詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「春」

2014-03-14 11:21:38 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「春」(「谷川俊太郎のポエメールデジタル2014年2 月28日発行 vol.16 )
(谷川俊太郎公式ホームページ『谷川俊太郎.com』:http://www.tanikawashuntaro.com/)

 谷川俊太郎「春」は、何でもないことが書かれている--誰もがふと口にするようなことが書かれている。1連目は、子供がよく言う「論理」まがいの表現に似ている。

何もしていない
息だけをしている

 経験あるでしょ? 「何してる」「何もしていないよ」「うそつけ、息してるじゃないか」。ちょっと反論できないけれど、「息している」って、それは「していること」? たぶん「していない」こと。そして、このときの「している/していな」「する/しない」は「意思」の問題だね。息はしようとしてしているのではない。肉体が自然にしている。息を意識的に動かすのは、レントゲンで胸の写真をとるときとか、水中に潜るときとか、限られている。
 というようなことは、書きはじめると、ただうるさいばかりだ。
 こういうことは、書かずに、あ、そういうことがあるね。そういう反論があるね、というくらいの、軽いお喋りだ。
 ただし。
 このお喋りは軽く見すごしてはいけない。ここには、深い深い「意味」がある。「意味」というのは、私の考えでは、まあ、でっちあげたもの。どうにでもなるのものだけれどね。という前置きをして、私は、強引にこんなふうに言う。
 これは軽いお喋り。で、そういう軽いお喋りをするとき、人は相手と「軽い何か」、たとえば「軽い空気」のようなものを共有する。「いっしょにいる」という「気楽な感じ」。それを人は共有する。「意味」なんか考えないけれど、考えないまま、「いっしょにいる」ということがわかる。「いっしょにいる」というのは、そして不思議なことだけれど、「いっしょ」ではないものも、ある、ということ。
 あ、少しずれてしまったかなあ。
 それはたとえば、何もしていない(随意筋)で体を動かしているのではないけれど、肉体のなかには随意筋のほかに不随意筋があって、それは「意識」とは無関係に肉体を維持するために動いている、という感じとちょっと似ている。意識しないものがいっしょにあって、その働きによって、いま/ここに自分がいるという感じに似ている。
 ほんとうの友達(気の置けない友達)というのは、ちょっと「不随意筋」に似ている。無意識によりそっていて、たいていのときは気がつかないのだけれど、「何もしていない」「息をしているじゃないか」というような軽いお喋りの形で、ふっとそこに「いる/ある」ことがわかってくる。
 そういう「深い意味」が、実は、ここにあるわけなんです。

 まあ、いま書いたのは、「息しているじゃないか」という「反論」のように、一種の「じゃれあい」の哲学だね。「じゃれあい」の思想だね。重要じゃない。けれど、私はこういうものを大切にしたいという気持ちがある。
 また脱線した。

 さて、2連目。その最初の2行。

手は何かしたがっている
足はどこかへ行きたがっている

 書かれていることは「わかる」。「わからない」ことばが何一つない。
 でも、この「わかる」を、じゃあ、どんなふうにわかったかと説明しようとすると難しい。手におえない。
 「随意筋/不随意筋」ということばを利用して考えると、「手は何かをしたがっている」というのは「手の随意筋」の思い? 「不随意筋」の思い? 「不随意筋」というのは「意思」とは関係ないから、何も思わないのだから、それが何かを「したい」と思うわけがない。では、手の中の「随意筋」? 
 うーん。違うなあ。
 何かをしたいと思うのは、あくまでも「人間」。手も「人間」の一部だけれど、手が何かをしたがるわけではない。
 あ、でも、そうとも言えないなあ。
 美しい絵の具を見る。それをどこかに塗りたくりたい。手が、そうしたがっている。新しい機械がある。手が、機械を動かしたがっている。そう感じるときがある。いちいち「頭(意思)」をつかうのではなく、「意思」をほったらかしにして、まず「手が動きたい」と思うときがある。
 足も同じ。広い野原。太陽がいっぱい。走りたい。それは「意思」(随意筋を動かすという意識)とは関係がない。「意思」は逆に走るな、と言っているかもしれない。けれど、足は走りたいと叫んでいる。そんな感じのときがある。
 これ、「わかる」ね。
 「わかる」けれど、じゃあ何がわかったのか、ことばじゃ言えない。ことばではなく、手や足、つまり「肉体」が反応しているのかもしれない。「肉体」でわかることがあるのだ。

 ここで、私がいつも引き合いに出す例をまた書いておこう。
 誰かが道に倒れて腹を抱えて呻いている。あ、腹が痛いんだ、と「わかる」。他人の痛み、他人の肉体の痛みなのに、「わかる」。「肉体」が反応するのだ。共感するのだ。何かを共有するのだ。
 そういう「肉体の共有する何か」に触れてくることばというものがある。
 谷川のことばには、そういう不思議な力がある。

 2連目の、残りの2行。

頭は考えたがっている
心はなかなか空っぽにならない

 うーん。
 ほんとうに、うーんと唸るしかない。
 「頭」と「心」っ、どう違う?
 これも、説明しようとすると、うまく言えない。でも、

心は考えたがっている
頭はなかなか空っぽにならない

 とは、このとき、言わないねえ。「頭が空っぽになる」という表現がないわけではない。衝撃的なこと、うれしいことがあると「頭が空っぽ」になることがある。そのとき「心は空っぽになる」とは言わない。
 なぜだろう。
 「心が空っぽ」になるというのは「無心」ということかもしれない。「空(から)」と「無」がどこか重なり合う。
 「頭が空っぽ」はどうかな? 「頭が真白になる」「頭が空白になる」とは、言うなあ。そのときの「空白」の「空」は、「無心」の「無」? 「真白」というのは「色がない」という意味でもある。そのときの「ない」は「無心」の「無」?
 厳密に考えると「わからない」。でも、きっと通い合うものがあるんだろうなあ。

 その通い合うものを、ぱっとつかんできて、

頭は考えたがっている
心はなかなか空っぽにならない

 すーっと読んでしまう。その通りと思ってしまう。このとき、私は「考えている」のではない。「無意識」だ。「無意識」に何かを谷川と「共有」している。それは、人間の誰もが「不随意筋」と無意識に生きているのに似ている。
 と書いてしまうと、ちょっと、強引?

 谷川の、この「春」という詩は、とりたてて何か新しいことが書いてあるという感じはしない。ふと感じることをそのまま書いているように思える。でも、なぜ、こんなふうに誰もが思うこと(私がふと思うこと)がそのまま谷川のことばとしてそこにあるのか。そのことを考えると、何を言っていいかわからない、変な気持ちになる。
 自分で書いたのなら、それでいい。そう思うことがあるのだから。でも、なぜ、谷川が私のふと思うこと、無意識で思うことをことばにしている?
 おかしいよね。
 おかしいけれど、それは考えはじめるとおかしいのであって、詩を読んでいるときは、あ、「わかる」。これと同じことを思う、という感じ。「共感」しているだけ。何かを「共有」している、という感じ。

 あ、こんなこと書かずに、「谷川のこんどの詩は春の気持ちがいい感じで書かれている」とだけ言えばよかったのかもしれないなあ。
 (詩には、私が引用していない部分、後半があります。ポエメールを購入して読んでください。)


自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店

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