詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和「たがましく」

2013-12-09 11:53:11 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井貞和「たがましく」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 藤井貞和「かだましく」(初出「文学界」2月号)はタイトルがわからない。わからないときは、どうするか。私はわからないままにしておく。わかるまで、待つ。--待ってもわからなければ、まあ、仕方がない。そのことばをつかわない。
 とりあえず、詩を読みはじめる。

震源は
震源は
のたうつ白馬(はくば)

 きっと東日本大震災のことと関係があるのだろう--と、私は「震源」ということばだけで、そう思ってしまう。それくらい東日本大震災は、いまの日本語に影響しているということだろう。
 「白馬」はわからない。福島にある地名は「有馬」。和合亮一は東日本大震災のとき、地下を馬が駆け抜けていくという感じのことを詩にしていたが、あの馬は白馬? 白はどこから来ている?
 わからないけれど、福島を私は思い浮かべる。仙台とか、ではなくて。いいかげんだね、私は。

爆発のあとの
あしたは 来るか?
ついに爆発

 ここでも福島を思い浮かべる。「爆発」は福島第一原発を連想させる。爆発のときの「白い」煙が影響して、1連目が「白馬」なのか。福島第一原発が「白馬」という比喩になっているのか。そうなら「のたうつ白馬」は「のうたつ福島第一原発」であり、それが「爆発」した、ということか。
 放射能汚染で「あした」はどうなるかわからない。
 
 そのあとは、うーん。わからないぞ。何が書いてあるんだろう。

確(しか)と
かだましく神か
神隠し まだかと

過失?
白馬に いつ?
軽く果たし
足(あ)の音(と) あの白馬

 「過失」は福島第一原発の「事故」を指しているかもしれない。「事故」ではなく、あれは「過失」なのだ。設計のミスであり、原発を造ったこと自体が「過失」だったのだ、と言っているのかもしれない。
 「過失」は馬のように速く走る。原発(白馬)の下に、和合亮一の書いた馬の群れが走るのか。そのために激震が起きるのか。地下から「足音」が響いてきて、地面をゆらすのか。
 「事故」だから「神」と関係があるのか。「神」が「事故」を起こすか。「事故」を起こすのは人間だろう。そのとき「神」は「隠す」ではなく、「隠れている」のかな。神が神を「神隠し」している。ということなら、この神はなんだろう。人間の味方をしない神とはなんだろう。
 邪神?
 だいたいこの2連が東日本大震災、福島第一原発と関係しているかどうか、その確証もない。
 そして、最終連。

爆発 歌の
反原子
半減し

 「爆発」「原子」「半減」が、やはり福島第一原発を連想させる。
 気がかりなのは「歌」。「歌」でいいのかな? 悲惨な現実は「歌」? また「歌の」はどこにかかることばなのだろう。何と関係しているのだろう。私は「原発 歌の」を倒置法とみて「歌の原発」と思ったのだが、なんだか落ち着かない。
 さっき引用した部分の「神」(神隠し)とちょっと似た感じ。人間に味方しない神なら、神ではないのでは? たのしい(よろこばしい)何かでないなら「歌」ではないのでは? 反・歌/非・歌かな? 何か奇妙なずれがある。
 「歌の/反原子」かな? 歌の「原子」ではないもの、それこそ、たとえば「よろこび」。福島第一原発は「よろこび」の反対のものをもたらした。あるいは、「よろこび」を「半減」させた……。
 何かよくわからないが、奇妙な歪みがある。

確(しか)と
かだましく神か
神隠し まだかと

 「かだましく」のなかには、私の知らない「ゆがみ」、ねじまがったものがある。邪悪な「神隠し」(善良な神隠しがあるかどうかはしらないが)のようなのもがある。それは「まだか」ではなく、「すでに」起こってしまったことなのだから、「まだか」も変だなあ。わからないなあ。
 わからないまま、あっ、と思ったのが、最後に「注」がついていたこと。

(うしろから呼んでも、「震源は……」)

 なるほど、これと一種の「回文詩」なのか。東日本大震災と福島第一原発を組み込んだ「回文詩」。
 で、それでは「かだましく」は? 逆さに読むと「くしまだか」。ふ・くしまだ、か? そこには「福島」が神隠しにあったように、隠されている?

 わからないぞ。わからないけれど、奇妙にねじ曲がった感じだけが浮かび上がる。--いや、浮かび上がるのではなく、私が浮かび上がらせているのかもしれない。わけがわからないまま、それでも、ことばから「意味」をつかみ取ろうとして、藤井の詩を、それこそ私がねじまげているのかもしれないのだが。藤井の詩がねじまがっているのではなく、藤井のことばを私がねじまげて東日本大震災と福島第一原発に結びつけようとしているのかもしれない。

 しかし、不思議だなあ。ことばあると、「意味」をつかみとろうとしてしまう。そして、その意味は、もしかしたら奇妙にねじ曲がっているかもしれない。藤井が書こうとしたことは、私が読み取ったものとは違うかもしれない。私は私が読み取りたいものを読み取るために、ことばをねじまげているのかもしれない。
 「かだましく」は、それとも福島の方言?
 よくわからないが、わからないけれど、そこに何かがある、と感じる。その「ある」感じの「ある」ということが、詩なのかもしれない。いや、それとも、こういう読み方をすることもねじまげの一種?

 (映画「ハンナ・アーレント」(2)の感想とつづけて読んでください。後半に、この詩の感想の追加のようなものを書いています。)


水素よ、炉心露出の詩: 三月十一日のために
藤井 貞和
大月書店

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