散歩絵 : spazierbilder

記憶箱の中身

魔法の木の実

2006-02-28 14:30:16 | 植物、平行植物

Hamamelis virginiana

和名:アメリカマンサク 「満作」
独名:Zaubernuss(魔法の木の実)、Hexennuss(魔女の木の実)、Hexenhesel(魔女のへーゼルナッツ)
米名:Witch hazel 。

薬効:止血効果、炎症、かゆみを抑える。

雪のちらつく灰色の風景の中、白黒写真の一枚の中でそこだけ色づいたみたいに黄色い花が山盛り咲いている。
寒い中で一番といっていいくらい早くに花を咲かせる木だ。
大抵去年の枯葉がまだ枝に蓑虫のようにからからとぶる下がっていて、その間を埋めるように花は咲いている。
和名の「マンサク」は真っ先に咲く、「まず咲く」と言う言葉から来ているらしい。
でも、山盛りに精一杯沢山の花をつけている木を見ると「満ちて咲く」または「万の花が咲く」からではないのかなあ。。。なんてぼんやり考えながら歩く散歩道の水溜りは厚い氷がまだ融けていない。

                 

 

 

                   魔法の植物と言えば。。。。

                       ◎指名手配◎

                        
我が家の台所の窓辺に謎の植物が並んでいる。
(写真上)何処を捜しても、なんだかわからない。
これを分けてくださった日本人の婦人は「田七」と言う植物なのだと聞いたそうだ。
しかし、ネットで「田七」でサーチすれば沢山記事が出てくるが、どう見ても姿かたちが違う。
(ネットで見る”田七”はウコギ科の植物で明らかに窓辺に並ぶ植物とは別物だ。)
兎に角、体に良い万能薬草のようなものであり、刻んで食べるとよいといわれた。
これまた魔法の植物の一つだ。
刻み叩くとオクラやモロヘイヤのようなヌルがでる。味はニュートラルである。
非常に生命力の強い植物であるらしく、ひゅるひゅるとのびてくる蔓を切って土に差すとすぐに根付き瞬く間に増えて行く。
最初は頼りなげな茎はやがてごつごつとし、それが自由に延びて鉢から枝垂れてゆくように育ってゆき、可愛らしく少し肉厚な丸い葉は緑もさわやかで、その姿は私の気に入っている。
気に入っているので、別に名無しであってもいいようなもんだけど、やはり素性が気になっている。
もしも、この植物に心辺りのある方が居られたらお知らせの程おねがいします。

ひょっとして。。。。ご存知ではないでしょうか?


籠の下の雪おこし

2006-02-24 00:00:00 | 植物、平行植物
そういえばあのクリスマスローズはどうしたんだろう?
白花のほうは“白樺事件”以来行方不明になってしまい見当らないが、ピンク花の株は何処に行ってしまったんだ?
そう思いついて捜査すると籠の下に潰れた蕾が見つかった。
冬の間、葉が無くなるとすぐにその下に何が潜んでいるのかをすっかり忘れてしまって、籠やらラプランターやらをその上に悪気無く置いたりしてしまう。
その結果、蕾はモヤシのように白っぽくひょろっとしていた。
ああ、またやっちゃったなあと懲りない反省をしながら籠をのけたのが先週の事。
その蕾を今朝もう一度確認したら、ちゃんと色づいて立ち上がっているので、少しまわりの土をほぐしてちょっと餌もまいてみた。なんて現金な奴だと、彼女は思っているだろう。
日本では別名「雪おこし」とも言われるそうだ。確かに雪の間から白い花が覗いている事がよくある。

水仙の葉も出ている。
ヒヤシンスの蕾も奥のほうで頭を出している。
寒中でも咲いたり、雪の中ですっかり凍ったりした黒いヴィオラはまだちゃんと生きていて蕾がいくつもついている。

土の上に手を当てると春の足音が感じられる。



追記:
でも今朝は又外のたまり水の表面が凍っている。

名物”獅子芥子”

