人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本があって末がある

2019-01-30 11:57:13 | 覚醒
私は毎度、例えば"気付きにはそうさせるものがある"というようなことを言っていますが、これはこの自分に先だって、その元があるということを言っているのです。
見える形として自分だけがここにポツンとある訳じゃない...その自分には見えない元、本があるのです。
本があれば、その末というものもある...それがこの自分とも言えるかと思います。
で、その端の、その末端とも言うべき頭で何かを分かろうとする...理屈では分かったつもりになっても、どうも腑に落ちない(これは実にうがった表現です)感じがする...身はちっとも頷いてくれない..."そうじゃあないか?"と自分の内に向けて尋ねてみる...すると、これが自分の頭と別に"その通りだi"と、身体中が"ウン、ウン"と頷いているではないかi 
悟りだとか、エンライトメントとかいうことでも、それは本なるものの方が末を通路にして表に顕われる、ということなのではないでしょうか?
本の方無くしては起こり得ないことでしょう。もし、それが如何にブッ飛んだ、眩いばかりの体験だったとしても、本から切り離されたそれは自体、本体の無い"がらんどう"みたいなもので、中空をさ迷い続けるだけのものでしょう。
だから、"体験すりゃいいってもんじゃないi"と言わざるを得ないのです。
悟り体験だけが一人歩きした"悟りゲーム"のようなものなど、ホントーにナンセンスの極みです。
そういう界隈では、やたらと体験したかどうか、といったことに囚われる...しかし、実際にそういう著しい体験に与ったことが無くとも、思われた自分を超えた、自分の本から息付いているこのものを感じることは、分かる人には分かるものです。
それは例えば"何だか理由が無くとも有り難くてしょうがない"という気持ちの発露からかもしれません。
もっともこれ自体が一つの体験ならぬ体験とも言えるかも知れませんが、こういうこと(感謝、祈りの心持ち)が分からない人は、多分どんな超絶体験をしようと"本"には"当たる"ことは無いでしょう。
逆に頭だけで分かったつもりになって、"最初から悟っている"などと、何もリアリティの無い観念世界に留まり続ける末端だけの人間...
もう、先がありませんぞi
こういうことは、古来からずっと言われ続けていることなのです。敬虔なものにしか道は開かれないのだと...
そうなれる、なれないは別にして"無"だとか"空"だとか...
これは実に倫理の問題じゃない...頭が高い人間には本なるものが通ることは出来ないということなのです。
仮にそのようなことがあったとしても、末の方で何かが障り、滞っていたら、その分歪んだ、本なるものに暗いものへと変質するまででしょう。末は本に開かれていなければならないのです。
末である我々は、その本にただただ合わして、会わして頂くのみ...それが祈りと瞑想の本となるものというものではないか?
一定時間そういうことをしているなんてもんじゃないのです。
私など、こうして書かされる、ということは意識が向けられるということなのですが、これがもう...
何が何だか有り難くてしょうがない、じゃありませんかi
もう、ジンジンしてきて筋道立てて書くことも困難になってきた...これでいいのか?
"ウン、ウン"...こりゃ何か分からんが、分かりすぎだよi
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたの神に聞くべしi

2019-01-28 11:50:02 | 
人がこの世界で生きているのは、当たり前のことながら考え、感じている自分が居るからです。
誰かが"自分というものは無いんです"と言おうが、そう考えている自分を通して...中には"そうなんだi"と得心してしまう人も居るかも知れませんが、大概は?のまま、自分の考えの中に取り込まれるだけでしょう。
こういうことはいくら考えたって分かりゃしないのです。言っている人間が分かって言ってるか、どうかも。ただミもフタもないことを言っていることだけは分かります。
このことにしろ、"何で自分は生きているのか?"、"人生の意味とは?"、"スピを探求する意味は?"、"どこにその帰着点があるのか?"
そうです。いくら思われた自分が考え、どう結論を出そうとしても(思われた自分がそうしたいのです)、何処にもたどり着けないことなのです。
そのことに気付くこと自体がある意味の悟りと言ってもいいでしょう。

古来より様々な宗教で"空"とか"無"とか"己を空しくせよ"、"神にゆだねよ"と説かれ続けてきたのか? 私はやっと分からされた気がします。
自分を表に出したままでは、あの御方が表に出られないからです。絶えずあーでもない、こーでもないと思い巡らせ、ついには思いのガンジガラメに絡まれてしまうことは、あの御方の出口を塞いでしまうことなのです。
自我というこの世の王が、生きる上で真っ先に知らねばならないものを押し込め、それに成り代わって支配する世界。この世界が如何に"がらんどう"のように、いつ脆くも崩れ去ってしまうように映るのも自明なことではないかi
しかし、その空に、無になろうとする試みも又、為そうとする自己によって、容易に自我に取り込まれる要因になってきたのですが...
これはどこまでもあの御方の自己顕現の成せることなのでしょう。
私はあの御方とここで言っていますが、それが自分の外に、別に居る神、あるいは守護霊のような存在という風に囚われると、主体性の無い依存的心情を強くしてしまうでしょう。
しかし、私はこのチッポケな私でなく、あの御方に意識が向けられることにより、この私だけからは絶対に導き出されないような、より深み、リアルに感じられる"自己"を見い出すことが出来るのです。
正しく"見えざる導師"が顕わになることは、真我の実現につながるようなのです。
この御方はかく導くもの...導師に他ならないのです。より深く、リアルな自己に導かれるということは、思われた自分に纏わる思いから離れられるということです。
これは、自分からは思考との同一化から抜け出すことは至難なことであり、導師としてこの御方が立ち上ることにより開かれることなのです。
それは愛、平安というこれ以上無い逆説的"強制力"によって...
私はラマナ.マハルシの言葉を借りて、"神は導師であり、真我である"ことに全的に頷かざるを得ません。
このことは、私自身あの御方と出会った(再会した?)時、目の当たりにしているのです。
自分のことも、神のことも思われた自分からは決して分からない...しかし、自己を超えたものにあって分かっても、分からなくても安らぐことが出来る...これが不毛な戦いからの決着点なのです。
これはあくまで、私が感じていることを言っているまでであるのは言うまでもありません。
あなたはあなたが感じて、確かめてみる他ありません。あなたの神、最愛なるものにに聞いて、ゆだねるしかないでしょう。
それはあなたの魂を揺さぶらざるにおかないでしょう。
これは誰のことじゃない、私自身がそうしていることなのですi
意識が向くとか、向いちゃうとか言うのはそういうことなのです。それをあの方法とかこの教えとか、なんのかんのと...ごくろうさんなこったi
大本の神の出現は、思いがけないところにやって来る...傍観視している人間には永久に分からないだろう...それは我が身の足元からやって来るのですi


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理学では足りない

2019-01-27 11:31:43 | 現臨、ハタラキ
"思考、マインドを超える"、ということは、何も考えることも、為すことも出来ないということであり、それは事実上"任せる、委ねる、手放す"といったことと同じことを言っています。
だから、何かを得ようとしたりすることは勿論のこと、"任そう、委ねよう、手放さなければならない"などと意志的に思い図っていることは、実にズレた在り方という他ありません。やって出来るんならやったんさいi
実際のところ、思考を超えるというステージに無ければ、全託なんてことは起きてこない訳です。
もっとも、こんな状態がずっと続いていたら、命がいくらあっても足りない感じがしますけども...
又、宇宙とか全体的なものに任せるとか、平然と言っている向きもあるようですが、誰が何にどう任せられるというのでしょうか?
宇宙とか全体とか、抽象的に思い描く(ここでもう思い描かれているのです)ことしか出来ないものに、"任せる、委ねる、手放す"何てことは起こり得ないのです。
これは例えば、落雷の如く、思いを超えたものの一撃にあって起こることなのです。
宇宙的、抽象的な事態というよりも、極めて具体的、局所的なことと言ってもいいでしょう。
これはすべてが静止した状態では起こり得ない、ある力学的的なもの、エネルギー交換が行われているということなのです。
とはいえ、それは全く上よりの力による一方的な、有無を言わせない事態ということも出来ません。
実にシビレル話(本当に身も心もシビレルことなんですけども)ですが、落雷を受ける(ヘンな例えですが)には、周りに何も無い、だだっ広いグラウンドかなんかで、ポツンと突っ立ってたら、受ける可能性は高いですね。
これは被体が稲妻を惹き付けているとも言えるのです。そこには相関関係があるのです。
こちらに、惹き付けられるものがあるからこそ起こり得ることなのです。上からも、下からも一つになろうとするハタラキがあるのです。
しかし、そういう説明で(かなりウソっぽいですが)、ちっとは科学的に何か分かったような気もして来ますが、これだけでは全く満足出来ません。少なくとも私には。
それにはある力学的なものがハタライているには違いない...しかし、それは理学的なものを全く超えていることなのです。"理屈でない"とはそういうことでしょう。
何がこちらにあの甘美な一撃に赴かせるかというと、"愛"という他ありません。
そこには親子の愛にも似た人格的結び付きも強く感じられる。
それも又、思いを超えたハタラキの内にあることかもしれません。しかし、これは理知を超えていることなのです。
まあ、これは最初からずっと、そういうことも、ああいうことも思いを超えたものなんだ、と言い続けていることの繰り返しなのですが...

