人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

五井先生という人は...

2018-04-29 11:48:37 | 人生の教師
五井先生という人は、私と誕生日が1日しか違ってなくて、初めてお目にかかったのも昭和52年の先生の誕生祝賀会でのことで、お顔を見るなり、何とも懐かしい気持ちが込み上げてきて、思わず涙がこぼれてくるなど、少なからず縁というものを感じずにおれないものがあったのです。
それから私の精神的歩みには、ここで書いているように紆余曲折があって、先生のことが念頭から離れてしまったこともあったのですが、又こうして改めて書かされているんだから、やはりこれは縁のなさしめることなのかな、などと感じています。
6年くらい前、フト思い立ち、数十年経って、宗教、精神世界を取り巻く状況も大分変化してきた中、五井先生はどのように理解され、受け入れられているのか知りたくなって、白光の正規の団体でない、五井先生派(原点の教えに則る)?ともいうべき、小さい集まりに関わったことがあります。
しっかし、これが勿論そのすべての人がそうだという訳ではないでしょうが、情けなくなるような旧態依然とした、依存信仰を見せ付けられることになったのです。
(こういう風に書いていくと、"他を悪し様に言うべきでない" というものが過るのですが、どっかで"構わん、構わんi ケチョン、ケチョンでいいじゃないかi" という促しも感じてくるのです)
"先生の残した教義「人間と真実の生き方」、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」だけに従っているだけでいい"という原理主義的なものがある一方、その原理主義的なものにトラワレたまま、先生がけっして言わないような未来予言、隠謀論、宇宙O史などを付け加え、二重にトラワレ続けているものもあります。
後者について私は、「あー、そういうのは消えてゆく姿でしょう...」とキッパリ言ったこともあり、私の居る前では、そういうことには触れることは無かったのですが、私が"もう、ええわいi"と、そこを離れると、何かの規制が外れた様に、どんどん脱線ぶりがエスカレートしていったようなのです。
ここで私が言わんとしているのは、そうした原理主義的なものと、脱線路線とどっちが正しいか、というようなことではありませんi
どっちも消えてゆく姿じゃないか、ということです。
単純に"そういうのは間違ってますi"とは、決めつけられないですが、少なくとも"消えてゆく姿"というものに照らされるべきもの、とは言えないでしょうか?
ある団体にしか通用しない、すでに形をなした教え、行法...それらはすべて過渡的なもの、プロセスとしてあるもの、と言わざるを得ないでしょう。これは先生の後継路線に現れた一連の"行"についても言えることです。あっちにはそういう理解もなされているようではありますが...
有るのか無いのか分からないオカルト的教説といい、トラワレた思いこそが消えてゆく姿であるハズなのに、いつまでもそうならないのは、空念仏のようになっているからでしょう。
いいや...これは、そもそもこういう、"祈っていれば、行じていれば、教えにつながっていれば、いい" と、安直に受け取られかねない生き方を残した先生が間違っているんじゃないのか? 大衆に向けての宗教というもののダメさ加減というものは、ここに集約されているではないか?
と、こんなこと書いてて、バチ当たりにならないか、というものが過ってきますが、どっかで"構わん、構わんi ケチョン、ケチョンでいいじゃないかi"というものが...そして...
"あーだ、こーだ、ケチョン、ケチョン...みーんな消えてゆく姿だよi" というものも...
そうだったのですi 私はあの方便的教え「消えてゆく姿で世界平和の祈り」に触れたことがきっかけで、消えないものに導かれたのです。いまだその途上にあるのですが...
先生に初めてお目にかかった当時、私は入信していた教団への信仰もグラついており、何処へ向かっていいのか分からない状態の中で、その縁に捉えられたのでした。
先生が残された道には、表面的な消えてゆく姿的なものの中に、"消えてゆかない"、永遠なるものとつながるものも散りばめられているのを感じています。
そういう思いが強いからこそ、その無理解、歪曲的な在り方に対して、何かと言いたくなってしまうのでしょう。
それでも..."いいよ、いいよ、分かっていればいい"という声が聞こえてきそうです。
五井先生という人はそういう人なのでしょう。

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あなたと私の絶対的真理

2018-04-27 17:04:08 | 雑感
"個人というものは居ないんですi
すべては起こることが起きるだけなんですi
自由意志なんて無いんですi
二元世界というものは幻想なんですi
悟りを開くには、7つの階層を通らなければなりませんi
シャカやイエスは6次元、金星のマスターは7次元i..."

