人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の実体を超えて

2024-04-17 09:15:18 | 
いつも神に意識を向けるとか、取っ掛かりとしてそう意志して、自然に向いてしまうというようなことを言っていますが、これは、一般に瞑想修行などで精神集中、統一としてやっていることがほとんど努力無しに簡単にそうなる、ということを表しているのです。
瞑想における精神集中には、あるシンボルの図とか何かの音などを対象として意識を向けるということがある訳ですが、私の場合ほとんど神に向けられるのです。
そうでない場合は、“自分自身に“、ということもありますが、神に意識を向けると自分自身も意識されるようになるし、同じことと言ってもいいのですが、私には神に向ける方が自然に入りやすいのです。
これは、ずっと意識を意志想念を使って集中することとは全く違い、前回も触れた“中動態“的な在り方を示しています。向けることは向けられることなんです。
そして、このように神と自己は分けることは出来ない!
大雑把に言えば、“神に“という場合は祈りに、“自己に“という場合は、瞑想に対応していると言えるでしょう。
で、この神のことですが、どうしても普通の人は、神は万物の創造者、支配者であり、人間は被造物なんだから、従うしかないもの、という先入観、固定観念に囚われてしまうようですが、私はこの場合、ほとんどそういう観念で描かれ、信じられているようなものとして言い表したことはありません。
何回もくどく言っても分からないのかもしれませんが、神は私の思考を超えたもの...だからそれが何であるかは分からないのです!...分っからないかなあ!
しかし、何で私の思考を超えたものだ、ということが分かるのかと言うと、こんな分かりきったことはない!...そうなってしまうという事実があるからなんですよ!
超えせしめるものがある!...それを仮に神と呼んでいるまでです。
宗教的なものに抵抗があるのか、神を信じたくないという人も多いことでしょう。中には信じたらかえって不幸になったという人も...
信じたくなければ信じなくていい!...この神に意識を向けるということは、そういう表層的思いの在り様とは別のことであるのは言うまでもありません。
自分の思いを自分で超えようと“思うのなら“、トコトン気の済むまで、頭がパンクするまでやってみたらいいでしょう。
自分の思いが超えられてしまうことがどんなに“神った“ことであるか!...思いのがんじがらめで苦しんだ人間なら分かることです!
このことから私は、神の実体は分からなくても、ひしひしと神は実在、現存しているなあ、と感じてなりません。この意味で神の実体論は超えなければならないのです。
そして、思いを超えたものに意識的につながることで、幸福に与ることはあっても、不幸になることなどあり得ないですよ!
自分自身で居られることが何でそうならないとならないのか?!(境遇が何であれ、自分自身を生きていない人間は不幸なんだ!)
でも、中々自分からは自分自身に目覚めることが出来ないのも事実でしょう。
だから...あなたの神を求めたらいいのです!...

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神と偶像

2024-02-06 09:39:07 | 
「人間はその本性からして宗教的な存在であり、人間の魂は宗教なしには生きることが出来ない...人間は超越者への関係なくしては生きることが出来ない」
(ベルジャーエフ「共産主義とキリスト教」)

言うまでもなく、宗教と言えば神、神は信じ、祀られるものと思われているでしょう。
つまり多く神は、偶像と結びつけられているのです。神は本当は不可知なものであるにも拘わらず...
しかし、現実に宗教において信従されているものは、その教祖、教師、彼らが説く教義などなのです。これらが偶像視され、“神格化“されている訳です。
いや、宗教に限ったものでなく、ベルジャーエフが明らかにしたように、無神論を標榜する共産主義においても疑似宗教的な強い偶像崇拝が見られるのです。
又、私は、“我々がやっているものは宗教ではない“と謳っている、新手のスピ的な団体の教師、その教えもそうした傾向を持つ例を沢山知っています。
これらの教師たちが、普通に人間社会で語られるような、個人的見解を示しただけで、その言葉は何か絶対権威を帯びたように信従されてしまうのです。
要するに、神を信じようと信じまいと、宗教だろうとそうでなかろうと、神の内実性など全く問題にされず、人は自分を超えたものに依拠せずにおれないということなのです。
自分を超えたもの、見えない、捉えられない神は、見えるもの、捉えられるものに代用される...そうして人は自分の観念に囚われているのです。
神は...私は何度も言う...“自分の思いを超えたものである!“
先との言い回しの違いにご注意を!...自分の思いを超えるか否かで天と地ほどの違いがあるでしょう。
思いを超えるということは、実にこの囚われ、観念の隷属状態から自由になるということに他ならなのです!
宗教、疑似宗教問わず、何と本末転倒、歪曲した事態を現出していることか!
それでも人間は、その本性から超越者を求めずにいられないのです。
思われた一個なる自分がここに生きているのではないから!..生まれ出てくることさえ出来ないのです。
この自己実存の根拠から、超越者なしには自己は存在出来ないということに導かれるでしょう。
しかしそれは、自分以外の人間他者でも、人間が考えた神でもドクマでもないはずなのです。
しかし又、思っている自分からは、どうしても思いを超えることは出来ないのも現実でしょう。
真の超越者は、思いを超えたところから臨んでくる...それは、自己実存と切り離されてはいないのです。
こう言って、人間他者や人間が考えた神を信じること自体が偶像崇拝になる訳ではありません。
それを絶対視し、神格化してしまうことが偶像崇拝なのです。
偶像崇拝の何が問題なのか?...真に神的なものと一つになる、自己実現の道を閉ざすからに他なりません。そうでないならご自由に!、あなたが本当に自由なら!
あなたの神はその向こうに、又はあなたの中にあるのです。


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見えないけど感じられる

2024-01-15 09:57:16 | 
この度の震災のことでも、多くの人から、復興の早からんとことを、被災者の心が平安でありますように...など祈り、願いの声が聞かれました。
不謹慎な言い方ですが、何人の人が本当に神仏を信じているのかは分からないですが...
現実的に考えると神がその祈り、願いを叶えてくれるかどうかは分からないのです。
いや、神が実在するかどうかすらも、普通の人には分からないでしょう。
私にも分かりませんが、私は何度も祈ることで平安に与ることが出来ると言ってきました。
これは多く、神的なものに意識を向けることと結びつけられているのですが、神の実在が分からないのに何で向けられるのか?、という疑問を持たれる向きもあるでしょう?
だからね、向いちゃう、自ずと動いちゃうんだからしょうがないのです。
いや、これはもしかして、そういう学説があるように、エンドルフィンとかの脳内物質が働くためかもしれないのです。
何にしろ、これは意識的な領域と関わっているのは間違いないでしょう。
潜在意識というのか深層...そう超越意識!...どうやらそういう意識が活性化されるらしい?...神とかは関係無いのか?
いや、そうじゃない!...エンドルフィンだろうと、意識のことだろうと、アレコレ理屈づけて考え、思い描いている自分を超えたもの、与り知れないものであるのは同じはずなのです。
そして、理屈づけようとする人というのは、大体において神の実在を否定しようとするようなのです。
私が神の実在性について分からないということは、何度か言っているように、言い回しは微妙ですが、そういう実体があるものとして存在しているかどうかは、分からないということであり、そういう意味ではどちらかというと否定的なのです。
そういう実体は見たことがありません。だけど見える、見えないを超えて、愛、平安、リアリティが、そこに感じられる。いや、それは見えない...とどのつまりこちらの思いを超えたものだからこそ、そう、感じられて来るのではあるまいか?(ついでに言えば、エンドルフィンだって深層意識だってこの目で見た訳じゃありませんよ!)
そういうものが感じられる時、与っている時アレコレ理屈づけて考えている私など居ません!
それをもたらしているものは、あなたの思いを超えたものなのだ!
愛、平安、リアリティ...それは、思念の限界に突き当たり、思われた自分が木っ端微塵にならないと絶対に分からないものなのです!
神を信じられないのなら信じる必要はありません。思いの世界で信じたってしょうがないし、かえってそういう思凝念を強め、“現存“の道を閉ざすことにもなります。
要するに、自分がどう疑うことが出来ない(これが思いを超えるということ!)リアルなもの、現存するものに与るかどうかが重要なことなのです。
これをいつも神的な現存、現臨と言っているのに他なりません。
そして、人間は誰しも神を信じる者も信じない者も、危急な事態に直面するならば、自分の思いを超えたものに“思わず“意識が向いてしまうものなのではないでしょうか?...


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神は絶対的

2023-12-23 09:30:28 | 
神は絶対的である...
本当は、こういう言葉を無闇に表したりしないほうがいいのでしょう。
大体、絶対的なものなどこの世にあるだろうか?
絶対なる神という表現がどんなに人類に相克、混乱を引き起こして来ただろうか?
絶対という言葉は、絶対悪とも言えるのではないか?
それでも、私の中には、”私の神は絶対なるもの”と、どうしても言い表したいと感じてならないものがあるのです。
何故ならば、私の思いを無化させるものは、私の神の他に絶対に無いからです!
つまり、”○○は絶対である”という表現は、畢竟そういう思い、思考マインドから発している、ということであり、絶対的なものとは、人がそう思っているものではない、ということです。
多くの宗教では、今でも”この先生、この教えは絶対!”、などと信じ、説かれています。
神の存在も言葉では説かれていても、そこで信じられているものは、相対的な人間の言葉に過ぎず、実際には神はそこに生きてはいないのです。
生ける神がそこに臨んだなら、そうした相対的な信仰地獄から解放されることでしょう。
そうです、妄信、狂信的有り様は、実に思念に覆われた地獄世界であることを知らねばならないのです。
どんなに”私には思いがありません”、などと言おうが、それは所謂”思考停止”の状態のことを言っており、当人には無自覚らしい強固な思念の凝固の上に立ったもので、そこで自由に考え、内省する精神を失った状態になっているのです。
言い換えると、自己実存が思念で覆われ、光が差してこない状態ということ、これが思念地獄で無くてなんであろう...
逆説的ですが、実存的な地獄のような苦悩を抱えている方がどれだけマシだか知れません!
思考停止地獄には、苦悩を抱えるという自由すらありません。ましてやあの今生では与れないような至福など!
私が私自身である時に、あの思いを超えた、恩寵の光が差し込んで来るのです!
それは、私と真向かいに臨む、実存的な神から来る!...他の如何なるものもありません。
私が直接つながる神なのであって、宗教が説く、あの神やこの神のことではありません。
この意味で神は絶対的なのです。あなたにあってはどうかは知らない!
あなたは、あなたの絶対的な神に会い、つながればいいのです。絶対に人間が考え、信じている神にあなたを明け渡してはなりません!(これが思考停止状態)
又、本当に自分のすべてを明け渡すことが出来るのは、一人一人の実存的な神をおいて無いはずです。
そう、私と私の神との関係は独占的(モノポリー)なのです。
いや、そういうことを一人一人が歩んでいるんだっけ?...
私の神はすべての神でもある?...
いやいや、神はどこまでも私の思いを超えているので、絶対に分からないでしょう!...

コメント (2)
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神は祭り上げられる

2023-12-15 09:30:32 | 
神は私の思いを超えている
だから、神のことはほとんど知らないと言ってもいい
しかし、これまでどれだけ神について決めつけたように言い伝えられてきたことか!
ほとんどが人間が勝手に想像したもの

古来から神は何かの支配者のように信じられてきた
民族の、国家の、あるいは宇宙全体の...
神は何かの権力の象徴として祭り上げられてきた
権力者のその支配の道具として
”わが権威は人間を超えたところ、上からから来る、だから、お上には従わなければならないのだ”、と!...
同じように神は裁き主として祭り上げられてきた
悪行の報いは神が降す!
人間は人間を裁けないのか、裁くにはその上の、犯すことの出来ない法というものを作りださなければならない
律法、因果の法、何かの宇宙の法則
神とは、法、法則の代名詞らしい...
神は又、人間の欲望を叶えてくれるものとして祭り上げられてきた
御利益信心の道具として
それはいつも神棚から、上から落ちてくるらしい
そして神は又、人間の進化の到達点にあるものとして祭り上げられてきた
人間は絶えず神になるように、上を目指さなければならない
それには、低級な欲望は無くさなればならないらしい
もっと高級な、神に到達しようとする欲望に取って代わる
神はまったく人間を超えて、上にある存在
分からないものだけに、どんな人間の都合にも合わせられて、いつも祭り上げられる存在...

もし、神に本当のみ心というものがあったなら、どういう気持ちでおられるだろう...
私には勿論それは分からない...
でも、伝わってくるものがある
”分からなくてもいい!、感じて欲しい!”...
なんて言うのか...何か哀願のような切なるものを感じてならない
”私だけを見て、感じて欲しい!”
祭り上げられた神は、けっしてこちらに降りてこない、触れてこない、私のうちに入ってこない!
何も感じられない!
悲しい、とても悲しい!...あの哀願と相まって!
人間だけの世界は!
降りてくる、臨んでくる神が感じられたら
どんなに幸福なことか!
それを知らない人間はただ...
とても悲しい!...

涙が溢れてくる...
それとも、これは神を祭り上げて、無きものにしてきたことに対する懺悔の涙だろうか?
それとも又、神を目の当たりに感じた時の、あの随喜の絶頂の涙か?
それも、これも神は涙無しでは感じられない!
祭り上げられた神が、我々にへり下ってきたのなら!...







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