秋亜綺羅「あやつり人形」(「ココア共和国」2、2010年04月01日発行)
秋亜綺羅のことばはいつでも軽快である。明るい。そして、気ままである。「矛盾」のようなものが、ことばにスピードを与えている。「現実」をふりきるスピードを。
秋亜綺羅「あやつり人形」は小詩集「ドリーム・オン」のなかの1篇。その書き出し。
「完璧な暗闇で目をつむる」。なんのために? ふつう、目をつむると何も見えない。暗闇となんのかわりもない。それでも目をつむる。なんのために? 「見る」という行為を自ら放棄して、「現実」を見ないためである。完璧な暗闇では、目を開けていたら「見えない」という状態があるのであって、それは「見る」の否定形「見ない」ではない。
「見る」「見えない」「見ない」。その「見えない」と「見ない」とはまったく違ったことなのである。「見えない」は受動的な態度である。けれど「見ない」は能動的な態度である。
秋亜綺羅のことばは、何かを受け入れる形で動くのではなく、自分の意思で動いていくのである。「いま」を受け入れるのではなく、「いま」を拒絶していくのである。そのために、ことばを動かす。それは別なことばでいえば「いま」を逃走する、ということかもしれない。逃走するためには、どうしたってスピードと軽さが必要である。秋亜綺羅のことばが軽いのは必然なのだ。
「水溶性の映画がやってくる」の「やってくる」は受動的に感じられるかもしれないが、これはあくまで「目をつむる」という行為の先にあることがらである。それは「やってくる」というよりも、「呼び寄せる」ということに似ている。あるいは「選ぶ」ということに似ている。
だから、「世界でいちばん明るい場所がそこにある」は、偶然、「そこ」にあるわけではなく、自分の意思で(秋亜綺羅の意思で)、選びとったものとして、そこにあるということだ。「そこ」は秋亜綺羅がすでに知っている「場所」なのである。
そういう意味では、秋亜綺羅のことばは「いま」をふりきるだけではなく、「いま」より先にあるものをつかみ取る形で動いていく、と言い換えた方がいいかもしれない。
人間は「大地」を蹴って、歩く。走る。けれど、秋亜綺羅のことばは「空気」をつかみながら飛ぶのである。
軽いはずである。重くては飛べない。
このことばには「闇」と「明かり」が交錯している。交錯しながら、その交錯のなかで、新しいことばを探しているのだ。最初から書きたいことばがあるのではなく、翼で空気をつかむように、ことばでことばをつかみ、飛翔しようとしている。
それにしても、「地震」「震源」「電源」。「震」と「電」はなんと字が似ていることか。
私たちは「完璧な暗闇」ではなく電気で強いられた明るさを生きているが、その電気が、たとえば地震によって失われたとき、私たちは突然、歩けなくなる。足元をすくわれる。そして、電気にあらつられたいることを知る。そんなことが漢字のなかで、ぱっと動いて、ぱっと消える。
そして、「電気」というような、いまの現実の世界に絶対的に必要なものがでてきた瞬間に、そのぱっと動き、ぱっと消えるもののなかに、「現実」の「構造」がうかびあがりる。「現実」は「電気」に依存している。まるで、「電気」にあらつられているようではないか。
ここまでくれば「あやつり人形」に通じることば、「あやつる」が出てくる。そして、ことばは、さらに動いていく。
秋亜綺羅のことばでおもしろいのは、翼が空気をつかむようにして、ことばが先へ先へと手を伸ばしながら動くときに、そのつかみとることばが、「高踏的」なことばではなく、ひとがよく口にすることばであることだ。
「人生なんて人形芝居」「ひとがあやつり人形ならば」。
どこかで聞いたようなことば。歌謡曲のようなことば。むずかしいことばではなく、簡単すぎる(?)ことば。(「現実」をあやつっているのが「電気」というのも、まあ、ありきたり?の分析である。
そのために、秋亜綺羅のことばの「飛翔」は高い高い上空を飛ぶというよりも、「日常」を飛ぶというよりも、軽く浮いて、その浮力を突っ走るという感じがする。飛んでしまえば、それは「芸術」というかっこつきのことばになってしまう。飛んでしまわず、軽く浮きながら、疾走する。
このあたりの呼吸が、寺山修司の秘蔵っ子だった理由かもしれない。
「少女」は「女」は「おんな」であってはいけないし、「処女」であってもいけない。そういう「領域」のようなものを、秋亜綺羅は自然につかんでいる。
秋亜綺羅のことばはいつでも軽快である。明るい。そして、気ままである。「矛盾」のようなものが、ことばにスピードを与えている。「現実」をふりきるスピードを。
秋亜綺羅「あやつり人形」は小詩集「ドリーム・オン」のなかの1篇。その書き出し。
完璧な暗闇で目をつむると
水溶性の映画がやってくる
世界でいちばん明るい場所がそこにある
「完璧な暗闇で目をつむる」。なんのために? ふつう、目をつむると何も見えない。暗闇となんのかわりもない。それでも目をつむる。なんのために? 「見る」という行為を自ら放棄して、「現実」を見ないためである。完璧な暗闇では、目を開けていたら「見えない」という状態があるのであって、それは「見る」の否定形「見ない」ではない。
「見る」「見えない」「見ない」。その「見えない」と「見ない」とはまったく違ったことなのである。「見えない」は受動的な態度である。けれど「見ない」は能動的な態度である。
秋亜綺羅のことばは、何かを受け入れる形で動くのではなく、自分の意思で動いていくのである。「いま」を受け入れるのではなく、「いま」を拒絶していくのである。そのために、ことばを動かす。それは別なことばでいえば「いま」を逃走する、ということかもしれない。逃走するためには、どうしたってスピードと軽さが必要である。秋亜綺羅のことばが軽いのは必然なのだ。
「水溶性の映画がやってくる」の「やってくる」は受動的に感じられるかもしれないが、これはあくまで「目をつむる」という行為の先にあることがらである。それは「やってくる」というよりも、「呼び寄せる」ということに似ている。あるいは「選ぶ」ということに似ている。
だから、「世界でいちばん明るい場所がそこにある」は、偶然、「そこ」にあるわけではなく、自分の意思で(秋亜綺羅の意思で)、選びとったものとして、そこにあるということだ。「そこ」は秋亜綺羅がすでに知っている「場所」なのである。
そういう意味では、秋亜綺羅のことばは「いま」をふりきるだけではなく、「いま」より先にあるものをつかみ取る形で動いていく、と言い換えた方がいいかもしれない。
人間は「大地」を蹴って、歩く。走る。けれど、秋亜綺羅のことばは「空気」をつかみながら飛ぶのである。
軽いはずである。重くては飛べない。
マッチを擦って煙草に火をつけた
瞬きすれば使い捨てガスライターの時代が使い捨てられる
わたしの国の天井では電球から蛍光灯へと吊るし換えられた
わたしたちの命題は夜を暗闇に葬ることなのか
地震が起きて電源が失われる
わたしたちのあやつられる足はそのとき言語を失調する
このことばには「闇」と「明かり」が交錯している。交錯しながら、その交錯のなかで、新しいことばを探しているのだ。最初から書きたいことばがあるのではなく、翼で空気をつかむように、ことばでことばをつかみ、飛翔しようとしている。
それにしても、「地震」「震源」「電源」。「震」と「電」はなんと字が似ていることか。
私たちは「完璧な暗闇」ではなく電気で強いられた明るさを生きているが、その電気が、たとえば地震によって失われたとき、私たちは突然、歩けなくなる。足元をすくわれる。そして、電気にあらつられたいることを知る。そんなことが漢字のなかで、ぱっと動いて、ぱっと消える。
そして、「電気」というような、いまの現実の世界に絶対的に必要なものがでてきた瞬間に、そのぱっと動き、ぱっと消えるもののなかに、「現実」の「構造」がうかびあがりる。「現実」は「電気」に依存している。まるで、「電気」にあらつられているようではないか。
ここまでくれば「あやつり人形」に通じることば、「あやつる」が出てくる。そして、ことばは、さらに動いていく。
人生なんて人形芝居
ひとがあやつり人形にすぎないならば
この足は思想が足かせ
こちらの足は装置が足かせ
秋亜綺羅のことばでおもしろいのは、翼が空気をつかむようにして、ことばが先へ先へと手を伸ばしながら動くときに、そのつかみとることばが、「高踏的」なことばではなく、ひとがよく口にすることばであることだ。
「人生なんて人形芝居」「ひとがあやつり人形ならば」。
どこかで聞いたようなことば。歌謡曲のようなことば。むずかしいことばではなく、簡単すぎる(?)ことば。(「現実」をあやつっているのが「電気」というのも、まあ、ありきたり?の分析である。
そのために、秋亜綺羅のことばの「飛翔」は高い高い上空を飛ぶというよりも、「日常」を飛ぶというよりも、軽く浮いて、その浮力を突っ走るという感じがする。飛んでしまえば、それは「芸術」というかっこつきのことばになってしまう。飛んでしまわず、軽く浮きながら、疾走する。
このあたりの呼吸が、寺山修司の秘蔵っ子だった理由かもしれない。
少女はわたしにだけ唄う
あんたのこと好きじゃない
殺したいほど好きだけれど
ほんとは殺すほど好きじゃない
少女はわたしにだけ囁く
ねえ、あたしのそばにいてよ
あんたのそばに、いてあげるから
「少女」は「女」は「おんな」であってはいけないし、「処女」であってもいけない。そういう「領域」のようなものを、秋亜綺羅は自然につかんでいる。
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