もう、ええがなi
いや、もうスピ界隈てーのは、ホントに決めつけた言葉で溢れかえってますねえ...
この人たち、ホントにそういうものを見たんですか?
如何にも"真理はこれっきゃない、ドヤi"みたいな口ぶりですが、ホントにそれは普遍妥当性のあることなんですか?
何か感じたことを言っているのかもしれませんが、ホントに自身ガテンがゆくことなんですか?
私は...例えば"この現実世界は二元であり、相対的になっていて..."なんてことをここでフツーに書いちゃったりしてますが、ホントのところ二元だかどうだか分かりゃしないんですi みんなそう言っているみたいだから、そーゆーことにしているだけなんです。
二元とかなんとか言うのは、一つの観方、感じ方であって、その事実、事相そのものは、何が証明されてようと(それは勝手に証明されてるだけです。証明されたものが真実ってことも勝手にそう決めているだけです)、どうだかわからないハズなのです。ミもフタもない話ですが...
これがもっと"裏側"的な方に突っ込んでくると...も、ホントーに決めつけたようなこと、確定的なことなど何一つありゃしないんです。
見てきたように語ることは不可能だし、証明などなされようが無いんです。
そんな不確定要素ばっかしなのに何でエラそうな物言いになってしまうんでしょうか?
なあーんにも決まったこと、確実なことは無いi...しかーし...
私は確信を持って言えることがありますi
それは私の観方、感じ方がそうである、というよりも確実なもの、疑うことの出来ないもの...御方と合い見えているということなのですi
これはあくまで私が感じたままを言っているだけであって、無論そこに妥当性も無ければ、証明されるものなどありません。
この事を余所にして、人をその気にさせそうな、もっともらしい確言なんてものは、国会の答弁を聞いているよりも信を置くことなど出来ません。
スピに関わる人たちが何で、しょーもない?ことにコダワリ、真理らしきことを伝えよう、狂信的なまでに躍起になっているのか、自分なりに理解出来るところもあります。
多分にそこで絶対的なもの、神的なものが意識に臨み、そこに意識が向けられるからでしょう。それに追従するものもそこに絶対的なものを投影するのでしょう。
この事が、自己の内奥で、その御自体なるものを目の当たりにしている原体験から、他に向けて伝えようとする過程で、二義的なものに堕ちてしまい、内なる神的なものは自分の観方、信念などに取って代えられ、神になったような人間によって、決めつけた言説として表されてしまうのでしょう。
かようにして宗教、スピには狂信がツキモノなのです。神的なもの御自体は、何ら真理らしきものの表明などする訳では無いにも拘わらず...
ただ、その沈黙の教えというものは、この世の如何なるものにも増してインパクトを感じるものです。そこに内なる絶対的なるものに憩うか、外に向けてその実、相対に堕した疑似的な絶対なるものを生み出してしまうかの分かれ目があるのでしょう。
真理というものは、この自体なるものと共にあるものでしょう。
絶対的なものとの出会いとは、あくまでそれに預かる一人一人に絶大な意味があるハズなのです。
それはその他大勢のための真理ではありません。そういう普遍妥当的な真理があると思うことが、大いなる幻影というべきでしょう。
それはどこまでも、成り代わりでない、あなた自身の神から伝えられるものなのです。
これがあなたと私の絶対的真理なのですi






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本当のものがやって来るまで

2018-04-26 18:05:59 | 詩的文章
「僕はあなたのために奴隷になろう
僕は乞食にも、悪党にもなろう
それが愛でないのなら...
本当のものがやって来るまでは...

