松浦寿輝「afterward」、和合亮一「詩の礫(つぶて)」(「朝日新聞」2011年03月29日夕刊)
東北巨大地震。松浦寿輝は「afterward」という作品を書いている。松浦もまた、ことばを待っている。
「悲嘆」「恐怖」ということばは使い古されたことばである。詩人独自の「意味」が含まれていない。それは「こごる」「ほとびる」という松浦のにおいのこもったことばと比較すれば、どれほど「安直」なものであるかわかる。しかし、私はいま「安直」と書いたのだが、それは仕方がないことなのである。そこで起きている「悲嘆」「恐怖」を松浦独自の肉体を通したことばにするには「時間」が必要なのである。そして、その「時間」がどれだけかかるか、「今は誰にも判らない」。
書けないなら、書かずに待てばいい――という考え方もあるかもしれないが、それではことばが動かなくなる。書けなくても書かなくてはならないのだ。書きながらことばをはげまさなければならない。
でも、何を書くか。書けることば、安直と言われようと「悲嘆」「恐怖」というような、誰もがとりあえず使うことば、すでにそこにあることばを書く。その「安直」を、あ、さすが松浦だね、私のようにそれこそ安直に、粗雑にいわずに、丁寧にことばを動かしている。それが次の部分。
「いつも通り普通に」。まず自分の肉体を「いつも通り普通に」戻すことをしなければならないのだ。それは、ことばを「いつも通り普通に」することである。私たちのことばは、いま、いつもとは違う。いつもとは違う形で動いている。松浦は「悲嘆」「恐怖」と書き、私はそれこそそういうことばを何も考えずに「安直」と批判したりする。その「批判」が的外れであることを知りながら・・・。「いつも通り普通に」松浦のことばを読んでいるのではない――そういうことが、わかる。わかりながら書き、書きながら、私は私のことばを「いつも通り普通に」動かせないかと思い、ああでもない、こうでもないと書くのである。
こういうとき、「私はただ背筋を伸ばし」ということばが出てくる――とは、私は実は松浦のことばから予想していなかった。そういう意味では、松浦は、巨大地震以後、たしかに変わってきている。影響を受けている。「背筋を伸ばし」と「肉体」を立て直すところから、ことばを立て直そうとしている。そのことがわかって、実は、私はとてもうれしい。「この場所にとどまり 耐えていよう」というのも、「肉体」ができることを正直にみつめたことばだと感じる。うれしく感じる。
松浦が、とても正直に動いている。「少なくとも保っているふりをする」と書くときの、その「ふり」に松浦の悲しみがある。「悲嘆」と書いてきたものを超える悲しみがある。それを「倫理」と言い聞かせなければならない「悲しみ」。
ここから、松浦のことばは「柔かくほとびて」動きはじめる――はずである。
*
和合亮一の「詩の礫(つぶて)」(ツイッターでの発言)が同じ朝日新聞に紹介されている。
短いことば。削り込んだことば。そのなかに「家に持ち帰り」ということばがさしはさまれる。これはきっと、いま、しか書かれないことばである。トマトを買う、それは家に持ち帰り食べるのが当たり前だから、普通は書かない。けれど、いまはその「いつも通り普通に」が成り立たない。だから「特別なことば」になる。いまの和合を刻印したことばになる。そういうことばを通って、ことばは正確に動く。
あ、それは「野菜」であって野菜ではない。それは和合であり、ことばをまだ「声」に出していない多くのひとたちなのである。「トマト」のなかで和合は、多くのひとと出会い、手をつないでいる。
こんなふうに、いま、ことばは動き始めている。
「熟れたトマトを持ってみて、分かった。」というのも感動的である。「持つ」という動詞、肉体とものとのつながり――すべてのことは「つながる」ことで「わかる」へと動いていくことができる。
いま、多くのひとが「つながる」ことを求めている。「つながる」ために動いている。
東北巨大地震。松浦寿輝は「afterward」という作品を書いている。松浦もまた、ことばを待っている。
悲嘆も恐怖も心の底に深く沈んで
今はそこで 固くこごっている
それが柔かくほとびて 心の表面まで
浮かび上がってくるのにどれほどの
時間がかかるか 今は誰にも判らない
