人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

回光返照

2024-04-03 09:14:20 | 祈りと瞑想
霊性の道では、言葉に表せば簡単そうな表現がよくあります。
例えば、五井先生なんかは、「いつも神様を思っていたらいいんですよ」「神様の中に思いを入れたらいい」とか、いつも説いておられました。
これといった難しいテクニックを用いる訳でもなしに、そんなことで霊性につながることなど出来るのか、なんて思いがちになります。
そのように言葉に表せば、実に簡単なんです。だからね、私がいつも言うように、神に思いを向けたらいいんですよ!、神を意識したらいいんですよ!...さあ、やってごらんなさい!
出来まっか?...
やろうとしても出来ないと思い、感じるのが本当ではないでしょうか?
では、それはそんなに難しいことなんでしょうか?...これもウンとズレてるようにしか思えません。
思うことや為すことしかなかったら、こういう風になるしかないですよ。
これは、難しいとか簡単だとかってことじゃない!...あなたが思い、為すことじゃなくて意識する、されることなんです。されるという...自分の思い、力だけでそうならない!、そうさせるものにあってなされることなのです。だからこんな簡単なことは無いとも言えるし、為すことは不可能とも言えるのです。
で、やっと本題には入りまして...禅の臨済録に「便に自ら回光返照して、更に別に求めざる」という言葉があります。
回光返照(えこうへんじょう)なんて難しい言葉ですが、どうやら自分の外側を照らす光を内に向けるということらしいのです。臨済禅というのは、これと別のものを求めないらしいのだから大変なもののようです。
して、これを解説しているものに触れてみると、どれも“自分の内側に光を向ければよい!“なんて書いてある。だから誰が向けるのかってことになるでしょ?
現実問題として出来るのか?
これは、実に私がいつも“照明“と呼んでいる、思いを超えたところから照らす光の消息を伝えているものでなくて何であろうか?!
あなたが思い、為すより先に光はあなたの内側をも照らし続けているのです。
それを意識すればいい...それが既にあるから意識出来る、させられるのです。
もうこれは、“南無阿弥陀仏“、則ち無量光に帰依し、頂くことと同じではないか?
意識の次元では、自力も他力も無い、宗派だの流派なんてものも更々無いのです!
霊性の道の根本にあるものというのは!...
言葉にすれば簡単ですよ!
だって、私がやろうとする何かのことじゃないからですよ!
難しい教えもテクニックもありゃしません。
なって来る!...
難しく考えなくても、光が中に入って来る...でしょう?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする