人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人はいくらでもやり直すことが出来る

2020-11-29 10:38:45 | 雑感
世ごとでは、誰かが犯罪に手を染めてしまったり、スキャンダルなことをやらかしてしまえば、"ああ、あの人はもうオシマイだi"、などと決めつけられてしまうものです。
そして、実際にその地位を失ったりすることもある訳ですが...人が、世の中がそう言っているだけ、地位を失うだけなのに...その理由で自ら命を絶ってしまう人も居ます。
それで、ホントにオシマイになっちゃうんでしょうか?
これも本当は人が"死んだら何もかもオシマイi"、と言っているだけで、実際のところは死んでみなきゃ分かりません。
要するに、ホントに、ホントのオシマイってのがあるのか、どうかは分からないのです。又それはどこまでも私やあなたの問題なのです。
そして、もう、世の中の声に支配される時代は終わった、との感を抱いているのは私だけでしょうか?
気が付けば...というか、一度も終息したことは無かったはずなのに、忘れた訳じゃないけど、こうなることもあり得たであろう、あの世界的規模のコロナ日蝕が忍び寄る...
これが自分が重患になってしまったり、身近なところにまで及ぶようになったら、ピラミッドの頂点に立っているような人間も、社会の底辺に居るような人間も、善人も悪人も関係なくなってしまいます。
人間は、病床に着くことを余儀なくされるとか、トコトン落ち込まないと気が付かないのでしょうか?
"生かされている"、ということだけで幸福だということが...
そうなる前でも、どんなに地位が高かろうが、幸福であるとは限らないし、その逆もあったかもしれないのです。
要するに、自分がそう感じていること以外に幸福というものは無いのですi...そして、もしその生かされていることの、その依ってきたるものを感じることが出来るならば、どこで何して生きてようと幸福でない訳が無いのですi
人間は何をやらかそうが、どんな最低なことに落ち込もうが、ここに戻ることが出来るはずなのですi これは"ゼロ地点"に戻ると言ってもいいでしょう。
逆に言えば、我々は、今よりももっと幸福を追求し、又それを失うまいと、飽くなき前進、増進に駆られることで、この原初的幸福から切り離され、見失うに至ったと言えるのです。
本当に切り離されてしまえば、それこそやり直しは利かなくなるかもしれません。我々自らは、マクロ的に観ても、その自滅への道にブレーキをかけることは出来そうになかったのですが...原初に立ち返る道はミクロから開かれたi
"人間はウイルスよりサイテーだったi
しかし、どんなにサイテーなことになっていても、そこから開かれるものがある...どんな数字もゼロを掛けたらゼロになる...そして、ゼロは無限に開かれている..."
人生は何度でもやり直すことが出来ます。ゼロ地点に立ち返ることによって...
いや、本当は人の生は上も下もなく、常にそこに相即されたものであることが知られて来るでしょう。
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下からの道、上からの道

2020-11-28 10:03:08 | 求道、探究
宗教、スピ界隈には、"人はいくつかの段階を経て、悟りの境地や神と一体になれる"と説く教えがあります。
私は、そういうものを否定しているのかと言うと、一概には言えません。
ただ、私個人はそういうものをリアルに感じたことが無い、ということなのです。だからと言ってすべてを否定する理由にはならない、という訳です。
そうした教説のよく知られたものに、"人間には肉体の他にエーテル体、アストラル体があって..."といったものがありますが、私は、霊能者と言われる人には分かるのであろう、肉体以外のそういう別の"体"の存在を実感したことは一度もありません。
これは、何々体がそれに対応しているのかは忘れましたが、人間の感情や知性の有り様と対応している、ということなどは人間の意識構造みたいなものを理解する上で有益かと思われます。
この何々体は図示されているものによると、肉体の内に入れ込むように、重なりあって存在しているらしい...私はどうも知らない内にそれらから先入観をもたらされたのか、"神はわが内にお在す"、私の内の最奥に神体みたいなのがある、と思い込むクセがあったようなのですが、実際は、リアルにそう感じたことはあまりありません。
内なるというと、肉体の奥だとか連想しますが、そういう言い回しには囚われない方がいいと思います。
どっちかというと、自分の周りのすべてに神的なものが取り巻いていて、肉体の内も外も境界が無くなってしまう、といった感じになるのです。これが言い換えると、"思いが超えられる"という消息を伝えるものに他なりません。
"内なる"という言葉のヒビキには、私的には、"自分の思い以前から、原初からあるもの"といったものが感じられてきます。これに対して"外なるもの"とは、自分以外の他なるものから自分の思念に取り込まれたもの、という感じのものになります。
思いを超えるか、否か...最も、根本的で、肝心なことというのはこういうことではないでしょうか?
もし、その"段階的な道"において、ずっとその"上位段階に至らなければ、思いを超えた次元が開かれない"、とするならば私は否定的にならざるを得ません。
あなたも私も、世界人類も神を知らない中途の段階をさ迷い続けなればならないのでしょうか? 進化し続けなければ神の光に与ることが出来ないのでしょうか? そこにもう、やり直しは効かないのでしょうか?...だったら、一体どこに救いがあるというのかi
私の精神的な道を振り返ると、なるほどその節々ではある段階を経てきているように思われます。(それが上に向かっているのか、堕落しているのか、進歩しているのか、後退しているのかはテンデに分からないですが...)
で、そもそもその道を歩むきっかけになったのは、思いを超えた神の愛みたいなものに触れたからなのです。そして、その節々でそういうものに会わされているのです。
どれだけ、自分が進化するかどうかということより、思いを神的なものに開くことが出来るか、ということに意識は向けさせられています。
段階的な道というのは大雑把に言えば、下からの道ということが出来るでしょう。
でも精神的な道は、神的な恩寵とか、上からの道というものを欠いては説明がつかないでしょう。
どんな険しい階段を登っていても、途中で迷っていても、暖かい日の光に与ることは出来るはずなのですi
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囚われる信仰、捉えられる信仰

