詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金原まさ子句集『遊戯の家』

2010-11-18 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
金原まさ子句集『遊戯の家』(金雀枝舎、2010年10月12日発行)

 私は俳句をまったく知らない。リズムとして五・七・五でできていることや季語が必要なこと、芭蕉や蕪村が有名ということくらいは知っているが、それくらいである。どんなひとがいま俳句を書いているかまったく知らない。金原まさ子という人もはじめて聞く人だ。
 読みはじめてすぐ、そのリズムがとても新しいと感じた。

春暁の母たち乳をふるまうよ

 巻頭の一句である。若い人なんだろうなあ。私はどんな作品も声に出して読むことはないが、「母たち乳を」の「たちちち」というた行の音の動きに、いままで聞いたことのない音を感じた。「ははたち」というのも意識しないと発音できない音である。「はは」の後ろの「は」が意識しないと「わ」にくずれそうになる。それをふんばって「は」と発音したあと「た」と明るい音「あ」の母音が受け(「はは・た」と3連続で「あ」の音がある)、そのあと「ちちち」とつづく。破裂音と「い」の同じ組み合わせ。それから「ふるまうよ」と一転してなめらかな音になる。「しゅんぎょうの」から読み返すと、漢語・濁音の強い音から始まり、音が三度(あるいは四度?)変化していることに気がつく。こんな激しい変化は若い人しか書けない、と思った。
 ところが金原は九十九歳である。帯に「九十九歳の不良少女」と書いてある。「十九歳」の誤植だろうと思ったが、1911年生まれと「略歴」に書いてあるから、きっとそうなんだろう。私は2010-1911=99が最初計算できずに、こっちの方も誤植に違いないと思ったのだった。
 ことばは年齢は無関係である、というのは「頭」では理解できても、実際に、こんなふうにして、そのことばに触れると驚いてしまう。「ことばと年齢は無関係」ということを、私は「頭」でしか把握していないのだ。「肉体」にしきれていないのだ、と反省した。

 脱線してしまったが、ともかく、この句集は「音」がおもしろい。

真空に入り揚雲雀こなごな

 気に入ったものに○をつけながら句集を読んだが、最初に○をつけたのが、これである。「こなごな」という音が乾いていて気持ちがいい。この乾いた感じが「真空」とぴったり合う。音は「五・八・四」と変則なのだが、最後の字足らずの、飛び散った感じも「こなごな」に合っていて、新鮮な感じがする。
 何度も書いて申し訳ない感じがするが、どうみても十九歳の、つまり学校で宿題が出たので仕方なしに俳句をこしらえてみたが、こんな感じになってしまった、という雰囲気がある。そして、いま書いたように、悪くいえば「こんな感じになってしまった」なのだが、非常に印象に残る。これ、失敗作? それとも斬新な傑作? 私は俳句の門外漢だから、そういう「判定(?)」はせず、ただ、あ、この音の動き、おもしろいじゃないか。みんなもっとこういう感じで俳句を作れば楽しくなるのに、と思うのである。

丸善を椿が出たり入ったり

 赤い椿だね--と私は勝手に思ったが、春になって強烈な赤が丸善の自動扉(と勝手に想像する)を行き来する。かかえているは、やっぱり十九歳の不良少女である。(私は、ずーっと十九歳と思い込んでいて、感想を書こうとしてふと帯をみたら「九十九歳」とあって、びっくりしたのだった。)突っ張った感じの不良少女には赤がよく似合う。そして、その赤が、なんの不安をかかえてか丸善を出たり入ったりする。その動きが美しい。また、「出たり入ったり」の音も新鮮である。「入ったり」は5音なのかもしれないが、促音の関係で私の実感(肉体感覚)では4音と半拍。そして、それは「丸善を」も同じ。「ん」があるので4音と半拍。「つばき」という音は重たいので「中七」がもったりするのだけれど、それをサンドイッチのように4音半が挟んで軽快になる。この軽いのだか重いのだか、揺れるリズムも十九歳の不良少女にぴったりだなあ、と私は感じてしまうのである。(きっと中年男の妄想がまじっているね、この感想には。)

