人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

惹かれてやまないもの

2016-08-30 12:25:42 | 
人は一人一人違うし、その人の歩む道もそれぞれです。
それぞれの機根とか縁というものは決して疎かに出来ないものです。
道を歩むにあたっては、まず自分自身の持って生まれた性質、性向といったものを知ることが大切ですね。機根、縁というと、それだけで雲を掴むような話みたいですけど、実にシンプルに考えたらいいでしょう。
その道に赴くことが、理屈抜きに惹かれてやまないものが有る、単純に好きである、といった感じでいいと思います。
霊能者なんかに頼って”あなたの前世は…とかカルマは…”なんてこと聞かされたら、よけい迷路に入りそうです。大体、そうした託宣に接した時なんか”そうそう、私もそう思っていました…”と感じたりするものです(笑)…だったら、最初から自分を信じたらいいって事ですよね。
この理屈抜きという事…如何に多くの人が理屈にハマって迷いの淵をさまよい続けていることでしょう。
宗教、スピ界にはびこる煌びやかな言葉の数々…”こうすればあなたは必ず悟れる…”、”究極の真理はこれっきゃない…”、そう言う教師は”神人合一、究極の悟達者…”
こうした文句に、よく考慮せずに短絡的に飛びついてしまう人というのも居ますが、単なる表された言葉だけに反応して、観念的に分かったつもりになってしまうのです。頭の中で神と一つになろうと、苦境から救われようと、”この人はスゴイ!”と思おうと自由ですが、観念的な世界はどこまでも観念であり、現実は思い描いた通りではありません。
書物に関してですが、私の愛読書の一つ「日月神示」というのは、実に予言と結び付けられた真釈、正釈という関連本が後を絶たないですが、予言というのはあくまでも、伝えられるべき事項内容の一つで、どう読み、どう理解すべきかは各人の自由です。
仮にその予言というものがことごとく眉唾ものだったらどうでしょう。”日月神示は信用するに足らず”ということになるでしょうか?
これは、その人には縁が無いということなんでしょうけど、私はこの種のつぶやきというのを何度か耳にしました。
こういう人というのは自分のこうであるべき理屈を押したて、その枠内で(この例では)予言などの話ばかり追いかけていて、何時まで経っても自分の機根も分からず、自分の道が何なのかも分からずじまいです。要するに思念に捉われているのです。そして自分を信頼してません。
日月神示に限らず聖書でもどんな聖典でも、理屈をサラリと捨てて、生まれ赤子のような心根を持つことを強調しているにも拘らず…。
私にとり、その書物に何が書かれているか、知識を覚えたりするのは全く二の次、三の次です。
第一義は、理屈を超えたものに触れる、という事に有ります。こういうのは、昂揚感と共に引き付けられるものが自然と芽生えたのです。
”如何に高遠な教えであっても、頭では”高い次元”といった自尊心をくすぐることがチラついてはいても、どうしても身が頷かない、フに落ちない、気分が向かない…何の訳にも立ちそうにないが、どうしてもその道に惹かれてしまう…”
身が頷かないことを何時までしていてもツカレるだけです。
又、何故、惹かれてやまないものが有るのか、と言ったら、そこに愛がハタラいているからです。
愛とは二つのものを引き合わせ、結びつける力です。
それは一方通行のものでなく、向こうからもラブコールのようなものがある、ということでしょう。
だからこそ、引き付けてやまないものが有るのです。
理屈や実利的な事に捉われている人は肝心なことに気が付きません。
理屈抜きに惹かれてやまないことにある時、幸福、安らぎに有る、という事が…
こういう事は改めて言うまでも無く、好きなことしている人には理屈抜きに分るものでしょう。
先の例でも、短絡的な性向の人というのも、それなりの縁でそうしているまでなのでしょうけど、理屈や観念的なものでホントに満足できるものなのか…ホントにそれが自分にとって最善のものなのか、どうか自らの内なる共鳴盤に照らしてみる必要があります。
言い換えると自分の理屈、道理…諸々の思いを離して、思いを超えたものに委ねる、ということです。
それこそが、自分の惹かれてやまないものの、よって来る源なのです。
そして、それは既に観念、思考を超えたものに触れている、という事でもあります。
こうしたものに根差した生き方こそ、自分の魂にウソをつかない、誤魔化さない生き方と言えるでしょう。







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因縁と風

2016-08-28 05:38:21 | スピリチュアル
誰でも、気になってしょうがない人っているものですね。
自分は意識しているつもりは無いのだけれど、なぜか気になる…それが異性で、胸キュンするようだったら、”恋しちゃったのかも”…という事になりますが、ここで触れようとしているのは、もっと重い方…自分のネガティブな感情を呼び覚まさずに居れないような人間関係に関することです。
”アイツの事は考えるだけで虫唾が走る…”自分の世界から消え去って欲しい、と思っていても、知らず知らずにその世界の憎むべき敵として、自分で居座らせていたりします。
そしてその言動に接すると何かと因縁をつけてやりたくなります。
という事は自分とその人間には因縁が有るという事なのです。
相手は自分の事をどう感じているかは分からないのですが(そう感じるかどうかは感受性の強さにもよります)、とにかく”オノレー…”というのが有れば、悪因縁が表に顕れている、という事です。そして、それは全くもって己の問題です。
この問題を見えにくくしているのは、内心その相手の事が脳裏から離れないでいるにも関わらず、表面的思いでは”あんなバカと俺とは関係ない!…あんなヤツあ、さっさと消えちゃえばいいんだ!…”と無視しよう、排除しよう、つまり問題をフタ閉めさせてしまうところにあります。
フタの中でたまり積もった問題を別の誰かにぶつけたりして、悪因縁は連鎖します。
そしていつまでもいつまでも、自分の心の底に問題はくすぶり続け、ネガティブな感情はますます増殖して行ってしまうのです。
さらには、宗教とかスピとかをかじっている人は、”ネガティブな感情を出してちゃ、イケナイ…自分はそんな低次元に、クダラナイ事にとどまってちゃならないんだ…”
と、色々もっともらしく案じたりはしますが、ずっと問題は複雑になってフタ閉めされたままです。
これが、ホントに低次元、クダラナイ事だと思いますか?…だったらあなたの力、魔法でさっさと片付けりゃいいでしょ!
私はつくづく思います、ホントに悟った人(というのが居るとすれば)というのは、そういう事に縁の無い人じゃなく、その問題に深く向き合える人だ、と。
大概の人は、因縁の相手を無視したり、問題が無いようなフリをして、強がりをしたがるものですが、自分の弱さ、限界に向き合える、という事はホントにホントに強いことだと思います。
だからと言って、私は”高次元を目指しているあなたは、あなたの宿業にシッカリ、向き合いましょうね…”などと自分が出来もしない、キレイ事など言うつもりはありません!
人間の業に向き合うというのは、多分人間業では無いのでしょう。それは神業みたいなものです。
神的な愛というもの無しには、不可能でしょう。それは私やあなたの愛では無い!…愛は全ての思いを超えてハタラクものです。
それは、むせかえるような暑く淀んだ外気に、一陣の涼風が心地よさを運んでくれるようなものです。
限界ある自分からどうこうしようとするより、祈りなどを通じて愛のハタラキを呼び込むことが先決なのです。(それには決まった形など無く、憎ッくき因縁の相手をこの際徹底的に心の中で罵倒する、というのも効果が有るかもしれません。だがそれよりもそれを神にぶつけた方が私はいいと思います。普段は神に向けてるつもりのものが、ホントに向いちゃったりします!向くと風向きが変わります。…ま、高次元に居る人はやらないでしょうが…)
このあらゆるネガティブな因縁があふれ、暴風のように猛威をふるっている現代世界の中で、高遠なる真理を学んだり、より高い次元を目差して修行したり、平和運動に挺身したりすることよりも、我々一人一人の悪因縁が愛で溶かされることの方が、どれだけその歯止めになるか、計り知れないものが有ります。
悪因縁は、この世に生き地獄をもたらすものです。
だが、そこに愛のハタラキが介入するとき、まるで奇跡のように地上天国の種となるものです。
どんなに些細に見える人間関係でも、天国と地獄の分かれ目となります。そこに仮初のものなど一切無いのです。
私自身全く他人事でなく、ここのところの風向きにあって、感ずることが有る次第なのです…。











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…のようなもの

2016-08-26 20:01:59 | 詩的文章
人間は人間のことが分からない
人間の…ようなものが人間しているだけ
宇宙も宇宙のようなもの
世界も世界のようなもの
確たるものが無い世界で、何かが確立されたことなどあっただろうか?
定説?…それは何時の定説なのか?…

誰かが悪いように見える、おバカのように見える…
何だか分からないが、ブキミに息づいている自分のある部分の投影…
分からない、見たくないものは、レッテルを張って分かり易く、見やすくするに限る
悪とかバカとかヘンなヤツとか…
神サマのように見える人間も色々飾って、崇めたてる
罪深く、出来の悪い自分に隠れ、フタ閉めされたある部分の投影…

神は善、サタンは悪…
善なる神はあなたの世界の平安を約束するのだろうか?
地獄の魔王はあなたの世界を終わりにするのだろうか?
神のようなものに支配されたいのだろうか?
それとも悪魔のようなものにそそのかされて反逆したいのだろうか?
あなたの世界の王様…
あなたの天地事始め以来、築き上げられてきた王国
だが、その安全、秩序を乱し、規格外のことを持ち込むアウトローが忍び寄る…
あなたの王国は、闇に覆われるかも知れない
長夜の夢も破られるかも知れない
夢見のままか、夢の終わりか…
天国か地獄か…