2020-11-26 11:51:33 | スピリチュアル
いつも信仰について否定的なこと書いているのかもしれませんが、私はというと...神信仰していない日など無いくらいです(笑)
要するに、とかく信仰というのは、観念、思念に支配されやすいもので、それはどこまでもヴァーチャルなものでしかない、ということを言いたいのです。
そして、それを解き、開くものは神的なハタラキによると言っているのです。そういうものに根差した信仰というものは勿論有るでしょう。
だから、どんどん信仰心を深くし、高め、強くしなければいけないのですi...なんちゃってi
そーンなこた、言いませんi
言葉の捉え方次第では、どんどんそういう思念の方が強くなって行くだけでしょう。
神に意識を向け、受け入れることは、そういうものが無化されること...それが思いを超えるということに他なりません。
霊的進化か何か知らないけど、思われた自分がいくつか段階を上って行って何かに到達するとかっていうのは、勿論この相対的現実世界では、成長だとか進歩とか言って、あることに違いないのですが...そういう思い自体が出てこなくなってしまうのです。
"自分は高まって行ってる"、なんて思っていても、ゼロに戻されてしまう...自分は無知で無力だ、ということを思い知らされるだけ...何にもありゃしない、残りゃしない...そーンなこた、無い!(かも?)
"神的なものが臨んでいる、現臨しているではないかi...そういうものを信じ、仰ぎ見ているのではなく、ここに自分と相即して来ているではないかi"
人が低い方から高い方を目指したりするのは、より幸福になろうとするからだと思われますが、そのものと共にあれば、そういうものとは関係なく幸福に感じられるでしょう。
これは思いが超えちゃっているから、そういうことになるのです。しかも、それは自分の力でそうなるんじゃない...どこまでも恩寵のなせる業なのです。
こういう何も考えない、何もしないようなことをこの世のことに適応したら、多分おまんまの食い上げになるでしょう。
ただ、それについてはあまり考えられないのですが、逆に霊的進化というか、誰もがそれを目指して奮闘努力しているようなことは、どうしてもこの有り様には適応出来ません。
もし、強いて適当な表現に準えるならば、イモムシが蝶になるように、この自分は別の有り様に"化される"ということになるでしょうか?(ゲーテはそういう風なことを言っていたんでしたっけ?)
要するに、思われたままの自分が悟ったり、進化したりするんじゃない...
かつては、自分が信じる対象として神というものを描いていました。
それが思いを突破して意識に飛び込んで来てからは...だんだん私というものはあちらに取られて行ってしまうようなことに...ふと、そんなことが過らされる今日この頃なのです。
信仰と言ってもイロイロ...神に囚われるのも信仰、捉えられるのも信仰...かも?
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神の幻想と現実

