人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の場

2023-11-30 09:18:16 | 現臨、ハタラキ
私はこのブログを始めてから、よりいっそう神的な現臨感というものを強く感じるようになりました。
同時に、修行というものには以前から縁が無かったのですが、自分の思いを深めて高い境地を目指そうとか、悪いクセを改めようとか、要するに自分をどうこうしようという方には意識が向かなくなってきたのです。
そういうことは、これまでもほとんど効果が無いばかりか、却ってそうならないことで、自分を責めたりするなど重い、思いに囚われがちになったりしていたのです。
ある面、ちと反省が足りないということもあるかもしれませんが、いやそれ以上にとにかくそういう思いから離れて、あの愛、安らぎに与ることが何よりも大きいことなのです。
大体、自分で自分を律するような心なんかタカが知れてますよ!、すぐに堰が決壊して暴走するであろうこともこれまでのことで自分で分かっています。
いや、このものこそがそれを抑制する力となっていたのではないか?
“自分、自分“、という思いに囚われたままでは、自分の居場所が無くなるのは目に見えています。
救いは、思い、為そうという自分からはけっして出て来ないのです!
何度も言うように、意識が神的な現臨にあるということは、思いが超えられていることに他なりません。
これは、言うなれば私という個人を超えた、そういう“場“の中にあるということなのです。
だんだん、この私の本体的なものは、そっちにあるような感じがして来るようです。
そうなると、この意識というものは、ともすると自分の中にあると思いがちになるものですが、言わばその“神の場“とも呼ぶべきものにあるということなのでしょう。
このことに関して独自の瞑想法を指導していた、“メタ.ブレイン“(これはその団体名であると共に氏の代名でもあろう)の故山手国弘さんは、“意識は空間にある“と言っていたのも頷けます。
意識が向くとか向いちゃう、とかいうこと自体、そういう超えた場所、空間があることを予想しているではありませんか?
ある種の瞑想などで、神的な存在をこちらからイメージしたりするというよりも、それに先立ってもうそこに臨んでいるのです。だから意識するだけて、パッとつながっちゃう!
言えることは、この神の場の形成が日に日に急速になって来ているのではないか、ということです。
これ、私がブログを始めたからだけの理由ではなさそうですよ!
そもそも、そういう兆しを感じたから始めたのでしたから!...
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愛は裏切らない!

2023-11-28 09:36:12 | 
一人の人を一途に思い続けていたり、最愛の人にしか関係を許そうとしない女性は何人か知ってるけど、そんな男などついぞお目にかかったことも聞いたことも無い!
居たとしても絶対に信用出来ない!
自分のことを思ったら...
一体、一日に何人の女にイロエロな気を向けてしまうことか?
どれだけ、無駄なエネルギーと時間を浪費し続けていることか?
仮に僕に“純愛を守る“という信念があったとして、目の前に艶やかな美女が現れたら、即座に泡のように消えてしまうこと請け合いだ!
純愛...
乙女たちよ、君たちはずっと幻想を抱き続けているのではないか?
よろずのことは無常...
人のこころは変わるものだよ!
愛は裏切るものなんだよ!
いや...それとも、君たちが守っているものは、最愛の人への愛だけではないのか?
君たちはそうと知らずに、その奥にある愛そのものを守り続けているのか?
最愛の人にそれが重ねられているのか?
その愛はずっと変わらないものなのか?
純愛というものは、恋愛と共に語られるものだけど、そういう何にも色を付けられない愛のことなのだろうか?
僕にはとてもそんなこと語る資格などないけれど...
時々は、そのようなものを感じることはあるよ!
いや、まったく感じられなくなっちまったら...
何かが終わる...いや、すべてが終わるかも!
そうなると、時々じゃ済まなくなってきて...
すべてみたいになってしまうんだ!
分かるだろう?
なんかの種みたいにあるのか無いのか分からないものが、パーッと広がって!
いつもイロエロな気になる度に、そんな愛を裏切ってるような気がする...
けど、愛は裏切らないんだ!
こんな僕でもまだそれを感じているのだから!

