人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ダサくない埼玉

2019-02-27 12:21:30 | 雑記
「翔んで埼玉」という、埼玉県人をイジる映画が大好評のようです。
埼玉県人は、この映画は観ないだろうと思ってたら、同県がもっとも集客数が高いのだそうです。
埼玉の人はよっぽど自虐趣味の人が多いのでしょうか? 同県の名所、観光地へは決して行かないけど、ここぞとばかりに映画館に集まるって訳ですか? あ、そうか...そもそもあそこにはそういう場所自体が無いんでしたっけね...
海が無い...いや、山だって...秩父のずっと奥へ行かないとそんなん無いi
いつからかここを"ダサイタマ"と呼ばれるようになりました。そうだ、私が周囲から"ダッサイ、ダッサイ"と言われてたころからです。
私が身なりも趣味嗜好も、全く周囲の目など気にしないからそのように見られるらしいです。
だけど、名所何てのは人が、世の中がそう言っているだけで、自分がそう感じない名所などなんだi ってもんじゃないですか?
大体京都とかのそれのように、いつも人がうじゃうじゃ集まって、落ち着かなく、汚く、ゆったり寛げないところなんか名所もヘッタクレもありゃしないじゃありませんか? (唯一"所謂"名所と言っていいとこ「川越」人多いなあ...)

私にはどういう訳か、昔から何気なく北へ赴こうとする習性があります。ずっと中野に住んでいたのですが、気が付いたら北に向かって歩いていた...いつの間にか江古田(ここは昔から練馬区民と中野区民との間で"我が町"争奪戦が繰り広げられている、中野から池袋までの重要な中継地)に来てしまった...何故か池袋(埼玉への重要な入り口)に来てしまった、ってことがザラにありました。
何か北の方に善きこと、懐かしいと感じられるものがあるらしいのです。
この秘密はどうも氷川神社にあるらしいのです。珍しいことに、大宮の氷川神社と浦和の氷川女体神社という二社が旧武蔵国一宮になっているですが、何度か訪れているうちにそんなことが過ったのです。
氷川神社というのは、東京(江戸)を含む武蔵の国の象徴とも言えます。そこは"むさしのの社(もり)"なのです。練馬や板橋、中野に特に多い氷川神社のルーツは埼玉にあったのです。
あの映画ではまるで埼玉は、東京の属国のように画かれているようですが、とんでもない話ですi
"むさしの"、自然と人間の営みとの共存...この響きは東京人の憧憬を呼び起こさずにおれません。
その風情は東京からはほとんど失われてしまいましたが、埼玉には至るところに残されているのです。そこにはうじゃうじゃ人は居ない...何しろ人気が無いんですからね...いいや、知られていないだけですi
皮相なことしか見ようとせず、浮かれてばっかりの"ヨソ"の人間は知らなくてもいいのですi それでこそ、私はゆったりあの風情を満喫出来ようというもの...
東京から横浜、湘南方面への電車は、朝などどこでも殺人的混雑ぶりだけど、北に向かう電車はあっちの半分以下じゃないでしょうか、ゆったり出来ます。
車でも連休期間でも多摩川の向こうと違って、大渋滞に巻き込まれたことなど一度もありません。
ホントに人が居ないのか、やはり人気が無いんだろうか?
県道は走りやすく、何と言ってもファミレスが充実している。
特に東浦和駅から北へ向かう県道沿いがいい。中でもバス停芝原1丁目近くにある、都内ではあまり見当たらないウドンの「久兵衛屋」が嬉しい。
この前の交差点を東にいくと見沼代用水にぶつかり、さらに北へ少し行くと私の名所、氷川女体神社があるのですが...別にどおってこたないから行かないでもいいと思いますよ。
私の名所なんです。人気が出て、うじゃうじゃ人が来たらイヤですからi
埼玉の人だったら分かりますよね。自分たちの名所がきっとあるんでしょう。ヨソもんには近寄れない聖域が...
だから、ずっと人気の無い県のままでいいのでしょう。そうです。そのままがいいのですi
したたかなダサイタマ人...
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聖霊

2019-02-26 12:26:08 | スピリチュアル
聖霊...

