人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

僕の場所

2024-03-31 08:38:34 | 詩的文章
僕には場所がある
そこから出てゆく場所
帰る場所
ここに居る場所...

僕は僕だけでなくていい
自分をことさら主張しなくてもいい
自分の立場なんて要らない!
この場所があるから!

僕はいっぱいいっぱいでなくていい
倒れてもいい
それでオシマイになる?
いや、倒れる場所がある!

僕の場所
どこにも壁も境界も無い
居たるところにあって...
ここにある!

僕はここから出てゆく自由がある
出たらここには居ない
場所はどこ?
すると...場所が出て来る
帰れた!
ここにある!

僕の神が臨み、宿る場所...
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原感覚と言語化

2024-03-29 09:36:21 | 哲学・思想
私がいつも神的な現臨などと言っているものは、始めはそういう表現は無かったのです。
頻繁に使われるようになったのは、このブログを始めてからと言ってもよく、そういう場も無かったから当然のことですね。
このように、私はこの場で随分と拙いながらも言語化を試みて来た訳です。
いやもう...自分で言うのもおかしいですが、おかげで色々理解の幅も広がったし、深まった?(こっちの方は一寸言えないですが)...ある意味で理解が向上したとは言えるかもしれません。
少なくとも、これは体系化なんてものとは程遠いですが、言語化することにより、言葉に表せない、何だか分からない、“ああいうもの“にメハナ“や方向性が与えられたということでしょう?
言うまでもなく、言語化というものは、知的な行為です。言葉、概念というものを借りて、ある程度の理解の筋道というか、論理性にも則る必要もあるでしょう。
勿論これは、読む人間が居るということを想定しているのです。誰が理解するのかは知る由も無いですが!...
世の中では、多く哲学者(批評家という人たちも居るが、正直私は何してる人なのかよく分かりません。ただの読者がそれを気取ったりしてます?)と言われる人たちがこうしたことにパトス(情熱)を注いで来たのです。
私自身が浅学ながら、その読者になったりする訳ですが、その言葉に表せないものをよくぞ言語化されたものか、と感激してしまうことも少なからずあるのです。
よく考えたら、これはその述者と読者の間に共通感覚が存在していなければ、そういう共感は生まれないのですね。
これは感覚的なことであって、しばしば混同されがちな、知識や概念に基づく共通認識といったものとは違うのですよ。(万たる共通認識を得られても、たった一人の共通感覚を共感出来る者には代えることは出来ない!)
ですから我々の精神世界の構造は、言語化される、知的な行為以前のこうした原感覚こそが土台と言えるでしょう。
感性的なものが土台で、知性的なものはその上に築き上げられるのです。
そうでなければ、言葉、観念は宙に浮き、思念世界に現れては消えてゆくだけでしょう。
この意味で、感性と切り離されない知的なアプローチは、精神的な道にあって、有効であるのは言うまでもないし、欠かせないものとも言えるでしょう。
普通に考え、そして感じてみたら分かる!...ただの浮いた言葉だけの、知的アプローチによっては思いを超えた、霊性の世界につながることは不可能なのです!
もし、あなたが言葉の述者、あるいは聞き手、読み手であるとして、そこに何か自分の内部を揺さぶるような言葉が交わされたなら、そこに言葉に言い表せないものが臨んでいるのかもしれません!
そのことを意識してみたら、見えない世界でより深まり、それに言葉が与えられることにより、見える世界に露わになるでしょう!...
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知性、感性、霊性

