人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

年の暮れに思う

2020-12-30 10:38:52 | 雑感
今、外ではこの一年を象徴するような冷たい、厳しい、そして悲しい雨が降っています。
"この年末年始は外出を自粛しろi"、と言わんばかりに...
この一年、インドア生活が増えて、例年に無く、読書や音楽鑑賞をする機会が多くなったという人も多いことでしょう。
私はというとですねえ...
"いつもの年とちーとも変わっとりまへんがなi"(何故か大阪弁)
そして、自粛警察(まだ解散してないの?)が何と言おうと、一日一回は外に出たがる私は、今朝も"おー、さぶ、さぶ"、と言いながら、近くのファミレスに行ってきたところです。
そこで勿論パンとコーヒーを飲みながら好きな読書を、と相も変わらずビンボー貴族をしております。つまりは普段から自粛が身に付いているのです。
いつもと一寸違うところは、Youtubeとかの動画を観ることが増えたことでしょうか?
中でも過去のテレビドラマをよく観たのですが、私はここ数十年、深夜に起きるというくらい朝型になっており、早寝につき見過ごしているドラマが沢山あるのです。
最近観ていたのは「ランチの女王」でした。故.竹内結子さんがブレークしたドラマです。
これを観ていて、"あの、美味しそうにランチを食べて、幸せそうに笑っていた、あのヒトがホントに自ら命を絶ってしまったのかなあ?"、と今でも信じられない思いに駆られます。
悲しいですね...
普段から自粛気味の生活をしているせいか、世の中がこんなんなってるせいか、ただ単にトシのせいか...私はもう、デカイ声で笑ったり、ワイワイ、ガヤガヤ、楽しい感情を表に出すという気になりません。
密な関係は、胸きゅんするヒトや子猫ちゃんとだけでいい...
でも、悲しいことはけっして、けっして苦しいことばかりじゃないのです。
悲しいことが不幸なこととは限らないのです。
その中に幸福を見つけられることだっていくらでもあります。
この胸が締め付けられるようにも、じんわり来る幸福感というものは、感情が外に発散し、浮いた状態では、絶対に味わえないものです。
何だか喜びと悲しみというのは分けられなくなってきた...これは最愛のものとの関わりが密になってきた、ということなのでしょうか?
それは常に幸福と共にあることだから...
そんなことを思わせられているこの年の暮れなのです。

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BETTER THINGS

2020-12-29 10:31:25 | 映画・音楽など
「BETTER THINGS(ベター.シングス)」By The Kinks

"君に雲ひとつない真っ青な空
そして明日はもっといい日になることを願っているよ
あらゆるものが盛り上がり
最高のコーラスを歌ってくれることを願っているよ
あらゆる疑いや悲しみの次には
もっといいことがあるんだ

君のこれからの日々が
過ぎた日々よりも辛くないことを願っているよ
そうじゃなく楽観主義者であれ
そうしたら幸福が君を見つけ出すだろう
過ぎ去ったことは忘れて
そうさ、もっといいことがあるんだ

君に会えて本当に良かった
ロッキーマウンテンも喜んでいるよ
まるで始まったばかりのように生きている
人生はなるようになることを受け入れて
明日は君がもっといいことを見つけられるように
明日は君がもっといいことを見つけられるように..."

今年の始め、英国のベテラン、ロック.バンド「ザ・キンクス」のこの曲にハマってしまい、一年を通してカラオケでもよく歌いました。
キンクスは、私にとりストーンズ(ジャニーズじゃないつーのi)、ザ・フーと並ぶ英国ロック界のビッグスリー(ビートルズは?)の一つなのですが、いつも60年代の古いレコードを中心に聴いていたので、恥ずかしながら、81年にこんな素晴らしい曲を残していたとは知らなかったのです。
この曲はしかし、サウンド的にも歌詞でも、おおよそキンクスっぽくありません。
全くキンキー(ひねくれた)なところがありません。 キンクス~それは、とりもなおさずコンポーザーのいつも皮肉屋で、憂鬱そうな、「レイ.デイヴィス」のこと~ってこんなに、ストレートかつ前向きでいいのか? これには何か裏があるんじゃないのか?
64年のロックの古典的ヒット「ユー.リアリー.ガット.ミー」のガレージ調に戻ったようにも、折からのパンク.ロックの逆影響のようでもあります。
とにかく、私はこの曲に乗っかるようにも、今年こそ、"もっといいことがありますように"、との明るい気持ちで、それからの一年を送りたいと思っていたのですが...
神様は何てキンキーなのでしょうかi
それからすぐ、世界中がこれまで経験したことのない、日蝕に覆い包まれることになろうとはi
"コロナ?、そんなもん過去にもサーズやらエボラやらあったではないか、どうせすぐに収まっちまうさi"、と思っていたのは私だけではないでしょう。
そして、今爆発的な感染が起こっている真っ最中だとはi...
こんな一向に収まる気配の無い中、来年こそは、"もっといいことがありますように"、何て言ってる人間は、きっと身も心も魂もよほどねじ曲がっているのでしょう。
それでも私は言いたい..."もっといいことがありますように"
たとえ、太陽が輝かない日が続こうと、寒風が吹き寄せようと...人間は"もっといいこと"を抱いてなきゃ生きられないのだから...
今、そう感じていたら明日も、いや過去のことも"いいこと"につながるだろう...
私の神様はそんなにひねくれてないですよi

I hope tomorrow you'll find better things...




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本来的な愛

2020-12-26 03:09:34 | 
"神に意識を向ける"といつも言っていますが、私にとって神とは"最愛なるもの"のことです。
人によっては、神と聞いただけで拒絶してしまう人も居るでしょうから、その人なりの最愛なるものに意識を向けると、思いがけない(思いを超えた)善きことに出会えるかもしれませんi
この場合"最愛"と言っているのがミソでありまして、次愛のもの、仮初めのものであってはならないのです。
だから、最愛の人でも、最愛のにゃんこでも、小説やアニメなどの最愛の架空のキャラクターでもいいのですよ。
"そんなもんが神と同列に語られるもんかi"、という声も聞こえてきそうですが、人の目にはどうあろうと、自分がどれだけその対象に愛を向けることが出来るか、ってことが重要なことなのです。
逆に考えて、いい加減なデモ信者のことを思えば理解出来るのではありませんか?
それで、ホントにホント~に最愛のものに愛を向けるとどうなるでしょうか?
自ずと意識がある中心に収斂されてゆく(自分の意志的努力で、意識を集中させることと区別してこう言っているのです)感じにならないでしょうか?
そして、その対象だったものがいつのまにか消えて、自分と一つになる感じになってきやしませんか?
このように、対象を超えるということは相対を超えるということです。これはもう、神的なものと言っているのと同じなんですよi
その対象が何であれ、こうしてそのものに導かれることもあるかもしれないのです。実に神った(死語か?)話ですが...
これは元々与えられている、本来的な愛が呼び覚まされることに他ならないのです。
本来的な愛、抽象的でない、血肉に通う愛、愛そのもの...この一連のプロセス自体が、もうそれに依っていると言ってもいいでしょう。
こちらが、理屈抜きに惹かれてしまうことから始まっているのですから...私がよく、"意識が自ずと向いちゃう"と言っている意味がお分かり頂けるでしょうか?...つまり本来的な愛に捉えられてしまうということなのです。
私の場合、神的な愛に捉えられた、という原体験があるから、こういう通路がすぐ開かれやすい、ということは確かにあるのですが、その"今生"で起きた体験で間の当たりにしたことは、その原体験は私の生まれる前に求められる、ということだったのです。
だからこそ、それは本来的な愛と言い得るのですi
それは自他を超えた愛であり、一人一人に与えられているものに違いありません。
ややこしい究極の悟りだなんだ、なんてことより、このことに目覚めることでどんなに自他の救いにつながることでしょう...。
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始めにあるもの

2020-12-24 12:20:24 | キリスト教関連
「私たちは、神を知ろうと人間の側からいくら努力しても、神の側から御自分の意思を示し、語りかけて下さるのでなければ何も分かりません。...神の化身、キリストを見て、私たちは神の自己表現を拝し驚嘆するのであります」
(手島郁郎「ヨハネ福音書講義」/手島郁郎文庫刊)

「始めに言葉ありき...」(ヨハネ福音書第一章)
私がいつも言っていることは、この言葉に集約されると思います。
言葉...これはしかし、何とつまずきとなることでしょう...それは聖書の"みことば"のように解され、始めにこの言葉を信じなければならないとしたら、"始めに聖書の言葉、私たちの観念ありき"、ってことになってしまいます。それで、一体何が始まり、開かれるのでしょうか?
この言葉の原語は、ギリシア語の"ロゴス"です。これなくして何も始まってこないもの...始めにこのものがあったのですi
こんな命と同じくらい大切なものであるにも関わらず、適当な訳語が無いらしい...だから文語では"道ありき"というのもあるのです。
私は専門でないので、詳しいことは分かりませんが、このロゴスから"表れ出る"ものというヒビキを感じます。
そして、さらに肝心なことは、手島先生がいつも述べていたように、それが私たちに直接関わり、タッチしてくるものだ、ということなのですi 
だから、"ああ、ここに我々の思いを超えた神的なものが生きてハタライて下さる..."ということが分かるのであり、そうでなければ神といっても、漠然と人伝に聞いたことや、書かれてあることを思い描いているしかならないでしょう。
ロゴスとは神の自己表現、自己顕現に他なりません。
我々日本人は"言霊(コトタマ)"という言葉を知っておりますが、さすがに先生はロゴスにこの漢字を当てているのですが、こっちの方がはるかに霊なるもののヒビキが伝わってきます。
この始めにあるものの消息は何も、聖書、キリスト教に限ったものではありません。
誰よりも玉城康四郎先生が明らかにしたように、仏教はブッダの修業努力から開かれたのではなく、形なき命~ダンマの顕現によって開かれたのです。
老子は又、"名の無い道(タオ)は天地の始めであり、名(ロゴス)は万物の母である"、とこのヨハネ伝に通ずるようなことを伝えています。
イエス、ブッダ、老子...古の道は"始めにあるもの"を伝えているのです。
ただ、イエスの道においては、より神の自己表現の様が、"人の子"を通してと具体的に表されていると言えるでしょう。
イエスの人格的表れは、我々一人一人の人格と相即されるが如くです。
ともあれ、こうした"始めにあるもの"が、我々から失われてしまったことにより、始めに思われた自分があり、そこから数多の思い思いの信仰や修行方法が生まれるに至ったのでしょう。
思われた自分が信仰し、修行をして、幸福や神的な力を得ようとばかりに...
しかし、始めに神的な表れがあったのですi 始めにあったということは、それは我々が求める以前から与えられてあった、ということでしょう。
これは受け入れるしかありません。ただ、受けるということがあるだけです。
といって、"受けよう、受けよう"、と力むことじゃないですよi "始めにあるものは与えられているのだ"、と信じ込もうとすることでもありませんよi
"始めにあるもの"をチョイと意識するだけで、何かが始まってきて、もう、それを受け入れるっきゃないって感じになってきたでしょう?
クリスマスだし...
この自粛モードのクリスマスこそは、始めにあり、失われたものがよみがえる絶好の機会が与えられていると言えるでしょう...。
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私と我が神の秘密

2020-12-23 10:07:45 | 
「神と各自とのあいだには、それにしかないかかわりがあって、それは神だけがお分かりになっている秘密を打ち明けて下さるのであり、そしてそれは、各自のもっとも深い内奥に与えられたたまものに応じて独特なものなのです」
(モーリス.ズンデル「日常を神とともに」/女子パウロ会刊)

私はここで、今まで周りの人たちに秘されていたことを惜しみなく(?)開示してきました。秘とはその字のごとく、必ず示されるものなのですi
でも、私個人に関するもので、どうしても明かされない秘密ってものもあるのです。これは明らかにされる必要の無いことだからです。おそらく永遠の神秘でしょう。
"神のみぞ知る"...(ああ、もうこれを書くだけで全身心が震えてきそう...)私は言葉の真実の意味でこう言っているのですi
この世の誰一人としてこの秘密を知っている人は居ません。私の神以外には...
我が神、我が主...それは私にとり唯一絶対のものです。汝以外に神は居ないi..."神とはこうこうこういうもので..."、などと抽象的に他に向けて説明されるような神など紙切れのようなものではないかi
我が神はこの私だけに、私の知らない、私自らからはどうしても知ることの出来なかった秘密を開示、啓示されたもうたのです。
他の誰でもない私だけのために...私以外には代わりが効かない...我が神がそうであるように、私は唯一無二のものだから...
神に人格が有るか無いかについて、抽象的に論じられたりします。いや人間の人格というものですら、ある方面では否定されてしまうようです。
もう、他人が挙げつらう抽象論などどうでもいいです。我が神と私との関わりこそがパーソナル(人格的)なものなのです。ここに我が神と私だけの秘密が隠されているのです。
逆説的ですが、そこには何一つ隠されたものはありません。すべては吹き通し、開けっ広げ...我が神は私の全てを見透かしているのです。
私自身が感じていたように、これは神の裁きというものと隣り合わせのものと言えます。
しかし、この恐怖の幕が開かれるや...救い、ゆるし、即ち愛以外の何ものも無かったのですi
"神は宇宙の法則だ、一神だ、多神だ"、とか神を他人行儀のように見ているものにはこの消息は絶対に分からないでしょう。
世に人格的関係と言われているものがあります。私は、この我が神との交流をおいて、そういうものを目の当たりにしたことがありません。
神的なものが生きて働かないところに、そういうものが生まれるはずなど無いのではあるまいか?
神の、人間の格というものが如何なるものなのかは分かりません。少なくとも人格として通常思われている、各人の後天的な性格といったものは、神との交わりの中では"消えてゆく姿"になってしまうのは確かなことです。
しかし、その中で秘密のベールが剥がれて、顕わとなる唯一無二の私の存在は否定しようのないものです。
人格の格とは、ある種の"核"といったものではないでしょうか?
それ無くして、私は私たり得ず、全てのものも又然り...それにあって現実在らしめられ、顕わならしめるもの...そこには神の核みたいなものがあるだけなのでしょう。
そこに言葉にならない、確信、核信がある...

私は今、これを私だけのために書いています。
ということは、これは他の誰でもないあなたのためでもあるのですi
その秘密はあなたの神が明かしてくれることでしょう。
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