詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

颯木あやこ「観覧車とDavidともう一人」、森本孝徳「盗汗をかかぬために」

2016-05-08 09:25:25 | 詩(雑誌・同人誌)
颯木あやこ「観覧車とDavidともう一人」、森本孝徳「盗汗をかかぬために」(「現代詩手帖」2016年05月号)

 颯木あやこ「観覧車とDavidともう一人」は日本詩人クラブ新人賞受賞第一作。

乳房とペニスのある
David
灯台から
花粉を撒いて

すべての春 唱和

錆びた観覧車は
さいごの回転を終える

おもいおもいの表情(かお)で
降りてくる人たち

観覧車が 雪のように溶けてゆく

私の内は がらんどう
底には
透けた花が 群生して

 これは前半。「動詞」の動きが不規則(?)である。
 「撒いて」「群生して」という中途半端な「動詞」の動きがある。「撒いて」、それからどうするのか。「群生して」、それからどうするのか。ことばのつながりがよくわからない。
 一方、「終える」「溶けてゆく」という完結した「動詞」がある。これは「主語」が「観覧車」。
 もうひとつ、「唱和(する)」、「降りてくる(人たち)」という「体言(名詞化した動詞)/連体形」の形もある。
 さて、どう読むべきなのか。
 私は「撒いて」と「群生して」が、ここに書かれている「主語/主役」と密接な関係にあると感じた。「花粉」「透けた花」と、その動詞には「花」ということばがついてまわっている。「花」が「主語(主役)」かもしれない。
 「観覧車」は「風景」かなあ。「唱和する/人たち」「降りてくる/人たち」も「背景」のように感じられる。完結している。閉じている。
 完結していない(?)「撒いて」「群生して」が、たぶん、この詩のことばを動かしている「主語/主役」と密接な関係があるのだと思う。

乳房とペニスのある
David

 乳房は女性の象徴/比喩。ペニスは男性の象徴/比喩。その両方がある、言い換えると両方をもつ「David」。Davidは男の名前に見えるが、名前とは関係なく男性/女性の両方の象徴をもっている。両性具有、と言っていいのかどうか、わからない。どちらにもなりうる存在だろうか。しかし、そのことばに「灯台」がつづくと、ちょっと様子が違ってくる。「灯台」は「ペニス」を言い換えたもののように感じられる。そう読むと、「花粉を撒く」は「精液を撒く」にかわる。「撒く」という「動詞」が精液を呼び出す。「蒔く」ということばにも変化する。「乳房」は男性をあらわすとはいいにくいが、ほかのことばは男性と強く結びついている。
 一方、「私」はどうか。「内は がらんどう」。これは妊娠していない状態の「子宮」かもしれない。そこには結実してない「花」(未受粉)の花が咲いている。「群生している」。そう読むと、後半に登場する「私」は女性に見えてくる。
 ここには「David」という男性と、「私」という女性がいる。その二人が出合っている、ということなのだろう。
 では、なぜ「David」に乳房があるのか。
 書き出しの、この「乳房」こそが、この詩のテーマかもしれない。
 「David」は男。けれど、「私」は「David」に男だけではなく、女も見ている。Davidのなかに「女」がいるからこそ、「私」は一種の「安心」を感じているということだろうか。「私=女」であることをDavidのなかの「女」が理解している。その「理解」の前で、私は女であることを、女に語るように気楽に語る。「がらんどう」と「透けた花」を語る。
 あるいは、女である私はDavidに出合った瞬間、Davidとして自分自身を見つめたということか。乳房(女)である私は、Davidのペニスによって、さらに女であることを自覚した。男になって、私の「女」を見つめた、ということか。
 Davidは「彼」であると同時に「私」でもある。出合うことで、どこかで「融合している」。
 「花粉を撒く」ことと「花が群生する(花が開いてる)」ことは、別々のあり方ではなく、「花粉を撒くから、花は開いている」であり、「花が開いているから、花粉を撒く」ということなのだろう。二つは、切り離せない。「動詞」は個別に完結しえない。関係を固定するのではなく、時系列(?)を入れ替えながら、そこにある「時間」そのものを読む必要があるのかもしれない。二つの「動詞」は、連続し、循環することで、「ひとつの動詞」になる。その「接続」と「循環」をあらわすために、「撒いて/群生して」という中途半端な形で、開かれて、そこに動いている。動いている途中の動詞なのだ。
 (この動いている途中、入れ替わり循環する動詞のあり方が「観覧車」という「比喩」になっているのかもしれないが、よくわからない。)
 で、この「接続/循環する動詞」のあり方というのが、最後の

春のつぎに また 冬がくる
そんな年に
私は信じた
ふたりを 同時に

 という形で象徴的に語られるだと思う。「ふたり」は「乳房をもったDavid」と「ペニスをもった私」。「同時に」存在するしかない「恋人」ということになるのかもしれない。
 途中に出てくる「少年」ということば、「Davidと彼とのあいだ」という表現を中心に考えれば「David」は「少年/青年」という「ふたり」なのかもしれないが、私は「恋」そのものが「ふたり」に「分節」されて動いていると思いながら読んだ。



 森本孝徳「盗汗をかかぬために」はH氏賞受賞第一作。
 私には読めない漢字がある。私のワープロでは表記できない漢字がある。アルファベットのルビがあり、ひらがなのルビもある。
 私はどんなことばでも「動詞」を基本にして、その「動詞」に自分の「肉体」を重ねれば、そこに書かれていることに近づいてけると考えている。きちんと近づけたかどうかはわからないが、「近づいた」と錯覚できると考えているのだが……。
 うーん。
 「動詞」と「動詞」をつなぐ「肉体」というものをまったく感じることができない。
 颯木の詩の場合、私の読み方は「誤読」なのだろうけれど、少なくとも「恋人」がいる、「セックス」によって、男と女が、瞬間的に入れ替わる形で互いを刺戟しているというように、勝手に思うことができた。
 しかし、森本の詩では、そういう勝手な思い込み、「誤読」ができない。
 「文学の肉体」というものを活用して「言語」に分け入っているのだろうけれど、私は「文学」というものが苦手。森本がなじんでいる「文学の肉体」に私は疎遠である。「ことば」だけが動く世界というのは、何のことかわからない。私は「ことばの肉体」と「人間の肉体」が重なり、入れ替わる感じを味わいたい。そういうものを読むのが好きだ。
 眼で読まずに、耳で聞けば、また違った印象なのかもしれないが、眼で読むかぎり、音楽が聞こえてこない。特別な楽譜で書かれた、特別な音楽があるのかもしれないが、沈黙も、ノイズも私には聞こえない。
 お手上げ。

七番目の鉱石―seventh ore
颯木 あやこ
思潮社

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