2024-03-28 10:20:47 | 哲学・思想
私はいつも、思考マインドから離れ、超えなければ神的なものにつながることは出来ないと言っています。
これは、あらゆる宗教、精神的な道で等しく説かれていることと言ってもいいでしょう。又、もっと正確に言えば、神的なものが我々に臨めばそのように導かれるとも言えるのです。
しかし、これについて私は、“思考を無くさなければならない“、とは一度も言ったことは無いつもりです。
第一、何人にも出来ないのではありませんか?...持ち前からあるものを無くすことはバカげてると言う他ありません。
然るに何故、我々の思考、分別知というものは、その神への、霊性の道と言ってもいいものにかく立ちふさがるのでしょうか?...思考、知性的な道を通して、それにつながることは出来ないのでしょうか?
これが古来より哲学の道として知られていたものなのです。哲学とは思考を超え、霊性を開く道なのか?と思われる向きもあるでしょうが、古代ギリシアの、又インドを始め東洋に発祥した哲学をみても、本来はそういうものであることが分かります。
少なくとも私は、それを指向しない哲学など(それはヒマ人の知的遊戯にしか思えず)、全く関心がありません。 
霊性を指向する哲学(この哲学本来の在り方がその界隈では、神秘主義などと曖昧なレッテルを貼られ、傍系、異形のように扱われているのです!)は、それを究明してゆけば、必然的に思考、知性を超える地点に導かれると言ってもいいでしょう。
それは、思考を超えると言っているのだから、勿論知性のみからのアプローチでは、決してたどり着くことは出来ません。それと共に、いやそれ以上にパトス(感情というよりも、感性と言った方がピンと来ます)を必要とするでしょう。というより、そのように精神を促すものがパトスそのものなのではないか?
「私の主要な思想は内部の光明から発する稲妻のように奔湧する。筆をとって書き始めると、激しい勢いで自分が上方に引き上げられ、頭がぐらぐらすることがある」
この霊性を指向してやまない哲学者ベルジャーエフの言葉は、そのパトス性をよく言い表しています。
そして、その思考を超えた地点に立った時、我々の知性というものは、本来感性と分けることが出来ないものであることが示されるでしょう。
知性も感性も霊性に源がある...
霊性に根差したものこそ、本来の精神的な在り方なのではないでしょうか?
そこから知性的な部分ばかりが分離して、抽象論ばかり繰り返して、どこにも落ち着かない論理だけでカタが着いたなどと錯覚している、近代になり特に発達した主流の哲学とされるものこそは、異形と言わねばならないでしょう?
霊性を指向せず、それに根差していない哲学は、全く無機質で、生きた血のパトスが感じられません。又知性を欠いた宗教も感情論に走って盲信、迷信、狂信を生み出します。それも霊性の枯渇が要因になっているのでしょう。
知性は、感性と相まって本来の霊性へと統合されなければならないのです。
これは、知性が暴走している現代の諸相がそのことを浮き彫りにしているでしょう。
しかし一方で私には、その霊なるものの方が我々に露わになって来る、ということも感じずにおれないのですが!...



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もう、黙っていられない!

2024-03-26 10:05:49 | 雑感
*これから書く記事を読んで、気分を害する人が居るかもしれません。
そう感じる方はどうかスルーして下さるように!

このブログにたまに“Z“とかいう人が、一方的に的を得ていない、中身の無い議論をふっかけて来て、全く噛み合わない、不毛な議論の場へ引きずり込もうとするコメントを寄せてくることがあります。
私はただ不愉快な気分にさせられるだけなので、そんなヒマ人の挑発などに乗る気など一切ありません。
ああいうヘンな虫が寄りついたなら、フマキラーでしゅっ、とやる(ブログ主の特権で消してやるのです!)に限ります。(何度も、“もう来るなよ!“と遠回しに意思表示をしているつもりなのですが!...)
そういう迷惑を被っているブロガーはどうも私だけでは無さそうで、中にはそれがもとで、ブログ続けるのを止めてしまった方も居られるかも知れません。
そう考えると、もう黙っていられない!
もっとも、こういうことに巻き込まれてしまうのも、ブログをし続ける上での宿命なのでしょう?
この御仁、どうもこのように、多くの人から疎んじられ、嫌われているようです。
そしてその鬱積した、マイナス感情からそういうことをしてしまい、さらにそれを繰り返して、ますます疎んじられるというループにはまっているようです。(それも全く独りよがりの論法ばかりで相手にはよく伝わらない始末なのです)
この人内心では、構って欲しい、寂しいと思っているのではないですか?
挑発的な、強がりな言動からは、そのような弱さが見え隠れしているようです。
そういう鬱積した感情は、ああいう感情論に走るのでなく、そのまま、感じたままの内心を吐露してはどうなのでしょうか?
そういう場を見つけたらどうでしょうか?(無いの?、少なくとも今のままでは、あなたの場所は段々無くなるでしょう?)
そのような発言なら、(たまには)付き合ってもいいと思っているのですが!
自分の弱さを吐露することというのは、決して弱いことじゃありません。
むしろ逆ではありませんか?...自我心に囚われた多くの人間には出来ないことなのです!
自分の思い、力を超えてそうさせるもの無しには出来ない、と言ってもいいでしょう。
そして、そのものに、ありのままの自分に向き合うならば、光が差し込むかもしれないのです!
私はそういうことをずっと書いているのですよ。
そして、又直近では、どこにも落ち着かない不毛な、人を不愉快にさせるだけのような議論とか、頭のことばかり偏重されることの歪みについて書いているのですよ!
だのに、なんだ、あのコメントは!(見せしめのため、ムゲに消すんじゃなかったかも?)
私は自分が書いていることがいつも正しいとは思っていないし、理解してもらえるとも思っていません。
だけど、読む気が無いのならどうぞお引き取り下さい!
二度と来るな!
ホント、腹ん立つ!...だから、“しゅっ!“と...
しかし、こう書いてみて、ちとは気分が晴れたようで!(私だけか?)