2006-02-17 08:23:26 | 飲食後記
上の写真のカード4枚組み合わせはマスタード製造会社のポストカード復刻版である。久しぶりに街に出たら、いくつか新しい商店を旧市街で見つけた。
私の気に入りの「グミ屋」でブルーベリー・グミを買って外に出ると、その横にまだ出来立てピカピカの「獅子芥子」の専門店があったのですぐに点検にはいる。
(獅子芥子=ライオンマスタードとはLoewensenf社名の直訳で、別にライオンがどうかしたわけではない。)
Loewensenf(Loewen=ライオン、Senf=芥子)
1903年にドイツ人Otto FrenzelとFrieda Frenzelはアルザス地方メッツにマスタード製造工場を創立、第1次大戦後やむをえなくドイツに帰国し、1920年よりデュッセルドルフにてディジョン製法で作られたマスタードで再出発する事になった。
しかし昔からデュッセルドルフは芥子で有名だったらしい。
1726年ドイツで初めての芥子製造工場が作られ、“ABB" と言う名の芥子種の茶色い皮も一緒に挽いて作られたマスタードが人気商品であった。
ファン・ゴッホの静物画のなかにもABBマスタードの入れ物が出て来るのだけど、ゴッホもABBマスタードが好きだったのかもしれない。
そんな歴史をLoewensenfは引き継いで、いまだ健在なのである。ソーセージには欠かせないものだし、最近ではクラッシックな芥子に加えて色々な味が出来ている。
例えば
ホースラディッシュ入り
ギョウジャ大蒜入り
唐辛子入り
蜂蜜入り
シェリー入り
などなど。。。

試食コーナーもあって、ちょっとしたLoewensenfの歴史も見る事が出来、中々感じのよい紳士がレジを守っていた。こういう店が出来てくれて楽しい。
私はホースラディッシュ入り芥子の小瓶を一つ買った。芥子だから当たり前に辛いのだが、ホースラディッシュの香と辛味が相まって案外美味しい。サンドウィッチに使うとよさそうだ。
観光客目当てでもある様子で、他にも可愛いグッズも色々揃っている。
ちょっとしたプレゼント、土産に使えるってものだ。
実はいつも日本に帰るときの土産物探しには苦労するのだ。
いっその事、日本で美味しい物を探してプレゼントしたほうが喜ばれるのではないかと思っている。重い思いして甲斐なしってこともたびたびあってとてもがっかりする。
まあ、この芥子も土産として受けるかどうかは疑問だけれど。。。

結晶化した海月たち

2006-02-15 08:14:40 | 美術関係
古い博物館のガラスケースの中を覗いていると、時々ガラスで出来た植物や海の中の生物が置いてあるのを見つける。
それは大抵展示されているものの付け合わせである。

例えば、昆虫部門を訪ねて見る。
ガラスケースの中にはまるで宝石のように美しい昆虫の剥製が並んでいて、その昆虫達の止まっている花は実に良く出来たガラス細工だったりするのだ。
又は昆虫そのものがガラスで出来ていることもある。(リンク先参照:Blaschka
今なら他に色々なマテリアルと手法があるだろうけれど、ガラスという限られた可能性の中で作られたモデル達はなんと繊細で美しいのだろうか?
その上ガラス細工なのにもかかわらずこの精密さはどうだ。 

多分フランクフルトの自然博物館だったと思うのだけど、私が始めてこのガラス製モデルに気がついたのは鳥類の展示棚だった。 
ガラスケースの中に並ぶ鳥の剥製の脇に無造作に実物大のリンゴの花咲く枝が一枝無造作に少し離れて置いてあった。
鳥が枝に止まっている情景を演出しようとしたのだろうが、枝にうまく剥製が乗らなかったのかもしれない。 
剥製の横でガラスの枝はやけに生めかしく、それは命が抜けてしまった“殻”の横で唐突な存在感があった。
その対比が奇妙だったので良く覚えている。

後にウィーンの自然博物館では海の中の軟体生物のガラスモデルを見つけた。
ヒトデ、イソギンチャクなどの吹きガラス細工で、そのガラス細工たちはリアリズムを追求することをやめてしまい、創造性(想像性)を重視してみたのだという感じで、ファンタジーの勝利なのか単に職人の技術が足りなかったのかわからない。たぶん後者であったのでは無いかと睨んでいるが、どうなのだろう。
しかし、現実とずれ込んだ所に意外な可愛らしさがあって、そして何より美しく見ていてとても楽しかった。

これはウィーン自然博物館での展示物



。。。。という事で、昨日は『ガラスのアクアリウム』と名づけられた展覧会を見てきた。
それはもう驚異としか言えない。
部屋に入った途端、『ヒャー、何だこれ!なんてこった!』とガラスケースに抱きついた。
大体、海の中でふわふわ飛行している透明なものや、水の中でさわさわと“風”に吹かれてゆれている虫とか、精密な宇宙船のような微生物とか、そんなものを見るのが好きな所に、この精密で美しいガラス細工を見せられてノックアウトでしばし呆然自失。
ああ、喉から両腕が突き出してもがいている。
それほど客も居ないし、監視のお兄さんも退屈そうにどこかほっき歩いていたようで視ている者はいないようだったけれど、私には犯罪者になるだけの器量が無く、唸り声が漏れるばかりである。
どうやってこんな風に繊細なガラス細工が出来るものか作業を見たい。
下の写真を見ていただければ、私の開いてしまった口がもとに戻らなかったり、目玉が落ちそうになったり、鼻息でショーケースのガラスが曇りっぱなしになるわけがわかってもらえるのではないかと思うのだけど、どうでしょう。
ちなみにこれらは19世紀に製作されている。
   
作品を移動したり展示する時にどうやっても折れそうで、想像してたら背中がムズムズした。
放射状の無数の細い針のようなガラスは息を吹きかけただけでも散りそうなのだ。
展示の際、息をしてはいけないに違いない。
写真上のイカの長い触角は一つも折れていないのが驚異!


同美術館内でパンク・ロック・ファッションの女王、アヴァンギャルドの女王の回顧展『ヴィヴィアン・ウェストウッド展』をやっていたのでこの際ついでに見ておいた。後で調べればどうやら東京、六本木での展覧会がまわってきたらしい。
ファッションの歴史に興味のある向きには面白いかもしれない。
最も私の場合これは、ついででなければ見なかっただろう。
その美術館側としては、『ウェストウッド』がメイン展示だったんだわけだけれども。。。

今夜はガラスの海の夢が見たいなあ。

春のエキス

2006-02-12 11:52:42 | 飲食後記

本日真珠色の空,外気温プラス2度。
雨と雪が予報に出ているけれど
ほんの少し明るくなりつつある外の景色。


寒いのに頑張る、変わり葉のスカンポ。


 
青々と草の茂る野原をタクシーに乗って走っていると左手の茂みに”イタドリ”の芽がズラズラと並んで生えているので、運転手さんにお願いして車を止めてもらい、外に出てイタドリをポキポキと収獲した。水水しく黄緑色に赤みをそっと引いたイタドリの芽だ。


実は夢の中の出来事だったからその収穫物をどうしたかと言うところまでは覚えていない。
地面から20cmほどのびたイタドリの芽を摘み食べて見たいと、去年の春から考えている事なのである。
(これを読みながら、ほうら、又始まった。と苦笑いする人が居るだろうね。)

数本揚げ焼くようにしてパラパラとブラウンシュガーを振り、バニラアイスを添える。残りのイタドリは砂糖煮にして白ワインで溶きアイスの上にとろりとかける。とても春らしいデザートだと思う。


イタドリは1869年頃園芸植物として日本からヨーロッパに輸入された。
生命力旺盛なこの植物は地元の植物を押しやりながらあちらこちらに爆発的に増え続け今では、嫌われ者だ。目の敵とばかりにイタドリは庭から追放され、今では道路の脇、ちょっとした空き地、森林公園の入り口辺りだのに、それでもかなり威勢良く増え続けている。 
彼等に悪気はないので気の毒なものだけど、外来植物は何処でも似た様な運命
を辿っているようだ。しかし彼等には同情を引くようなひ弱さは無い。