こういうことは男に話すだけ野暮というものだ!
野望しか頭に無い、何にも捧げられない生きものなんかに!
だから、君たちは天国にずっと近い!
君たちが居なければ世界はとっくに終わっているだろう!






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神と仏

2023-11-26 09:31:09 | 宗教
まったく常識的なことですが、日本人は昔から神と仏を信仰している、それが日本人の宗教なんだ、と言って大抵の人には頷いてもらえるでしょう。
そのように一般には認知されているのです。(いや、そうしてみると一宗派の一つに過ぎない仏教の影響力の大きさというものを改めて感じてきます)
で、“神と仏とはどう違うのか?“、なんてことも昔から取り沙汰されたりしています。
そんなもん、どっちも自分、思いを超えているということでは同じだし、そんな理屈ごとなんかで神仏につながることなど出来まへんやろ!、と私は言いたくなる訳ですが...
理屈を言ったら神にも一神教やら多神教やらあるし、仏でも、ブッダその人を差したり、そういう悟った人のことでもあるし、内なる仏性のことみたいだし、大乗になると、それは仏教に非ずということも言われているが、大日如来とか阿弥陀、観音様とか神と同じように礼拝されたりしているのも沢山あったりで、もう、きり無いわ!...訳が分からないから大雑把に“神仏“でいいんでしょう?
私はしかし、どうしてもそこに意識が向かわざるを得なくなるのです。
意識されると、先のように区別など出来なくなるのですが、それでも幾分その“向き“に異なるものも感じます。
神という言葉からの、又それを超えた響きには、いつも言うように自分、思いを超えた、超越的なものが感じられます。そこにも自己と切り離されないものがあるのは言うまでもありませんが...
一方仏というのは、大日如来などのすべてに超越した宇宙神のような性格を持ったものでも、自己に内在する仏、仏性のようなもの、言うなれば真我的なものと切り離されないものが感じられます。
いや、当のブッダはそうした実体ある真我を否定し、無我を説いたんだ、という意見もあるでしょう。
いやいや、それは我があろうと無かろうと、凡我を超えた“梵我“のことを問題にしているのに変わりは無いんだ、なんて声もここから聞こえるぞ?!...要するに真我的なものの響きが伝わってくるのです。
だから...“日本人は昔から神仏を信仰して来たんだ“、と当たり前のように馴染んで来た思いに改めて意識が向けられると...そうだ、我々は超越的にして内在的な、普遍的な宗教精神を、そうと知らずに育んで来たのだなあ、と感じてきて、何とも言えない驚きと感謝の思いでいっぱいになります。
何か自ずからす~っと、その一にして二、二にして一なる、ひいては全一なる“神仏“に吸い込まれるようになるのです。
いいかげんにして、大雑把な日本人の神仏観には、このような普遍性に開けた、“大和“なる精神が内包されているのです。
日本人の内なる神仏のこころが呼び覚まされるのを願わずにおれません!...

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命の親

2023-11-25 09:27:03 | 
“人間は本来神と一つのものである“、とか“人間には前世というものがあり、死後もなお生き続けるのである“、というような教えがあります。
いつも言うように、私はこういうことを一度も否定したことはありません。
ただ、そのことを所与のまま鵜呑みにして、何ら内省も考察もされないで迎合してしまう心的態度には否定的なだけなのです。
何故ならば、それだと本当に自分自身の問題として、主体的にそのことに関わることがないからです。
神のことも永遠の生命のことも、自分に直接的に感ずるということがない...ということは自分が直接その幸福に与ることがないということと同じでしょう。
第一、特殊な人は別として、誰も生まれた時から自分は神と一つであることを知らないし、前世のことも覚えてないのですよ。
まっさらな状態で生まれて来ているのです!…って、生まれたての赤ちゃんを見てるとそうでもなさそうではあります。
何でそんなに泣いてるの!...赤ちゃんの時のこと覚えてない?
私はうっすらと記憶があります。
とにかく何か知らないけど一大事なんです。大変なんです。どうしたらいいんだああ~、“ンギャア“!
無い!、生きるのにもっとも大事なもの、それが無いと生きられないもの...そのものと切り離されてこの世に出て来ちゃったよう!...どこに行っちゃったんだよう!...と探し求めるのです。
そして両親の顔を見て...それが本当に大事なものなのかどうか分からないのだけれど、そのものと重なるところがあるのでとりあえず安心します。良かった!
本当に人生が良くなるかどうかはこれからのことなのだけど...
本当に命と同じか、あるいはそれ以上に大事なものは、愛、幸福、安らぎと共にあることは、生まれた時から知らされているのです!...覚えてない?
つまり前世とか死後の世界の存在のことは知らないけど、永遠の生命への直観というものはそこにあるのです。
それは、失われたそのもの...命の親としか言いようのないものと共にある!
肉の親は居るけど、命の親との関わりのような直接性は感じられません。
そして、時に親子の関係からズレたものになったり、いずれは離れることにもなります。
命の親から離れて、肉の親とつながり、そこから離れて又つながるのでしょうか?
いや、離れていたのは仮のことで、本当は一度も離れたことは無かったのでしょうか?
神というものは信じたい人間だけが信じていたらいい...本当にそう思いますか?
命の親のことですよ。何で人ごと、人伝えのことなどで済まされるだろうか!(“記憶にありません“、で済むのは、国会の答弁だけではありませんか?)
私やあなた自身の問題でなくて何でしょうか?!...
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皆で遊んだ記憶は無い

2023-11-23 09:51:16 | 回想
今日のような小春日和の休日なんかは、どっかの紅葉の美しい公園で、読書なんかをしてのんびりしたいものです。
決まって子供が楽しそうに遊んでたりします。かわいいですね。
しかし...それが2、3人くらいならともかく、大勢でかくれんぼなんかやりだすと、もうウルサイのなんの!...お邪魔ムシがウジャウジャと!
連中、まったく少人数の時と顔つきが違うぞ!...何かに取り付かれたみたいに!
公園は公共の場なんてことなど全く頭に無いみたいです。小さい子供なんだから無理ないかもしれないけど、もっと大きな中学生くらいの子供でもいっしょでしょう?
集団が人間を変えてしまうようです。
“あんたかて、小さい頃はいっしょだったやろ!“、って...
私は、時々は大勢で遊んだことはありましたが、それが楽しかったとか、そういう思い出は皆目ありません!
とにかく皆で遊んだ記憶というものが無いのです!
どうも、ホントは気が乗らなかったのを無理に誘われたようなケースが多かったようなのです。
集団でやる遊びのルールなど覚えるのもメンドクサイし...
親しい友達、特に女の子と遊んだこと、特に又お医者さんごっこ(!)をした時とかは、楽しい思い出になってますよ。
その顔、表情もはっきり覚えています。だけど、大勢のことになると、全く思い出せません。
集団になると、人間は別の生きものになるみたいです。そこには血の通った人格みたいなものは認められなくなるようです。
学校でも一人一人のことは覚えていますが、それが“生徒“という何か規格化されたようなもので括られると、違うものに化けてしまうのです。
イジメという問題でも、人間が集団化しなければ深刻なことにはならないのではないでしょうか?これは、子供でも大人でも同じでしょう。
一人一人は、他人に迷惑を掛けたり、傷つけるのは良くないことくらい分かっているけど、一人一人が束になると何だってやれちゃうようです。人殺しでも戦争でも...
全体のためなら...全体って何だ?
ごく一部でしかないのに、全体だと思っているだけの自集団からすると、他集団は認められないらしい?...だからそんなものは無くせばいい!
かかる全体主義ほど、より大きなものを見えなくするものは無いのです。
私はどうしたって子供の時から集団には馴染めなかったのです。今に至るも馴染んだ試しがないのです。
大学の頃、宗教集団に入ったことがありましたが、心から馴染んだことは一度もありません。
むしろ、そのことから今書いていることを深く学ばされたのです。
神も集団的思念に覆われると悪魔のようになる!
なんてことはない!...私は子供の時のまま、大きくなってしまっただけのようです。それでいいのか悪いのか?...

小さい小悪魔さんたち、今日はもう少しスピーカーの音量を下げてね!、ベンチに土足で上がっちゃダメだぞ!...僕は残り少ない今年の秋を満喫したいんだから!

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