人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

お陰様で...

2019-12-31 10:41:59 | 雑感
いつも年の瀬ということを意識している訳でも、特に慌ただしいことをしている訳でも無いのですが、何故か何かに迫られているような感じがしているこの頃です。
それで、"これでいいの? 今年中にやらなければならないこと無い?"、と思うのは、自分がそう思って、そうしようとしている訳で、この人生は"自分だけで生きている訳じゃない"、と感じていれば、ただ時が過ぎて行くだけのように感じて、ラク~になってくるのです。
思えば、私は5年前の初っぱなの記事から、そういうことを書いていて、色々訳の分からんことが多い中で、そのことはブレずに書いてきたように思います。
でも、"自分だけで生きちゃいない"、と言っても、どうしてもアタシャ、"私はいない"、"起こることが起きるだけ"とは思えない、感じないのですね。
"全体がそうしている"のだとか?...私が全体と思い、感じなきゃそんな全体なんか無いでしょう。
この"私"なるもの。これは思っている私だけからは絶対に出てこないものです。見えない私みたいなのがあって、この私を在らしめているとしか思えない、感じてきません。(そういうのは私だけでしょうか?)
見えない私...陰の私。これはもう、お陰様なのです。感謝しかありません。
わが国で古来、このように言い伝えられてきたのは、こういうことが内包されているのです。
ただ、あまりこのお陰様は私自身、真我と切り離されないものとしては伝わって来ませんでした。
度々触れているように、私はブログを書いているうちに、ラマナ.マハルシの"神、真我、導師は同じものである"、という言葉が、"じんじん"とした感じと共に、私の中に染みこみ、鳴り響いてくるようになりました。
小池先生にとって、それは神.キリストのことで、その辺りの消息を"神.キリストは、超在、遍在、内在し給う"、と実に的確に言い表しておられます。
このお陰様なるものが、いよいよ私のまっ中心から顕われ、又そこへと間近に迫ってくるのを覚えます。

誰が読むのか、このマイナーブログという路線で続けてきましたが、宗教的プロバガンダが大キライな私でも、このブログでちっとは、"伝道"の精神も反映されているのです。
"日陰"で生きていた私には身に余るようなことですが、読者が増えて来たことは、素直に嬉しく思っています。
これは一重に読者諸氏の"お陰"という他ありません。
来年もよろしくお願いいたします。
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神保町ー風と懐かしさの街

2019-12-29 10:31:02 | 雑記
私は暇さえあれば、東京近辺の色んな街に行っているのですが、もっとも頻繁に訪れるのは、何と言っても神田神保町です。
この街は古書街があることで、東京人ならずとも有名ですね。
都内の古書店は、近年軒並み閉店の憂き目にあっている中で、ここだけは健在で、まるで何十年前から時間がとまってしまったようです。
老舗も多く、店構えもあまり変わってません。
つまりはその周辺を歩いているだけで懐かしい気分になれるのです。
だけど、それだけじゃない...古本自体も懐かしいものですが、これも昭和の街の名物、中古レコード屋さんも有名なとこは"現存"しています。
又、ふっるい看板がそのままの洋食屋さんもある...ここには昭和の伝説が生きているのですi
私がよくここを訪れるのは、読書家を自認しているからであるのは言うまでもありませんが、私が頻繁に通い始めた大学3年の、昭和52年頃はそれまで本一冊まともに読んだことも無いような人間なのでした。
この頃はもっぱらデキシーとかスイングとかのオールド.ジャズに凝っていて、水道橋の駅近くにあった、"ダンモ"に支配されたジャズ喫茶(これも昭和の名物)にあって、それら専門の得難い店、その名も"Swing"で聴いて気に入った音盤を求めて、神保町よりに歩いて"Tレコード"に行ったりしたものでした。
こないだ昔の血が騒いだのか、消えたはずが場所を一寸移動してやってたその店で、その当時、オムニバス盤に二曲あったのを聴いて大感激した、1920年代のニューオーリンズの楽団、パパ.セレスティンのタクシード.オーケストラの単独レコードをつい衝動買いしてしまいました。(毎度マニアックな話でスンマセンi)
いや、それにしても懐かしい...なんつっても私の生まれるずっと以前の音なのですが...古い音楽って陽気な曲でもどうしてこう物悲しいんだろう...
おっと、肝心の本についても、思えばベルジャーエフ、手島郁郎、小池辰雄、玉城康四郎...私の人生の教師の先生方の本も随分とここで出会ったものでした。
一頃は買ったばかしの本をやはり水道橋までの間にある、"白十字"という、これ又レトロな佇まいの名曲喫茶店(あったi)で読むというのが、一種の儀式みたいにしていたものです。
この界隈には、私の中ではいつも風が吹いている、というイメージがあります。
長く関西に行ってた間でも、帰省の折りには必ずと言っていいほど訪れていましたが、大体それは年の暮れであり、特に風で落ち葉が舞っていて、それがどこか憂愁を誘う街の風情を作っているという感じが強くあります。
風、プノイマは、又"霊なる息吹"を呼び覚ますもの...そう、ここは霊なるものと出会える街なのですi
ワクワクしながら上記の本を読み耽っている時は、常に現在にある、という感じになり、散在しているような過去のそうした時々が一つにつながったようになります。
この街には、私の中に古いものとそれを感じさせない常に新しいものとが交錯しているのです。
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愛は具体的

2019-12-27 11:42:27 | 
ノンデュアリティでは、例えば誰か、あるものを好きになる、愛するという場合、その対象も、見てる私も見せかけ、幻想にすぎない、という言い方をよくします。愛には二元性はないのだ、と。
だけど、(例によって)私は心からそういう風には思えない、感じられないのですね。
理屈は何であれ、意中の異性が目の前に現れたりすると、心臓バクバク、胸きゅん(死語か?)になってしまうじゃないですか?
頭はともかく、体で感じちゃうことにウソはつけないのですi
だけど...そういうことはこっちの身、ことにハートの辺りで起きているってことも、紛れもない事実です。
そうです。元々自分の中にあったものが呼び覚まされるように...
この事実はこれまであまりにも"身近すぎる"ことからなのか、世間で意識が向けられてこなかったようです。
"ああ...あの人があ...神よ~"、って対象にばかり向けられていたのも確かなことでしょう。
ということは...幻想というのは、その対象そのものというよりも、愛はその"対象だけ"からしかもたらされないという、"思い"に向けられるべきではないでしょうか?
このことに限らず、私は幻想性というものは、こうした"偏った思い"から生まれるものだといつも思っているのですが、これでいくと"対象も私も幻想"と決めつける思い自体も幻想になり得ると言えるでしょう。
しかし、愛のことはこうした一寸カタイ話も無効とならざるを得ないでしょうね。理屈じゃ分かりませんから...
ハートに感じる...これは具体的に感じられるということです。
愛についての、恋愛論とか神愛論とか抽象的な論議というのは、捨てるほどあります。
しかし、そんなこといくら考えたって分かりゃしません。いや、私自身長いこと、そういうことを分かったつもりでいました。
それが私の中に、別の生き物のように息づいているのをはっきりと感じたのは2年くらい前からです。
ずっと昔からおぼろげながら感じてはいたのですが、"意識的になって"みて、そういう風に感じられ出したのです。
それが現代社会が見失っていて、そのためにいやというほどその混迷の姿を見せられているもので、誰にとってももっとも大切なものであるということも...
これは、"じんじん"と感じるあの現臨、すべてを見透かす光といったものが、よりハートを通して感じられるものと言っていいでしょう。
こういうことは、おそらく"私だけ"の有り様からは決して生まれないでしょう。ハートに"火をつける"もの無くしては...
それが最愛の異性、ペット(これらのロス経験がそれを生むことも多くあるでしょう)、導師、神...そういう見える、見えない相手との出会いがそれを生み、育むのではないでしょうか?
これらは、対象というより媒体というニュアンスのものでしょう。
誰もが思い、感じている愛というものは、二つのものが"合い"、一つになることです。
そこに二元も非二元もありません。
それはすべてで一つのものなのでしょう。
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思えなくてもいいi

2019-12-26 12:15:42 | 求道、探究
私が所謂ノンデュアリティにハマリかけていた頃は、例えば私という"個人はいない"、なんてことを心底思える、感じている訳でもないのに、とにかくそう思おうといていたところがありました。
"そう思えないのは、途中の段階なのであって、究極の目覚めには充分ではないのだ..."、と覚者気取りの私は、いつもマインドをくすぐられていたのです。
ホント~に賢そうなバカなのでしたi
そう思えない、感じないのならそれでいい、分からないのなら分からんでいいんです。
自分がそうだったから言えるのですが、いやもう、宗教、スピ界隈はこんなのが多いのなんの...
キリスト教だったら聖書的で、福音的であろうとして自分を合わそうとしたり、何かの教えにかぶれると、その流儀にとらわれ始めます。
一体、こういうところに迷いこそあっても、本当の愛、平安というものがあるでしょうか?(そんなもの、ちっとも"福音的"でない!)
とらわれがある、ということはそれが見失われているということじゃありませんか?
そう思えない、感じられなければ今度はそう信じようとします。こうしてその界隈にはお追従者、信者で溢れかえってしまうのです。
まずそういうのは、表層でそう思い、分かったつもりになっていても、腑に落ちていない、身が頷いていない、ということに気がつかなければなりません。
そしてそれは、ありのままの、素のままの自分を誤魔化しているということです。
かと言って何も、自分はそう思えない、感じられない、信じられない、と自分で決め込む必要もないでしょう。ただ自分の現実はそうなっていることを受け入れるということです。
それを現臨にある、と言ってもいいでしょうが、あの"思いを超えた光"に照らされる、そのまんまである、ということはそういうことでしょう。そのまんまだからこそ、光に照らされるのです。
それは又オープン.マインドということであり、そうなろうとしなくてもオープンにならざるを得なくなります。
そこには、二元も非二元もOO教もありません。
この光にあって、自分を投げ出し、それにゆだねることが出来るのです。そこに迷いはありません...思いが超えられているから。
こういうことを色んな教えで、"思いを手放すi"とか言うんですね。
けど、自分からは手放せるものでないし、結局そう思えない、出来ない...と、堂々巡りになるんですが...
私はどうも具体的な方法を示さないで、とりつく島もないこと言っているみたいですが、案外言ってたりもしたりして...
それは..."いのり"。これはそういう方法という感じがしないのですが、投げ出すとかゆだねるというのはここからくるのです。

私は当たり前のことですが、自分自身のことしか言えないのです。他の人の道は知りません。
何の、どんな祈り? "私の神様"にあって祈る、祈らされる...他の神様のことは知りませんi..
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ポケットいっぱいの奇跡

2019-12-24 09:59:44 | 詩的文章
僕はポケットいっぱいの奇跡を持ってる
そしてポケットいっぱいの奇跡があるから
1日ひとつ小さな奇跡があればそれで充分なのさ
...
君が奇跡に見離されてるとしても
君にはポケットいっぱいの奇跡があるから
君と僕とで分けても
奇跡はたっぷりあるさ

ソリの鈴の音を聞いて
僕は雪があるみたいな感じで外を回る
恋をしてる時は毎日がクリスマスなのさ
(Pocketful Of Miracles :by V. HeusenーCahn)

小春日和の夕方、我が家の壁に時ならぬヤモリが張り付いていた
キモいけど、よく見ると可愛いヤツ
暖かさに騙されて出てきちゃったのか
急に冷えてきてそのまま固まってしまったのだろう...
翌朝、ヤツはまだ張り付いていたままだった
夜通しそのまま凍死しちゃっのだろうか?
ちょんと指で"剥がし"たら落っこちて、お腹を向けてバンザイした
そしてショックで目覚めたのか、ノソノソ動き出したi
復活したi
そら、草むらにおいといてあげよう...
暖かくなるまで、お休み...

他愛のない命なんてない
他愛のないことなんてない
他愛のないことで泣けてきただって?
そんなことが...
ポケットいっぱいの奇跡なんだ
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