漢方では根と根茎を虎杖根(こじょうこん)と呼び、緩下剤、利尿作用があるそうで、イタドリの名は「痛みをとる」から来ているそうだ、つまり『痛取り』。
スカンポと言う名で覚えている人が多いのかもしれない。  
蓚酸を含んでいるのであまり沢山食べるのは体によくないので注意する事。

若い芽をポキと手折り齧ると青臭い酸味が口の中に広がり、キュウッとこめかみが縮まる。この酸味で酢飯を作ることもあるらしいし、山菜として収獲し醤油、酒、みりん、と鰹節で炒め煮にしたりするようだ。
それも中々美味しそうだな。 是非やってみたい。


私の春の恒例料理”春のスープ” はイタドリではない方のスカンポ(Rumex acetosa:ソレル)と他の春の香草を加えてのクリームスープで ”春のエキス”をお腹に満たす感じがある。


 
でもそれまでにはまだ間があるなあ。

イタドリの塩漬け
イタドリの塩漬けその2
イタドリの食べ方
イタドリの油いため

雪のしずく

2006-02-10 10:50:30 | 読書感想
春、春、春。と毎日唱えている。唱えるほどに少しでも早く春が来るというのであれば一日中でも唱えていよう。
春の歌を、これじゃぁ春が耳を塞いで逃げるかもしれないような調子っぱずれで思い浮かべては片っ端から口ずさむ。
まだ二月もが半分も過ぎていないのだから、明日春が到着する筈はないとわかっているけれど、辛抱がない。



それでもスノードロップの芽の頭が覗いている。




スノードロップ。
ドイツではシュニーグロックヒェン(雪の小鈴)
と愛らしい名前を貰っている。

準備は着々進んでいる。
私がブログをはじめたのは去年の三月半ばの事でやはり寒い寒いと書いている。
私は本当に寒がりやなのだ。
最も最近暑さにも弱い軟弱化が進んでいる。

カレル・チャペックに「園芸家の12ヶ月」という著書があって、とても楽しい本だ。
読みながら思わずニンマリし、激しく同意し、やがてにわかに土いじりをはじめたくなるという本だ。土いじりが好きでない人にも楽しめるけど、好きな人は多分、同病相哀れみながら、溜息を付きながら、自分の庭を想いながら読み進む。


。。。もう一つ、春のメッセンジャーとしてスノードロップがある。初めは土のなかからそっと覗いている。ほんのこれっぽっちの、尖った頭に過ぎない。次に、その頭が分かれて、厚ぼったい二枚の歯になる。それっきりだ。時によると、早くも2月の上旬に花が咲くことがある。どんなに見事な勝利の椰子も、どんな知恵の木も、どんな名誉の月桂樹も、冷たい風に揺られている蒼白い茎に咲いた、この白い優しいうてなの美しさには及ばない。
(カレル・チャペック、園芸家の12ヶ月 「2月の園芸家」P30)


東西味比べ

2006-02-08 10:45:02 | 思考錯誤
写真の「物体」はジェリーバナナ- Geleebananen- という商品である。
ドイツの誇る(?)駄菓子なのである。
寒天で出来たバナナ型はチョコレートのマントを纏っている。
中味にバナナ風味をつけているが、それらしさはあまり感じない。

バナナといえば、ちなみにドイツはバナナ大量消費国なのだそうだ。
バナナは携帯食料としても優れた食物である。
持ち歩くには天然弁当箱のようなしっかりした皮がついているし、皮を剥くのに道具要らずで手も汚れない。時間が無い時も素早く何処でもこっそり隠れて食べる事も出来る。
カリウム、ヨード、鉄、亜鉛、マグネシウム、そしてヴィタミンA,B,C,Eが含まれているのという点も良し、消化も良し、低下カロリー、軽いバクテリア殺菌効果もあり、免疫力向上とますます点が上がる。

とんでもない昔の事だけど、私が幼稚園にあがる頃のバナナは高価な南国の果物だった。(こういう事を書くと年がばれるが敢て書く。)
時々祖父がバナナをお土産に持って帰って来る事があった。
それはたいがい立派な大きい房で黄色く輝き、なんとも魅力的なものだった。「後でバナナを食べてもいいから御飯をちゃんと食べなさい」とバナナに釣られるくらいとても甘くて薫り高く美味しかった記憶がある。
それから間もなくバナナは高級果実の座をアッという間に転がり落ちてしまった。
今ではバナナでも食べておいたらどう?とか、バナナしかないよ。。。と言う位の“代用食品”となってしまったわけだ。

そういえば、子供の頃に読んだ本だか雑誌の中に、何故だか”バナナの効用”について短い記事だかエッセイだかを読んだ事があった。何しろ小学校も低学年の頃だったので、それがどんな本で誰の本なのかはっきり覚えていない。
バナナの果肉に沿ってスルリと剥ける糸状の筋部分とナツメグの粉末を捏ね合わせて服用すると“幸福感”を得られるというような話だったと思う。
その頃の私は -今でもそれは全く変わらないが- 実験好きの子供だったから、どんな効果があるのかとても興味があったけれども実行するに至らなかった。
兎に角その当時”粉を作る””計る””混ぜ合わせる””丸薬にする”などという一連の作業に魅入られていた私はそのような話には敏感に反応してしまうのだった。-今思えば危ないこともあったかも知れないが、私の守護天使は良く働いてくれたらしい。- 
「これは効果があるとしても頭痛が起こる事可能性があるので勧められない。」というような事も書かれていたのを覚えている。

バナナに含有されるトリプトファンのおかげで神経伝達物質セロトニンが作られ。セロトニンがドーパミン(喜び、快楽)やノルアドレナリン(恐れ、驚き)などに作用し精神を安定させる。
そのあたりが“幸福感”が得られるともいわれる由縁だけど、私はバナナ1,2本食べて幸せになった事は今まで無い。大量に摂取すると効果があるのだろうがお腹をこわしてトイレに籠もることになるのが落ちだ。
不溶性繊維質(セルロース、リグニン)と溶解性ペクチンのせいで下痢を引き起す事がある。便秘の向きにはその方向で効果が期待できるかもしれない。
また完熟バナナ食用すると腸癌を防ぐという話もある。
私の友人のその又友人の話だけど、展覧会のオープニングパーティーでバナナケーキを振舞うと作品が売れるという。
ひょっとしてバナナケーキで訪問客のセロトニンを何気なく増やして、気分をリラックスさせ、財布の紐を緩めるという術かもしれない。
一度実験する価値ありかもね。

ところで“ジェリーバナナ”の話に戻るけど、私が面白いと思うのは旧東ドイツ製、西ドイツ製がある事だ。
見た目としては東ドイツ製ジェリーバナナは表面のチョコレートが細かく波打った感じに仕上がっており、西バナナはツルッとしている。(写真は西バナナ)
東バナナのチョコレート表皮のストラクチャーは、東独において当時チョコレートが高価であったため、生産過程でチョコレートの余分を吹き飛ばすのでできた模様なのだ。風の波紋である。デザイン上の問題では無い。
もう一つの違いは中のジェリーの味付けで、西バナナの中身は東より酸味が強いらしい。
食感の追求から(?)中のジェリーは動物性ゼラチンではなく寒天が使われる。
いつ頃出てきた商品なのか知らないが、今だにそれぞれのファンはいるらしく、東味、西味の双方が今だ生産されている。
私はジェリーバナナ西ドイツ味しか試した事が無いが、“東”風味もそのうち一度食べて見たいものだ。
そうはいってもこれはいわゆる駄菓子であって、とても美味しいというものではないのだ。必死に探して買うべきものではない。なんとなく出会って思わずつまんでしまって口に放り込むと、なんとなく懐かしい素朴さがあって、又なんとなく手が出てしまうという感じのお菓子なのである。
ちなみにバナナ型で中はマシュマロと言う似た駄菓子もあるが、どちらかといえばジェリーバナナの方が私は気に入っている。
最も一年に一度買うくらいで充分だけどね。

とりあえずバナナはストレス解消に良いというから、多忙な現代人に便利で優れた食べ物だという話。
。。だったっけ?
いや、味比べ東西バナナジェリーの話をしたかったのだった。


バナナ商標シール
バナナとアート

背中に青いまだらのある白い犬の話。

2006-02-06 18:52:27 | 思考錯誤
幼い頃、私は
その星と友達だった。
星はいつも私に素敵な物語を
語ってくれた。
ある日、私の眠りはどこか遠くに
出かけてしまい、
いつまでも眠る事が出来なかった。

   「おやすみ 
    おやすみ 
    今夜は私の光の毛布を
    たっぷりかけてあげよう。」

   「背中に青い斑点のある白犬の話を聞いたかい?」

私はそんな犬を見たことも
聞いたこともないので
首を横に振った。

   「その犬は真っ白な背中に
    真っ青な5月の空のような
    まだら模様があって、
    フレックと言う名前だった。
    彼はほんとに遊び好きで
    元気いっぱいの気のいい奴だけど
    時々ちょっとばかり調子に乗って
    とんでもないことをしでかしたりもした。
    どんなことを仕出かしたかって言う話は
    また別の日にすることにしよう。」

そこで薄い雲がすうっと寄って来て
星を隠したので話が少し途切れた。
やがて薄雲は去り再び星は語り始めた。

フレックは走る事が何よりも大好きで、
ふざけながら
飛び回りながら
いつまでもいつまでも
走り続けることがあった。
ある日
彼は彼の影と
追いかけごっこをして遊んでいた。
走って走って
頭の中が
空っぽになるほど走り続け、
気がつくと知らない星に
一人たたずんでいた。
その星は生まれたてで、
名前も無く、
真っ白なキャンバスのように
しみ一つ見当らず、
人っ子一人いなかった。
空っぽの星。
何も無い誰もいない。
そこにはフレックがいるだけだった。
だけどフレックは
そんなことを気にもとめず、
お腹はペコペコ,
喉がカラカラになるまで
遊び続けた。
その走りっぷりたるや
全く気持ちの良いものだった。
やがてお腹が空いて喉が渇いた。
だけど彼と彼の影以外に
何も見当らない。
そこには何も無い。
生まれたての星には
何も無い。
時が流れて、
彼の命はとうとう
“体”を脱ぎ捨ててしまった。
太陽の光が彼の体を
そっとくるんだので
まるで金色の繭玉のように見えた。
時は流れて
フレックと星は
ひとつになり、
やがて
彼の背中にあった
“空色のまだら”だけが残った。
例の5月の青空の様な奴だ。
5月の青空は
生まれたての星に
ペタンと張り付いた。

ある日、
フレックを捜して旅立った
“金色に輝く胸を持った鳥”が
とうとうその星にやってきた。
彼は小さな星を
くまなく飛び回ったけれど
フレックは見つからない。
素晴らしい天気でもあったし、
金色に輝く胸を持った鳥は
空を力の限り
きりきりと高く高く
舞い上がり、
ゆうゆうと落下を楽しんだ。
それはいつもフレックと
愉快にやっている時にした遊びだった。
彼が空の高みから
何気なく地上を眺めた時、
見覚えのあるものに気づいて
目をこらすと
それは湖だった。
とても美しい
生き生きとした
真っ青な湖だった。
水の中には沢山の生き物が住んでいて
喜びにあふれている。
金色の胸の鳥は思わず楽しくなって
得意の歌を歌いながら
再び空を飛びまわり
湖の上を高々と飛びあがる。
鳥はその美しい湖が
フレックの背中にあった空色のまだらに
うりふたつであることを歌いながら
飛び続け、
やがて
私の肩に止まってからも
歌い続けた。