故.エンライトさんは"すべてを任せるということには、喜びも感謝も無い"という意味のことを書いておられますが、究極的なことは分かりませんが(氏はおそらくその辺のことに言及しているのでしょう)、そんなことは多分無いでしょう。考えることは出来ないけど、通常思われているような感性ではないですが、感じることは出来ます。いや"そう感じさせられている"と言うべきでしょう。
これはあくまで私が感じさせられたことを言っているまでで、あなたがホントのことを知りたければ、あなた自身が確かめてみることです。
どうやってかは分からないですが...あなたの最愛なるものなら、そっと教えてくれる...かもしれない。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魂の故郷

2019-01-26 11:12:24 | スピリチュアル
精神的な歩みというのは、"これで探求は終わった"、とか"これが究極の到達点、ゴールだ"というようなことは、自分では分からないものだし、決められないものだと思います。
しかし、そのプロセスの中で"やっとここに来た"、"ここに帰って来たんだ"、"ここで安らいでいいんだ"と、アリアリと実感する瞬間というものはあるものです。本当にその人にとって、そこが究極のものかどうかは別として。
多分、その状態というのは、ある種の通常ならぬ感性によって感じることはあっても、考えることは出来ないでしょう。
少なくとも私には。それは正しく思考、マインドが超えられた一瞬でもあるのですから...
そこにはそうならしめるもの、最愛なるものとの出会いがあったのです。

"出会い...それは初めてのことだったのか? ずっとずっとここに息づき、守り、導き続けてくれたものではなかったのか? 私よりも私に近くにお在すものなのに...ずっと忘れていた...この御方と共にあることが私の魂の故郷だったのだ..."

思い描いた世界、絶え間なくさ迷い続ける思いにピリオドが打たれ、最愛なるもの、自己の魂というものを目の当たりにした時、そこに自分の本当の帰り場所を見い出すのでしょう。
思い描いている私は、それを直接知ることは出来ません。
もし、精神的な目覚めなり、一瞥体験、ワンネス体験などがあったとしても、尚もそこにより高きを目指して、分かろうとし、トライしようと駆り立てるものがあったとしたら、それはそうしたいマインドがさ迷い続けているだけ、ということでしょう。
あなたが考えようとし、為そうとすることは、そこで絶たれているはずだからです。
私はここで、"最愛なるものとの共にあること"をいくら強調しても、し過ぎないものを感じざるを得ません。
今もアリアリと感じます。我が魂はずっとそれを望んでいる...ここから離れて何が悟り、愛、平和だろうかi
目先の幸福、平和、神秘体験...役にたつこと、得になること、皆がそういうこと、自尊心...如何に人々はこうしたものに、魂の望み、声を遮ぎられてきたことでしょう。
でも、誰しもの魂は知っているのです。"これでいいのだろうか?"
どこかに不十全感、満たされないものを感じているのです。
逆に絶え間なく、何かを目指して駆り立て続けるものには、"行き着く場の無い堂々巡りは、もう終わりにしなければならない"という促しがあるかもしれません。
人は他のどんなものを誤魔化せても、自分の魂は誤魔化しようがありません。
何てこと書いてても、やがてすぐ"昼飯を食わなきゃ"となって、忘れてしまうというのも世の常だし、私のサガです。
だから、このチッポケな私の脳ミソにずっと、"そのことを繋ぎ止めとかなきゃあならぬi"...
なーんてそんな神経症みたいなこた出来るかよi
そういうことは皆あの御方が覚えていることなのです。
だから、頭ではどっか行ってしまった感じになってても、この身に覚えられているのです。
どうあっても魂の故郷からは離れられないものなのです。それは自己そのものなのだから...





コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕だけの神様

2019-01-25 10:21:57 | 詩的文章
"お前はいつも神様に守られているのよ..."

僕は物心着く頃から、母からこういい聞かされてきた
人がそう信じてる、そう言ってる神様と別に僕だけの神様が居るんだろうか?
宗教をやってた頃は散々、人が正しいと言ってる神の話を聞かされていた
正しい神以外の神は信じちゃならない、
間違ったことを行えば戒告を受け、裁かれてしまう、
思ってもいけないのだ、という...
やがて正しい神を信じない人間は淘汰されてしまう、という...
僕は密かに自分の部屋で、僕だけの神様に祈りをしていた
何故か南の方角に向けられていたように思う...
そうだったi 確かに南向きだったのだi
あの人たちの常に北向の祭壇とは逆ではないかi
そこには祭壇も何も無い...心の中にある祭壇...
ただ、南向きだった...
誰にも知られたくない...誰にも侵されたくない...
僕だけの神様...

"神様、教えて下さい...あなたはあの人たちが信じてる神様なのですか?
僕はもう、信じたくはない...どうしていいか分かりません...
あなたはずっと僕を守り、導いてくれるのですか?
どうか、あなたの本当のことを僕に教えて下さい
どうか、確かに、確かに分かるシルシか何かで教えて下さい"

ある夜、道を急いでいたら、鞄からあの人たちの大切な"お経"を落としてしまった
あろうことか、その上を車が轢いていった...
そのお経はずっとヘンに折れ曲がり、ヘンな跡が刻まれていた...
この事はずっとあの人たちには知らせていない
バチが当たる話など聞きたくない
幸い、バチは当たらなかったが...
僕だけの神様は、僕がそこにとどまることは、お気に召さないようだった...
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする