詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩・廿楽順治、版画・宇田川新聞「鉄塔王国の恐怖」

2012-02-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
詩・廿楽順治、版画・宇田川新聞「鉄塔王国の恐怖」(「現代詩手帖」2012年02月号)

 詩・廿楽順治、版画・宇田川新聞「鉄塔王国の恐怖」は詩と版画の組み合わせなのだが、ここでは詩についてのみ引用する。また、廿楽の詩は特殊な形式で書かれているが、ネットでは再現がむずかしいので、行頭をそろえた形で引用する。(どのような配置になっているかは、「現代詩手帖」確かめてください。)

 廿楽のことばは、きのう読んだ瀬尾育生のことばの対極にある。簡単に言うと「非論理的」である。ただし、この「非論理的」というのは「論理」の中心にあるのものが瀬尾のものとは違うということである。「論理」をつらぬく運動のエネルギーが瀬尾のものとは違うということである。廿楽は廿楽で「論理」がある、と言うに違いないからである。
 では、なぜ「非論理的」というか。
 これはいいかげんな言い方になるが、瀬尾のことばの運動、強靱な精神による自己統一の方が、現在の日本では論理の姿であると思われているからである。(まあ、これは私の印象だから、異論はあると思う。)純粋なことばの整合性。構築力。完結性。そういうものが、まあ「論理」をリードしていると思う。どれだけ明確な、そして巨大なことばの「建築物」を構築できるか(構築しているか)--によって「論理性」の優劣(?)が判断されているように思う。その力によって、どれだけ精神に新しい領域を切り開くことができるか、ということが「論理」の評価の分かれ目になっているように思う。
 そういうものが「論理」だとすると。
 廿楽のことばは、そういう方向を目指して動いていない。だいたい「新しい」何かを切り開こうとしていない。廿楽は、忘れられたものを拾い上げ(すくい上げ)、こんなものがまだあるよ、という。「新しさ」ではなく「古さ」--あ、「古さ」でもないなあ、「古さ」なら、もっと強烈だ。「古さ」にもならない、残滓のようなものを、まるで絞りきれない贅肉の脂のように見せつける。「肉体」の「くせ」を見せつける。「肉体」の「くせ」を生きていることばを、ていねいに存在させる。
 簡単に言いなおすと。
 瀬尾のことばは「知性」で動く。だから「論理的」。廿楽のことばは「知性」ではなく「肉体」で動く。だから「非知性的」、つまり「非論理的」。

 こんなことを書くと廿楽に怒られそうだけれど。
 まあ、これは、特徴を浮かび上がらせるための「方便」だから、見逃してね。
 これから「方便」を言いなおすからね。

 つまり……。
 で。
 その「非論理的」な「肉体のくせ」。これは「知性」や「精神」から見ると、それは「肉体」が「覚えている確かなもの」。そして、その「確かさ」が「論理」の基盤。「精神・知性」なんて、見えない。存在しないかもしれない。でも「肉体」は見えるねえ。ふつうに話していることば、日常の会話は、ことばは、まあ見えないけれど、それを話している人間が見える。手で触れる。なんとなれば、「ばかやろう」と怒鳴って殴ることだってできる。そこにある「肉体」の「確かさ」。そのときの「肉体」の「逃げ方」(叩かれる一方はいやだからね)。
 これって、とっても本能的でしょう? 本能というのは、いのちの論理(?)の基本でしょ?
 変に見えても、肉体の本能の方が「論理的」。精神の運動なんて「非実在的」。
 そうだねえ。
 廿楽の「論理」というのは、それが「存在する(実在)」かどうかなんだなあ。その存在を「肉体」で確かめられるか。体験できるか。そして体験したことを「肉体」が覚えているかどうかということなんだなあ。
 「肉体のくせ」は私がさっき書いたのは、こういうことを考えていたから。
 ほら、誰かが歩いてくる。暗くて顔は見えない。でも、歩くときの「くせ」で、あ、あれは誰それだとわかるときがあるでしょ? 特に親しい人なら、はっきりわかる。「肉体」が「覚え込んでいる歩き方」--そういうものが、「ことば」のなかにもある。その「覚え込んでいるくせ」が、その人間が生きている「確かさ」なのだ。
 それはつまらない(?)無意識かもしれない。でも、それは、「意識」を超越して「無意識」にまで昇華された思想なのだ、哲学なのだ、と私は思う。
 こんなことをくだくだ書いていてもしようがないので、具体的に作品を読んでみる。「不思議な尾行」。

わたしたちはだんご状になることのほかえらべない
団をなすのはたのしいね
死んだひとのうしろを隠れてつけていく
(気をつけろ、影はふむな)
死んだやつらはみんなうたがわしい
あれは怪人だからな
すこし離れて尾行しなければならない
あ、曲がった
人生の曲がり角だ
(そんなわけはない)
見失わないよう
おれたちも身をあやしくして曲がっていく
ぬかるな
せたがやの一生はとてもくらい

 ふいに、「肉体」が覚え込んでいる何かが噴出してくる。たとえば、2行目。「だんご状態になるほかえらべない」という人生はつまらないはずだが、そういうときだった「団をなす(群れる、あるいは団欒する)」という「たのしみ」はある。そういうことを、そういうときにいう奴がいる。
 誰かを尾行する。そのとき、4行目のように「気をつけろ、影はふむな」(影をふむような近さに近づくな--ということなのだけれど、でも、ほら、影を踏んだら影に気づかれ、相手にも気づかれるぞ)と注意する声がする。その声のなかにある「影もふまれたことを気づく」という「不安」。こういうのは「非論理的」だけれど、「肉体」には現実に感じられるねえ。そういう注意をする人がいるねえ。

あ、曲がった
人生の曲がり角だ
(そんなわけはない)

 まるで漫才だが、ことばはそんなふうにして現実に動いている。だれもが、ちょっと気の利いたことをいい、またはぐらかす。「肉体」はそういう体験を覚えていて、それを発揮しなければならない「場所/時」ではないにもかかわらず、そういう具合に動いてしまうときがある。
 そのとき、私たちは、そのひとの「くせ」、そして「肉体」を見ている。
 その「なつかしさ」が廿楽のことばにはある。
 絵は引用できないが、宇田川新聞の版画にも、そういう不思議ななつかしさがある。あ、これ知っている。「覚えている」という感じのなつかしさ。その「覚えている」は、その絵(版画)によって呼び覚まされるものであって、私自身はえがけないけれどね。
 あ、廿楽のことばも、「あ、これ、こういう具合に動く肉体とことばを覚えている」という感じなのだ。その廿楽のことばも、まあ、私には書けない。書けないけれど「覚えている」。
 これは--話が少し脱線するが、きっと他人の肉体を見た時の反応と同じだね。
 「できない」ではなく「できる」ことを例にするとわかりやすいかもしれない。
 たとえば誰かが自転車をこいでいて倒れそうになる。その瞬間、見た瞬間、あ、ハンドルをこうして、ペダルにぐいと体重をのせて、と「肉体」が叫びそうになる。誰かの「肉体」(私のものではない肉体)に、私の肉体が反応してしまう。
 その裏返しのようなことが、廿楽のことばを読むと起きる。「覚えている」何かが動きはじめる。
 そういえば、そうだったなあ。
 この感覚のなかには、とても多くの人間の肉体が同居している。私たちの肉体はそれぞれひとつに限定されているにもかかわらず、その「ひとつ」を越えて、しかも「ひとつ」である「肉体」の--その矛盾した何かがある。

 「小林少年の危難」も、とてもおもしろい。

こだやしくん、きみはあぶない
(こばやしです)
こどもができないのはきみが言葉だからで
根をたやしてはならないぞ
助詞も
この舶来の紅茶も
わかったね、ねだやしくん
(こばやしです)
きみ
ちいさいことにこだわってはいけないな

 こんなやりとり聞いたことがあるでしょ? 最後の「きみ/ちいさいことにこだわってはいけないな」なんて、一種の「常套句」だけれど、この「常套句」と同時に、誰かの顔、誰かの口調そのものが思い出されない? それは「知性」が覚えていることがらではなく、「肉体」が覚えていることだ。耳が覚えていて、その覚えていることが目を刺激し、脳も刺激する。
 このときの「覚えている」の「覚え方」--それが廿楽の「思想(肉体)」だね。





化車
廿楽 順治
思潮社

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