2020-11-25 12:43:10 | 
言うまでもないことですが、私が書いていることに絶対性など無いので、信じ込んだり、追従したりしても無意味です。
もっとも、訳が分からないので、そうなりようもないのかもしれませんが...
とにかく、何かの信仰の押し売りをやっているのではありませんi そういうのはやるのも、されるのもムシズが走りますi
所謂信仰ごとというのは、ある宗教なり、教祖なりの教えを観念で画一的に信じ、従わせられていることで、それは、一人一人が直接的に真理なりを示される在り方ではないということですね。
例えば、"神は元々人間一人一人の内に在るんですよi"、という教えがあったとして、そう観念的にオウム返しに信じ従っているだけだったら、いつまで経っても、身につかず、自分自身の確証(人に確証してもらうことじゃない)にはならないのです。
しかし、そういうのがただの信仰ごとでなく、"私は直接知り得たのですi、と言われちゃあ、どうしようもありませんi  "ああ、そうなんですか"、と言う他ありませんね。
だからと言って、アタシャ、そういうことを短絡的に信じ、従うつもりなんか無いi...と、こういうことをここで言っている訳です。
私が他に向けて書いていることに絶対性など無い、と言いました。しかし、もしそれが私に直接示されたものであれば、私自身には絶対的な意味を持っているのですi...
だから、"これが絶対的な真実なんだ、信じ、従いなさいi"、とついやっちゃうことなんですi
多くの教祖さん、教師たちは多分そういうことをやっているんだと思います。一人一人の身のことはお構いなしに...
ホントは、"絶対的"という言葉自体、適当でなく、権威というものと結び付けられるようですが、私が直接示されたことに照らせば、それを"疑うことが出来ないi"もののことです。
疑えないということは、観念ごとじゃないということです。身につく、とかつかないというよりも自分自身と分離していない、ということです。
で、こういうことは 、この考えている自分からはそうなりようがないことなので..."そう在らしめるものこそは絶対なんだi"、というのは私の信仰告白みたいなものの訳で...
"じゃあ、それを私も信じてみましょうか..."、なんて"抽象的な信仰ごときものになる訳無いでしょ"、ということを書いているのです。
そんな訳で、あなたの真実は、あなたの神に聞くしかないのですi...信仰の強要でなく。
人間のあーだ、こーだという思いを超えたものを神的なものと言っているのです。
ところが、それが他に向けて絶対的な真理のようなものとして、主張された途端、語る方も聞く方も思考に取り込まれてしまうのです。
人が唯一絶対の真理のように語っているものこそは幻想でしょう。
他人が言っていることに、何が楽しくて"お追従"なんてしていられるでしょうか?
それで幸福に与れるのならそれもいいでしょう。
だけど、"直に"もたらされる"愛、平安、リアリティ"というものはそういうものの比では無いのです。
"それは観念の域を出ないものなのか、疑うことが出来ないところから来るのか"、知りたければ徹底的に疑ってみればいいのです。
疑っても疑っても払拭出来ないものがある...これを言い換えれば、惹かれてやまないものということでしょう。
その神があなたに何を告げるかは分かりません。人それぞれでしょう。
何にせよ、それは受け入れるしかありません。それで例えば"神は元々私の中にある"(それが真実かどうかはさておき)という信仰は崩れ去ってしまうかも分かりません。
けれど、少なくとも、そこで神的なもののリアリティは示されるはずでしょう。それが現実ということです。
神というもの程、幻想と現実をくっきり映し出すものは無いと感じざるを得ません。

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恩寵を顧みて

2020-11-23 09:26:18 | 詩的文章
恩寵...光...歓喜...
何でこんな僕に...
何もかもが不相応なものだった
まだ人生経験も浅かったのに...
"これは全く僕の手に負えるものじゃないi"
そして現世に戻った...
あれは幻想では無かったのか?
疑い...
あれはホンモノだという確証はどこにあるのか?
証明してくれる者はどこかに居るのか?
試み...
人間はひょっとして"石ころ"から始まって段々進化していかないと、
ああいうことにはならないのかもしれない...
それに至るにはどんな苦難、試みに会うのか計り知れない
それが人生というものなのかもしれない
僕には優待席など用意されていない
誰もが味わなければならない...
誰もが...
ひょっとして、あれは...
誰もが与ることが出来るものではなかったか?
どんな苦難の中にあっても...
どんなに疑おうとしても、拭い去ることは出来ない
その疑いから...僕は恩寵から外れていった...
しかし、どんなに思いは外れていても、離れていても、
引き戻される...どうあっても、こうあっても...
すべての思いを超えているから...
そして、僕は疑う思いから離れて...帰っていった...
こんなことには何の確証もない
誰も証明してくれない
ひょっとして、あれも、あの御方も幻想なのかもしれない
だったら...僕のことも、宇宙もすべては幻想
"本当のものがある"、というのが幻想
"疑いたかったら、疑うがいいi"
疑う僕より先に...
すべてを照らす太陽が眩しかったi
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