おかしな言い方ですが、私にはこの言葉を思い浮かべるだけで、言葉を超えたものが伝わってきます。
聖なる霊...これに与ることは聖なるものと共にあるということです。
聖霊とは私にとりスピリチュアリティの代名詞です。
あれもスピ、これもスピ...いっしょくた...
いいや、ことはスピリチュアリティ、霊性のことなのであるi
聖霊無くして何処にスピリチュアルなものなど見い出せようか...
神とは何ぞや、真理とは、霊とは...これこれについていくら考え、挙げつらっていてもちっとも霊性のことは分からず、伝わりません。
聖霊あるところ思いは超えられている...不毛な議論はやむしかありません。
聖霊は多くキリスト教世界で言い伝えられてきたのは確かなことです。
悪霊、背後霊、因縁霊...
聖霊は雑多な、諸々の霊の消息とは直接関係ありません。
それは、諸々の思念に由来する霊の事態とは異なるもの...思念を超えてハタラクものだから...
キリスト教は、聖霊をそうしたものと区別し、純粋にその思念を超えた霊なるハタラキを伝えてきたと言えます。
しかし、それはそういう決められた領域だけにハタラクものではありません。
キリスト教の"キ"の字も知らず、聖書を読んだことが無くとも、その恩恵は臨みます。
何教だとか、すべての相対次元を超えているものだから...
思われた自分を変えようと、様々な教えを信じ、行法に取り組んだりします。
しかし、いくら続けても中々シックリこない、信じきれない、上手くいかない...
"こうしなければ"...それでも無理にそれに合わそうと、いつまでも戦いは終わらない...
聖霊が臨む時、信じるも何も無い、行も何も無い...
いつの間にか、かく思われた自分は変えられてしまったではないかi
この行き先の見えない、ガンジガラメの相対地獄にあって、元より超えられたものに会わずして我々はどうにもならないではありませんか?
故にキリスト教では聖霊を"助け主"と呼んできたのです。
本当に苦しい時、シンドイ時、危急存亡の時、洋の東西を問わず人は、"オーマイガッi"、"助けて下さいi"となるではありませんか?
聖霊とは、神、現臨、ガイダンスなどの別名なのです。
"自分の力だけで何とかなる教"の人は、多分ホントの苦難の味を知らない幸福な人なのかもしれません。
しかし、これほど不幸な人も居ないとも言えるでしょう。自分の力、思いを超えたところにホントの幸福があるのですから...
自分の限界を思い知らされた人間に聖霊への望みが開かれるでしょう。
聖霊を切に望む人間には、聖霊の方がほっとかないでしょう。
聖霊の方が我々をつなげようとしている...聖霊の方が我々を求めているのですから...
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不思議なブログ

2019-02-25 11:24:21 | 雑感
最近はこうしてブログを書いてる最中にも、あのジンジンと意識の渦へと誘われてくる感じになり、筋道立てて書くことが難しくなることしばしばです。
始めた当初は、全くそんな感じではなかったのです。
実は8年ほど前、右足を複雑骨折するという、生涯最大の重傷を負ってしまい、その三ヶ月半ばかしの入院の間に、ここで書いているような"意識が向いたらパッと..."となる感じも大分鈍ってしまっていたのです。
体力が著しく減退してしまったのですが、あの感じというのは、意識の面ばかりでなく、体力面でもある種のエネルギー的なものの感受があり、例えば疲れた時とかすぐに体力、気力共に快復したりしたものです。
このことからあのハタラキ、エネルギー的なものは、生命エネルギー、東洋で"気"と呼ばれるものと通じているものと勝手に思っていたのでした。
思っていた、ということはどうも必ずしもそうではないらしいと今は思っているのです。
体力、気力もま、年も年だけに低下してるのですが、ここ最近の耳鳴り"キンキン"、心身が"ジンジン"はどうしたものか?といつも感じている次第なのです。
何でそうなるかは、こうして書いててハッキリ分かります。
ブログを始めた頃、中々あの自動スイッチが作動しない中、深く考えるでもなく、あの摩訶不思議な、"意識を向ける、向いちゃうだけで、思いを超えたものが立ち上がってくる"と書いてみよう、何てノリで書いたりしていました。
その後も何回となく書き続けているうち、いつのまにかこんな風になってしまったのです。何とも不思議なブログではあります。
一つの契機としては平成14年暮、思いがけなく現臨に捉えられた(ある種の法悦状態をこう呼んでいます)ことが大きかったと思います。
これらは、このブログを書いていなければ決して起こり得なかったでしょう。
この読み人知らずみたいなマニアックなブログにも拘らず、そこそこの反響も増加してきているのはどういう訳か分かりませんが、このように私自身のために書いている側面があるのです。
"あの現臨、見えざる導きを文章にして表してみよう..."これはどうしても意識があっちに向かわざるを得ないことです。
そして向かうことであの御方が召喚される...これは全く自明なことです。
さらに、私のこの思いの奥には、私であって私でないもの、より大いなるものの意志も"じわーっ"とこんな感じで伝わってきます。
"そうだ、私のことを表すんだi 私はだんだん顕わになる..."
この思いを超えた導きは、単なる生命エネルギーというもので言い尽くされてしまうものではありません。
生命には違いないですが、愛、平安、リアリティ...如何なる言葉でも到底言い表すことなど出来ません。(最近では、何か途方もないもののように感じています)
私はいつまでも自分の体力、気力を充実させるためにこのブログを書いている訳ではないのです。
すべては"あの御方の御顕れ"のためです。それが私の喜びであることに他なりません。
すると自分の奥から響いてきます。
"そうだ、それでいいi お前が嬉しければ私も嬉しいi"
読者にあっても、何か感ずるものがあれば私も...あなたも嬉しい?
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究極の教え皆伝