 はっ、と思ったのは次の句である。

細螺(きしゃご)になった水やりを忘れてから

 リズムが何か違う。その直前に「日本タンポポ引金に指がとどかない」は十九歳だが、「細螺」の句は何かが違う。「細螺」ということばの影響もあるかもしれないが「水やりを忘れてから」が若者のことば、リズムとは明らかに違う。「水をやり忘れてから」なら十九歳だが「水やりを」は十九歳は言わないだろう。(これはあくまで私の語感だけれど。)「細螺になった」の「なった」は、もしかすると「わざと」選んだ口語なのかもしれない、と急に思ったのだ。
 「わざと」というのは、西脇が詩とは「わざと」書くものである、というときにつかう「わざと」なのだけれど。
 金原にはことばを無意識につかうという感覚はないのだ。俳句はあくまで意識的につくるものなのだ。そのことを意識していると、私は「細螺」で感じた。そして、この意識化は若い人じゃないなあと直感した。十九歳という感じを、あ、修正しなければいけない、と思ったのだ。

階下(した)にひとり二階にふたり牡丹雪

 この句で、この人はベテランだとわかった。そして、略歴を見て、え、何歳? 2010-1911って、いくつ? わからない。直感として数字が入ってこない。そのあと、帯を見て、九十九歳? 間違えていない? と思い、念のため計算して九十九歳であることを確かめた。確かめたが、こんどは十九歳以上に、その年齢にびっくりしてしまう。
 俳句をどう読んでいいのかわからなくなる。
 あ、もう、年齢は忘れよう--と、それからようやく思ったのだ。
 この句、階下→二階、ひとり→ふたりと自然に視線が上を向いていく。その視線の先に(家の中からは見えないのだけれど)、屋根があり、しずかに牡丹雪が降っている。降り積もっている。視線が下から上へ向かうのとは逆に、雪は上から下へ降ってくるのだけれど、それがちょうど屋根で出会う。そのときの牡丹雪のやわらかさ。あたたかさ。自然でいいなあ、と思う。
 
 落ち着いて(?)読み返すと、以下の句がいつまでも強くこころに残る。

焼却炉よりさめのかたちが立ち上がる
            (「さめ」は原文は、魚偏に養う。「ふか」かもしれない)

 愛しい人が亡くなった。その火葬場での印象だろう。さめの生命力。命の、すさまじい力が、まさに「立ち上がる」という感じになるのだと思う。

かわたれや見るなの部屋の燕子花
寝てからも守宮の足のよく見える

 ガラスまでとはりついている守宮。ひらがなの「も」の字になっている。孤独な感じ、孤独が通い合う感じが、「足」と具体的に書かれていて、しんみりと感じる。

うすやみがそっくり夕顔に入りゆくよ
凝っとしているとノギクは熱を持つ
象色の象のかなしみ月下のZOO
もぎたてを食べると木苺はにがい
すれちがうときフムと花虻牛虻は

 「五七五」を踏み外すとき、そこに不思議な「未生」のリズムが動く。それは、熟練の成果なのだろうけれど、あ、やっぱり若い美しさ、十九歳の不良少女の純粋さなのだと思うことにしよう。


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2 コメント

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Unknown (柴田千晶)
2010-11-18 10:50:14
谷内修三さま
『遊戯の家』の句集観賞、ありがとうございます。この句集は金原さんの過去2冊の句集よりも過激で自由です。「十九歳の不良少女の純潔さ」という言葉は、この句集にかかわったものとして嬉しいです。
感覚が若すぎる (駿)
2011-02-18 13:26:49
 句会のちしろ先生がべた褒めされました。借り物でない感覚の句ですね。私は大胆な飛躍が出来ません。うらやましい。

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