自分自身も世界も何だか分からない
灼熱の大地に移る蜃気楼のようなもの
それも空が闇に包まれると共に消えてしまう
そして満点の空に無数の星くず…
目を閉じれば、闇と光の織りなす、千変万化する宇宙パノラマ…
内も外も合わせ鏡のよう…
一筋の流れ星が、この…のようなものを射抜いた
あんなものが、こんなものになった…





























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おツカレさんでした

2016-08-22 15:12:13 | 雑感
今日は台風接近につき仕事休みです…
トリプル台風なんて聞いたことが無いですが…
リオ五輪も無事閉幕…
とにかくアスリートの皆さんには「お疲れさまでした」と言いたいです。
男子体操の白井選手は金メダルを獲得して「人生で一番幸福だった」と、全くヒネリの無い、ストレートな感想を言い表していました。
私は勿論アスリートとは全く縁が無く、これまでの人生でこれを達成したことで、とか何かを行ったことで幸福感を持ったということは…
皆無です!
何時の頃から幸福というのは、ずっと与えられるもの、与えられているものと感じるようになりましたが、それは私がそもそも何も取り柄のない、無能な人間だったからこそ、そう感じるだけなのかも知れません。
何にせよ、私がとても叶いそうにない超人の夢を見させてくれるのでしょう。
何にも出来ない人間でも、眠い目をこすりながら、観て楽しめばいいだけです。
ただ、ある意味一番ウナらされたのは、これでしたが…
「お腹が減らなければ、お腹がいっぱいにならない」「銅も金も同じ…銅を分解したら金と同じになるでしょ…」
五輪史上最高の二大名言じゃないですか!…ベソかき健在の愛ちゃんはオフでは賢者だった?…ウーム…これはヒネリが効いていますねえ…

このオリンピックにも裏が有り、陰謀も混在しているとか、何とか…こうアレコレ思い巡らしている人は気の毒にも、そういうことなど全く気にしないフツーの人と違って、素直に楽しめばいいだけのことに楽しむことが出来ません。
何らかの思念に捉われる事はヒネリというものでなく、心がヒネくれているので、ストレートな感動でも、思念でヘンなストーりーに作り替えられてしまうのです。

”都会には、低次元の、悪い波動がいっぱいなので出向かない…”
”うっかり、野外で瞑想したりすると、幽界の生物にやられるので、OOテープをかけなければならない…”
マック、コカ・コーラ、ポップコーン…ああ、アメリカン・メーソンに体がむしばまれる…”
牛乳、石鹸、化学繊維…NGがいっぱい!…勿論べジタブルを推奨、いっそのこと不食!…信州とか高次元な土地へ行かなきゃ…”
何をしても、どこへ行っても思念に捉われ続けるだけなのに…

全くもって人の好き好きですが、フツーの人は自分の好き嫌いについていちいち、ネットで発信したりしません!
肉が、牛乳が嫌いな人は、そんなことが特別な事とはこれっぽちも思ってやしないのです。
それが好きで摂取していた人でどうにかなった人、何人いるのですか?
どうかしてるような妄言の類なら接することはあっても…
私だって、アイスクリームやゆであずきが体に悪いことぐらい知っています。(このコラボが最高なんです)
でもついつい食べてしまうのは…好きだから…決まってるでしょ。
自分が何時までも何かの思念に捉われるのは(おそらく本人が好きだからなのでしょうが)、全く勝手ですが、その思念をあまり拡散して欲しくは無い…とも感じますが、たまに見てるとバカバカしくて面白かったりもします。(こういう私もきっとどうかしてるんでしょう)
世界を斜めに見る事が賢明なように思えても、その実コッケイに思えたりもするものです。
大真面目に何かに捉われていて、とてもおツカレに見えるのです。
素直に楽しむべきことに楽しまないと、ただでさえツカレる浮世なんですから…

ところで…
金…タカマツペアのマツさん
銀…シンクロの3井さん
銅…賢者愛ちゃん
大本命、新体操の畠Oさんは惜しくもメダルに届かず!
以上、オリンピックの裏のもう一つの熾烈な戦い、女子メダリストの私的OO選手権でした!
(ヒマなんです。明日から仕事…ツカレます…)

















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伊賀の影丸ー七つの影法師の巻ー

2016-08-21 13:58:20 | 回想
リオ・オリンピックもずっと日本勢への追い風が吹いたまま、終ろうとしていますね。
団体戦は勿論ですが、格闘技などの個人戦でも、そこに日本チームとしての団結というものを強く感じさせるものが有りました。
私に初めて、この団体としての戦いの面白さを覚えたのはマンガからでした。
私の好奇心と驚きに満ちた世界が一気に開花した昭和39年、「鉄腕アトム」「鉄人28号」といったロボットマンガと並んで、その世界を彩っていたのは、「鉄人」と同じく横山光輝作の忍者マンガの傑作「伊賀の影丸」です。
確か夢中になってこれを読んでいたのは、その年の夏から秋にかけてだったと思います。
このマンガが如何に後代の作品に影響を与えたか?
例えば大ヒットした、ゆでたまご作「キン肉マン」。この人気に火が付いたのは、数々の超人たちが秘術、必殺技(言うまでも無くプロレスからの影響が濃厚)を引っ提げて、善玉、悪玉に分かれての選抜超人による集団バトルだったのではないでしょうか?
これ以前の車田正美作「リングにかけろ!」には、「キン肉マン」への影響も感じられますが、この作品自体、「影丸」へのオマージュともとれるところが随所に見られます。
最初は普通のボクシングのスポ魂路線だったものが、黄金のジュニアを結成してからというもの、ただのボクサーから超人へと進化してしまい、(ギャラクティカ・マグナムなる必殺ブローが炸裂するとリングにクレーターが出来る!)世界選手権を賭けて、各国の超人ボクサー選抜(決勝ではついに神々と相まみえるに至った!)との対決など、すっかり団体対抗バトルの様相を帯びてきました。
こうした超人たちによる団体対抗戦というのはこの「伊賀の影丸」を抜きにしては語ることが出来ません。(「OOここに参上!」という超人登場の際の口上もお馴染みですね)
ことにその「七つの影法師の巻」は、討幕を目論む薩摩からの刺客、七つの影法師の挑戦を受けて立った影丸ら公儀隠密の選抜七人衆との、それはもう壮絶な両陣、秘術を尽くしての戦いに焦点を当てたもので、私には一際印象に残っているのです。
それが如何に壮絶を極めたか…瀕死の重傷を負った影丸しか生き残らなかったのです!(「リンかけ」の日本ジュニアの全員奇跡の無敗の快進撃のようにはとても行きませぬ…)
決闘のあるべき形は、それぞれの個性、秘術を見せなければならない関係上、基本一対一であるのが原則(先陣を切って登場した影法師の一人など戦う前に絶命してしまいましたが…その「夜霧丸」の顔も術も分からずじまい…)で、相手方が全滅するまで雌雄を決することは無いのです。
私は昔から主人公に対しては、ほとんど思い入れが無く同僚のイケメン忍者(剣士といういでたちですが)催眠術の名手「夢麿」の大ファンなのでした。
これがなかなか強い…。同じ催眠術使いの「死神」との屋根上での同術対決を制した場面は見ごたえがありましたし、「雪風」の毒チョウを操る術も逆操作し、最後は奥の手?の変わり身の術で敗り去ります。火炎術の使い手「魔風」もいったんはその術でロボット同然にして敵方を攪乱することに成功しますが…。隠密側として深手を負って静養を余儀なくされた影丸と共に生き残り、影法師の最後の一人と対決する事になりますが、その相手こそ因縁の魔風なのでした。魔風の放った火炎陣の中で、得意の催眠術を掛けたのは、鏡に映った自分自身だった…術に溺れて自らに刃を向けてしまうのでした…。
こうなると、敗北濃厚の危機に立たされて影丸が取った作戦は、”火には火を…”火薬を巧みに敵陣に撒いておく、火炎返し?で魔風の術を封じ、奥の手の”毒木の葉の術”(影丸の代名詞ともいうべき”木の葉隠れの術”というのは、なんてことは無い木の葉で相手を眩惑して、”ドロン”するだけのものですが、影丸は本来無益な殺生を好まないのです)で辛うじて勝利をおさめたのでした。
このように、この作品には随所に相手の秘術を逆利用する、というカウンター攻撃の妙が見られるのです。
そして”同じ手は食わない…倍返しだ(実に懐かしい)!”リベンジの情念も…(魔風の火炎術で顔面が焼けただれてしまい、復讐の鬼と化した「天鬼」…最後は「幽鬼」と凄絶な相討ちで果てる…)
それにしても7対7という分かり易く、正々堂々とした戦いは実にスリル満点でした。
もっとも、オヤジに言わせると、「そんなスポーツ選手みたいな忍者なんている訳無い!…より多く人数をそろえ、いかに相手の裏をかくかで勝負は決まるのだよ!」とまるで、夢を一瞬にして消し去るような忍術まがいの言葉で私の頭を攪乱させるのでした。
東京オリンピックが開催されたのは、それから間もなくのことです。(昔のように秋にした方が私はいいと思うのですが…)








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