 | 祈りと瞑想
長年、神を求めているのに、中々神が生きているという実感というか、神の臨在といったものが感じられない、という向きもおられるかもしれません。
私は本当に神そのものを求めているならば、神の方からこちらに迫り、ハタラキかけて下さらないことはないのではないか?、といつも感じてならないのです。
そりゃあ、勿論そういうことは、いくらこちらが努力したって、神のみ心次第ってことはありますよ。
しかし、それは逆に言えば、どんなに努力しても及ばないことも、それを超えたみ心によって開かれることはある、ってことじゃありませんか?...ああ、もうダメですi...何がって...イってまうやろi
ええっと...ですから改めて本当に神を求めているのか、その実別のものに取って代わられているのか、自分の本心に尋ねてみてはどうでしょうか?...と、もう、そういうこと自体が神の道を開くことと言っていいのですが...
あなたが求めているのは宗教、教師の説く神の教えなのか、神の道についての技法なのか、色々観念的に考えているだけなのか..."神は愛だ、と信じてる、しかし、神に裁かれたりして恐ろしい...神には正しいものと邪なものがある...神と自分自身は同じなのか、別なのか..."
観念の世界は、このように堂々巡りの繰り返し...挙げ句は心は真っ直ぐにならない、深く、広がって行かず、どんどん分裂してゆくばかりなのです。
本心ったって、何だか分からないかもしれない...だから祈るのですi
ごちゃごちゃと、普通に生きる上で、何の足しにもならない観念を祈りに持ち込むことなど出来ませんi...何十年祈っているつもりで、自分が勝手にハマった固定観念に囚われ続けている御仁も居る...そういう人はそもそも祈る気も、神を求める気もない、ってことでしょう。
ごちゃごちゃ迷い続けるか、祈るかどっちかしかないi
祈る、神を求めることは、考えている自分に見切りがつけられる、ということ...それが思いを超えた神そのものを受け入れる、ということに他なりません。
神そのものとは、あなたの主なる神、あなたを在らしめる神である...神の道を開くことは、本心を開くことと不可離のものです。
神と私は不可離のもの...
何ゆえに、主なる神に真っ直ぐに向き合うものに、神の導き、恩寵がもたらされない理由などあろうか?
何ゆえに、神を恐れ、疑い、二心をもって迷い、心を分裂し続けなければならないのか?
迷いの思いを乗り超えるものは、信愛ではないでしょうか?
神への信愛は、自分自身への信愛でもあることを示されれば、ぐっと遠きものと思われた神は、近しいものに感じられて来ないでしょうか?
心が分裂している状態は、愛というものが分からない、ということです。恐れ、疑いながら愛するなんてことがあるでしょうか?
どこまでも主なる神に意識が向けられる、主こそは私のすべて...
祈りは主一、全一のものとならざるを得ません。
そして、神に信愛を向ければ、自ずとこちらも信愛が向けられていることが感じられてくるでしょう。
神の方がこちらをつなげようとされている...それがみ心のように感じてなりません。
だから、だんだん私に間近なものに、アリアリと臨んで来るのを覚えずにいられないのです。

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