外にはは無常の雨が...






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人を殺して何故悪いのか?

2024-03-24 09:37:22 | 雑感
五木寛之先生は、随所で現代の知性の偏重により、感情、感性が蔑ろにされることから起こる歪みについて言及されています。
少し前、“人を殺して何故悪いのか?“、といった議論が巷で話題になったことがありました。
そこで、何か結論らしきものが導き出されたのか、どうかは分かりませんが、結論というもの自体がそうであるように、このことが考えることで決着されてしまうようになってしまうならば、もう人間は落ちるところに落ちてしまうより仕方なくなるでしょう。
又、こういうことが一般論として通用してしまうようなら、その社会も先が見えているではありませんか? 
これが議論されて、話題になることそのものが、その知性偏重の歪みを浮き彫りにしているように思えてなりません。
このことは、一人一人の現実に向き合わなければ、絶対に何も分からないでしょう。
あなたは、リアルにその状況を思い描いて、現実にその手で平然と人をアヤめることが出来るのか?...こう問われれば答は自明ではないか?
そりゃあ、誰だって一瞬、カッとなったら分からないけど、躊躇するものは感じるでしょう。
それは多くの場合、法に触れる、その裁きを受けることが頭に過るからでしょう。もうほとんどこれは刷り込まれていると言ってもいい。
でも、それだけでしょうか?
私は夢の中で、妙な言い方ですが、実にリアルなシチュエーションの下で、先のようにカッとなって、人を殺してしまったことがあるのです。
最初に過ったのは、やはりと言うか、“ヤバイ、見つかる、つかまる、何とかしなきゃ!“、というものなのでした。
しかし、いくらか気分が落ち着いて、自分自身に帰って、その目の前に無残に横たわる亡骸を目にして...
これは、もう自責の念といったものでは説明の付かない、全身全心全霊を覆うような、自責の感情は勿論、悲しみ、哀れみ...それはもう、こちらの思いを超えたものから来るようなものとしか言いようのない感覚だったのです。
言うなれば、それはあの愛、安らぎと隣り合わせのようなものです。
“ああ、私はあの掛け替えのないものに手をかけてしまったのだ!“...
この感情、感覚はまったく思いも寄らないものだったのです。
これは、考えること、抽象論なんかでは絶対に、永久に分からないものなのです!
このように、人間の行動を決定づけるものは、言うまでもなく、考えて得た結論なんかでは無いのですよ!
何で頭で分かっただけのことで、人生が左右されなきゃならんのか?
頭は頷いても、身が、全心身が頷かずしては!...
人生の一大事のことは、あなたが思い、考えているものからは答は見つからないでしょう。自分の思いを超えたものに聞かなければ!
その答はあなたの頭でなく、胸にあるのでしょう?...



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