「悲嘆」「恐怖」ということばは使い古されたことばである。詩人独自の「意味」が含まれていない。それは「こごる」「ほとびる」という松浦のにおいのこもったことばと比較すれば、どれほど「安直」なものであるかわかる。しかし、私はいま「安直」と書いたのだが、それは仕方がないことなのである。そこで起きている「悲嘆」「恐怖」を松浦独自の肉体を通したことばにするには「時間」が必要なのである。そして、その「時間」がどれだけかかるか、「今は誰にも判らない」。
書けないなら、書かずに待てばいい――という考え方もあるかもしれないが、それではことばが動かなくなる。書けなくても書かなくてはならないのだ。書きながらことばをはげまさなければならない。
でも、何を書くか。書けることば、安直と言われようと「悲嘆」「恐怖」というような、誰もがとりあえず使うことば、すでにそこにあることばを書く。その「安直」を、あ、さすが松浦だね、私のようにそれこそ安直に、粗雑にいわずに、丁寧にことばを動かしている。それが次の部分。
それまで 私はただ背筋を伸ばし
友達にはいつも通り普通に挨拶し
職場ではいつも通り普通に働いて
この場所にとどまり 耐えていよう
「いつも通り普通に」。まず自分の肉体を「いつも通り普通に」戻すことをしなければならないのだ。それは、ことばを「いつも通り普通に」することである。私たちのことばは、いま、いつもとは違う。いつもとは違う形で動いている。松浦は「悲嘆」「恐怖」と書き、私はそれこそそういうことばを何も考えずに「安直」と批判したりする。その「批判」が的外れであることを知りながら・・・。「いつも通り普通に」松浦のことばを読んでいるのではない――そういうことが、わかる。わかりながら書き、書きながら、私は私のことばを「いつも通り普通に」動かせないかと思い、ああでもない、こうでもないと書くのである。
こういうとき、「私はただ背筋を伸ばし」ということばが出てくる――とは、私は実は松浦のことばから予想していなかった。そういう意味では、松浦は、巨大地震以後、たしかに変わってきている。影響を受けている。「背筋を伸ばし」と「肉体」を立て直すところから、ことばを立て直そうとしている。そのことがわかって、実は、私はとてもうれしい。「この場所にとどまり 耐えていよう」というのも、「肉体」ができることを正直にみつめたことばだと感じる。うれしく感じる。
心の水面を波立たせず 静かに保つ
少なくとも保っているふりをする
その慎みこそ「その後」を生きる者の
最小限の倫理だと思うから
松浦が、とても正直に動いている。「少なくとも保っているふりをする」と書くときの、その「ふり」に松浦の悲しみがある。「悲嘆」と書いてきたものを超える悲しみがある。それを「倫理」と言い聞かせなければならない「悲しみ」。
ここから、松浦のことばは「柔かくほとびて」動きはじめる――はずである。
*
和合亮一の「詩の礫(つぶて)」(ツイッターでの発言)が同じ朝日新聞に紹介されている。
5日ぶりの買い出しをする。トマトを買おうと思った。余震。店外退避。戻る。トマトを買う。家に持ち帰り、塩を振ってかじりつこうか。熟れたトマトを持ってみて、分かった。野菜が涙を流していること。(23日)
短いことば。削り込んだことば。そのなかに「家に持ち帰り」ということばがさしはさまれる。これはきっと、いま、しか書かれないことばである。トマトを買う、それは家に持ち帰り食べるのが当たり前だから、普通は書かない。けれど、いまはその「いつも通り普通に」が成り立たない。だから「特別なことば」になる。いまの和合を刻印したことばになる。そういうことばを通って、ことばは正確に動く。
野菜が涙を流している
あ、それは「野菜」であって野菜ではない。それは和合であり、ことばをまだ「声」に出していない多くのひとたちなのである。「トマト」のなかで和合は、多くのひとと出会い、手をつないでいる。
こんなふうに、いま、ことばは動き始めている。
「熟れたトマトを持ってみて、分かった。」というのも感動的である。「持つ」という動詞、肉体とものとのつながり――すべてのことは「つながる」ことで「わかる」へと動いていくことができる。
いま、多くのひとが「つながる」ことを求めている。「つながる」ために動いている。
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