"Until The Real Things Come Along"(1930年代の米ポピュラーソング。私はFats Waller & His Rhythmの36年の録音を愛聴していました )」

最愛のもの、最善のもの、最高のもの...
本当のもの...それはそう思っているものとは限らない
そう思っているものは、手に入れられ、この手に握られている
最高のものはこの手の中にある
握ったまま、離さない
最高のもの...
それは本当に最高のものなのか...
それよりもっと...本当に最高のものはもう現れないのか
たとえ現れたとしても...
握ったままの手では掴むことが出来ない...
これが最高のもの...これ以上のものはない
その思いが、本当のものを取り逃がしてしまう

最愛のもの、最善のもの、最愛のもの...
本当のもの...それはそう思っているものとは限らない
手に入れられる、掴めるものとは限らない
思っている以上のものがやって来たら...
思わず、握っていたものを手放してしまう
握っていた、捉えたはずの私が捉えられてしまう
本当に最高のもの...その前には私は何ものでもない
どうしようもない...
愛とは何かはわからないけれど...それが愛というものなのか...
無条件降伏...
訪れてみなければ、捉えられてみなければわからない
本当に最高のもの...手を放して待ち望もう
そのものがやって来るまで...
















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ただ一つ、祈ること

2018-04-22 11:24:36 | 祈りと瞑想
いつも言うように、私は特定の教えというものも、メソッドというものも持ち合わせてなく、そうしたものを他に伝えるということもようしないのです。
ただ一つ、それらしきものを伝えるとしたら...祈ることとしか言い様がありません。
この事にしても、特別な教えともメソッドとも無関係なものです。
むしろ、そうしたものに囚われたところに、祈りなんてものは生まれてこないのではないでしょうか?
それは、こちらの何ものか、人為的な方法論などによってなされるものではありません。
どんな祈り言葉で、何回唱えるとか、姿勢や呼吸がどうとか、意識をどうコントロールするとか、あるいは"全託するという決心"が必要だとか...祈りによって苦境から脱することや、愛と光に満ちた至福に預かることもあるかも分かりませんが、それは、我々の何らかの行いとか決心によってもたらされるのではありません。
それはどこまでも、どこまでも、そこに思いを越えた神的な主が臨み、ハタラくからなのです。
これは形としての祈りというものでなく、実に意識がその現臨に向けられ、その息吹に充たされる...ということを言っているのです。
この命、愛、平安そのものであるものを抜きにして、どんな教えだろうと、修行法だろうとそれに執したりするのは、本末転倒と言う他ありません。
これがあった上で、いくらかの人為的なこと、決心(これは強力i)というものも出てくるのです。
何にもせんでもパッと...なるようなことでも何かはあるのです。意識していなければ何ももたらされません。
意識を"向ける"などと言ってますが、ただ、自ずとそうなることを伝えているにすぎないのです。
そして、"ああ...いつの間にか感謝が沸いてきた...有り難いなあ...心が休まってきた...何て幸福なんだろう..."という具合になったら...それこそが前述の事態に預かっているということなのですi
"あれこれ願い事をしていたが、具体的にはちっとも叶わなかった" なーんて、バチ当たりなことは..."ちがうだろーっi"(いつの話だっけ)
と言っても、"中々そんな心持ちにはならないが..."ということもあるでしょう。
そうでしたら、普通に祈ればいいのです。やっと普通の話になったのかも分かりませんが(笑)。
普通にと言うのは、"祈ろう"という気を起こして、ある程度の意志的な努力をもって取り組むってことです。
どうやって、というのはイロイロな本に書いてあります。自分にもっともフィットしたものがいいでしょう。
私の場合"御心のままに導きたまえ"というようなニュアンスの心持ちで祈っていたか、祈らされたかしていました。
この記事に限らず、ここで書いているのは前記した"意識というものと、意志的なものは違うものだ" ということを大前提にしているのですが、瞑想などで、私の経験では意志的なものに則っていくら重ねても、中々その根っこの方にある意識につながることがありません。
土台からして違うという感じなのです。
しかし、これ又経験してますが、祈りは、自分の人為的思い、意志から始めたとしても、いつの間にか無為的な、そのハタラキのなされるままの状態に導かれるのです。(これには意識の有り様が重要なのですが...有り体に言えば祈り心のようなものでしょう)
これは祈りという行為というか、その心持ちの中に"思いを超えたものにつながろう"、という意識が働いているためでしょう。
というよりも、我々気付いていなくても、深い意識の奥で、神的な主の方から我々にハタラキかけ、それに通じた意識を呼び覚まそうとしておられるのでしょう。
祈りは、本当にこのものあっての私である、ということに思いをつなぎ止めてくれるものです。

祈りは人生の幾多もの苦難からの避けどころ...命の親との邂逅の場...
私は特定の教えにも方法にも依拠してきませんでした。しかし、ただ一つ、祈りというものはあったのです。







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言わなくてもいいこと

2018-04-21 12:14:41 | スピリチュアル?
私はね...そんじゃそこらの人間とはワケが違うんです。特別な人間なんです。
そりゃそうでしょ...誰だって自分と同じ人間などこの世に一人として居ないんですから...
いちいち言わんでも分かる...エゴってものがなんで我々に付いて回るかってことも...
そういうことに気付いてりゃいいのです。気付けない、気付こうとしない、認めようとしない人たちがワイワイ、"オレがー..." とか他に向けてやっているんです。
自分が一番正しいと思っているからです。だけど...心底正しいとは思ってないでしょう。
内心は"ホントに正しいのか、間違っているんじゃないか?"と戦々恐々...心が揺れ動いてたりしているのです。
だから...他にアッピールして、認めてもらわないとならないんです。
それには、自分の正統性を際立たせるために、又その所業を隠蔽するために、間違っている、悪いものとされるものを担ぎ出したりします。
異教徒とか異端とかフリーメーソンとかレプティリアンとか...カルト宗教とかが盛んにそれらをスケープゴートにしていた通りですね。
これは分かりやすい例ですが、そんなあからさまなカルトでなくとも、"我々は宗教ではありません。神秘主義、オカルトの類とも違うんです"、何てことを外に向けて主張しているところもあります。スブドとか...
そう言っている人に、"じゃ、宗教ってなんですか?、神秘主義とは?、オカルトとは?" と質問してもおそらく誰もマトモに答えられないでしょう。
要するにイイカゲンな理解で、イイカゲンなことを言っているだけなのです。
ただ"我々は皆さんが抱くであろうようなアヤシイ団体でもなく(これはアヤシイ実例がきっとあるんです)、エヘン...そんじゃそこらのものと違う、特別なことをやっている団体なんです"ということを言いたいのでしょう。
自分たちが如何なる団体であるかと主張するのは自由でしょうが、"宗教云々..."というのは、それを見聞きした人間がそこで受けた印象から判断することでしょう。
その内実はともかく、世の中にそのようなイメージを抱かせるもの(権威的なものへのトラワレとか、カルト的見解の蔓延とか)があれば、どうしたってそのような判断も出てきてしまうのです。
そして、"我々はOOでない"という、正統化に赴かせる思念がはびこると、中々その団体に内包する、上記のような問題が存していても気付くことが出来なくなります。
この例のように、例えば自分はずっと宗教的なものに依存し続けているにも拘わらず、外に向けて"宗教依存はよくないですよ、自立出来なくなりますよ"などと他人事のように発信している向きもあります。(大体において、こうした発信というものは、自分を自分以外の宗教なり、思想なりに依存、同化させているものですが)きっと巷で言われていることを嗅ぎとって、自分は正しいことをしていると思われたいのでしょう。
私は...別に宗教依存みたいなことがあってもいいと思いますよ。それ自体悪いってもんじゃなく、生きたものに連なることが大事なことだと思います。
人間は自分が思っているよりずっと弱いものです。
エゴだってある。自分が正しいと思うことだって...これは生存本能みたいなものです。当たり前のことなのです。
殊更特別なこと言わなくても、その事に気付いていたらいいんじゃないでしょうか?
精神的気付き、目覚めとは、その自分の弱さ、無力さに対してのものに尽きると言っても過言ではないでしょう。
中々気付けない?...気付こうと意識すれば気付けます。
実は正しそうな人も、強がりな人も内心は気付いているはず...だから...エヘン、とイロイロ宣っているのでしょう。
言わなくてもいいことを言うから、私もつい言わなくてもいいことを言ってしまう次第なのです...ん。
そうして、私のような狡猾な人間に反面教師として、それらの善い、悪い鏡を見て気付かせてもらう材料を提供して頂くことになるのです。
なんじゃ、かんじゃと言ってこの宗教、スピ界隈ってーのは、学びの宝庫じゃありませんかi
感謝に絶えません。これは皮肉でない...かも...
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