2019-02-22 12:11:01 | 求道、探究
私はブログを始めてかれこれ5年になろうとしています。
スピ、宗教、哲学などの関連で随分様々なことを書いてきました。
しかし...今日ここで伝えること以外のものは、すべて忘れてしまって構いませんi
何しろ、これ以上のものは無い、究極の教えをここに降ろそうとしているのですから...
これは我が究極のマスター直伝のもので、空前絶後のものであるのは言うまでもありません。
ああ、もう余計な前フリはよそう...
本チャンは今ここに開示するのですi いや、もう冗談でなくホントに"ジンジン"来た、来た~
気を失わないうちにサッサと書かねば...
それは...
我々がこれまで幸福、愛、平安、真理を求めて幾多もの教えを学び、信じ、行じてきたけれど、本当にそれらをもたらすのは、その教え、信仰、行法自体にある訳じゃないということです。
せいぜい、そういうものに触れて"何だかラクになった、救われた気がしてきた"、"何だか分からんが分かったつもりになった"、という程度ではないでしょうか? それを何回も飽きずに繰り返しているだけ...
それでウハ、ウハ喜んでいるのは商魂だくましいスピ商人、宗教屋だけ...
ホントにあらゆる教え、信仰、修行というのは、前フリだけで終わり、それを繰り返しているだけではないでしょうか?
"今日もいい教えを有り難うございます。次回も宜しく..."なんて、教え、信仰、修行などは何度も反復されるばかりの出がらしみたいなものじゃありませんか?
そうです。愛、真理をもたらすのは、神的なもの、そのものなのです。
人間なり、言葉なりが媒体となることはあっても、それは言うまでもなく、そのものあってのものなのです。
そして、そのものにある時、求めていた愛、平安、真理というものはそのもののうちにあるということが知られるでしょう。
すると..."んなもん、分かってらあ"ってことになりますか?
それはまさに...いつもいつも教えにしてしまっている人の心根を言い表しているだけです。
前フリだけで分かったつもり、満足しているだけで、本チャンに与ろうという気の無い人間の言い分に過ぎません。
リアルに神的なものが臨んだら、"いつもの..."ということで済むハズが無いのですi 繰り返しが効かないのです。
何回かその訪れはあるかもしれませんが、その一回、一回は常に新しい一回きりのものです。
出がらし、借り(仮)もので満足しちゃう人には与りしれるものじゃありません。
これは何よりも他人事じゃないのです。いつもツベコベ言いたがる自分がドッカと居座り、評論家気取りの、傍観ばかりしてる人間、これを望まない人間には決して開かれないのです。
こういうことが何かの教えになってしまったなら、あなたも私も世界も永久に救われないでしょう。
だから...私はエラそうに教えを垂れるつもりもないし、このブログにそういうものを感じているようでしたら、サッサと忘れて下さい。
究極の教えはあなたのマスターからもたらされる...

って、いつも書いてる気もするが...いつものことにしてしまうか、一回きりのものになるかは、ここからが肝心...
ああ、もうジンジン...今日はオシマイi


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出来るもの、出て来るもの

2019-02-21 12:03:49 | 詩的文章
"男というものは無闇に泣くもんじゃない"

ああ、何て不幸な境遇に生まれてきてしまったのだろう...
ガマン、ガマン...我と慢心しか残りそうにない
自分の力で何とか出来ることほど不幸なことは無い
力の及ばないものに任せることほど幸福なことは無い
不幸な男だけだったらこの世はとっくに終わっている
女無しでは決して天国は開かれないだろう

一体何を強がってんだろう
"出来る、デキルんだから"...って、もう分かったよi
出て来るものなしに、何も出来やしないのに...
やせ我慢しちゃって...
雀の涙にも値しないよな自尊心
にゃんこの"くれ、くれ"鳴き攻撃でもくらえi

出来んものはでけん
分からんもんは分からん
信じられんもんは信じられん
強がり、フリ、ポーズ...
一切の作為は、出て行くしかない
作為...どうこうしようとか、何かになろうとか...
考え方を変えようとか、信じようとか...
取って付けたものは、剥がれることになっている

出て来るものは、元々ある
出て来んでも...涙のように...出てきちゃうのであるi
信じようとしなくても、とっくにそこにある
分からなくても、とっくに知られている
為そうとしなくても、とっくに成っている
何もしなくていい?
しようとしなくても、ジッとしてなど居られやしないi
この前には春の嵐のように、誰にも止められやしないi






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