その金色の輝く胸を持つ鳥にも
素敵な物語があるけれど、
それは又
この次にしよう。


    「おやすみ 
     おやすみ 
     今夜は私の光の毛布を
     たっぷり掛けてあげよう。」

そんな風に
星はいつも
私に語り続けてくれた。
あるときは楽しく
あるときは悲しく
そして残酷な話もあったけれど、

私は
星の話を聞くのが
大好きだった。



-2月6日、りゅう へ-

ゴビ砂漠の風

2006-02-05 10:58:15 | 映画の話
『らくだの涙』(Die Geschichte vom weinenden Kamel)を観た。
当時ミュンヘン映像大学の学生ビャンバスレン・ダバーとルイジ・ファロルニの共同卒業制作である。
モンゴル生まれのダバー監督が子供の頃に聞いたという話に仲間達が感銘を受け、それを主題にこの半ドキュメンタリー映画はできた。
ゴビ砂漠に生きる或る遊牧民家族の日常生活を描いている。
彼らが連れているのは駱駝と羊。
ある日一頭の若い駱駝が難産の末に白毛の駱駝を産み落とすが、彼女は子駱駝を受け入れない。
世話をする家族達の努力もむなしく、どうしても子供を受け入れない駱駝に、最後の手段は昔からの風習で駱駝に音楽を聞かせる事だった。
駱駝親子についての結果から言うと『音楽治療』は見事に成功するのだ。
街から駆けつけた馬頭琴奏者の奏でる音の響きと歌、風の音が母駱駝の体のを包む。まるで奇跡のような話だけれど、遊牧民達はそれを当然の成り行きといった感じで淡々と受け止めている。
出演者達は当然役者ではなく、街からかなり離れたところにテントを張っている遊牧民家族である。彼等は演技をせず、カメラの前で普段の生活をすることを受け入れていると言う感じだ。
監督等は幾つかの話のポイントを挿入しながら実際の遊牧民の日常をカメラに収めていくわけだがその幾つかは難問である。
例えば
1)実際の遊牧民で沢山の駱駝を持つ家族を捜す事。
2)中に身篭った駱駝がいること。
3)生まれた子駱駝をその母駱駝が受け入れない事。
4)音楽のセレモニーを終えて駱駝が涙を流す事。

1)と2)については何とかなりそうな条件に思える。(それでもひとしきり捜して大変だったらしいけれど。)しかし3)、4)に関しては奇跡を待つしかないというものだ。
監督等、製作者はインタヴューに答えて
「我々は、いくつもの晴らしい贈り物を貰った。」と語っている。
その上、子らくだは珍しい白毛と来ているのだから、駱駝ばかりか彼等も涙を流して喜んだに違いない。

フィルムの中でラマ僧が、我々はこの自然を守る使命を、子孫にそのままの形で引き渡す使命を負って生きるのだよ、と語り、祈った。

話の最後におまけのように一シーンが付け加えられている。それはその遊牧民の生活の中にテレビが入って来た場面である。
このシーンを入れるか入れまいかについて監督等は随分悩んだようだったが、この変化を地球の何処にあっても止めることは出来ないのだ、と言うことで挿入したそうだ。
昔からの遊牧民達はそのうちに消えて行くのだろうか?
変化受け入れ、形をかえながらも彼等の文化は引き継がれて行くのだろうか?

この監督等は社会的、政治的問題をあえて強調する事はしない。
自然の中に生きる人間の姿を通して問うて来る物は国境を越えている。

モンゴルの草原に行って見たい。

水中花

2006-02-02 07:54:42 | 飲食後記
日本でゆっくり買い物をする暇も無かったので、飛び立つ前日の夜に実家にあった乾物をトランクの中に放り込んだ。
「これっ、家にあったもの持ってきたから、この中で気に入る物あったらもって行って!」
と妹が大きなビニ-ル袋を両手に下げて飛んできてドサリと床に置いた。
彼女の台所にあった物を物色して掻き集めて持ってきたらしい。 そんなわけで本と買い置きの乾物でトランクは間もなくいっぱいになった。

春雨。
乾燥饂飩。
素麺。
インスタントもずくスープ。
白玉粉。
食玩のフィギュア。
秋刀魚の蒲焼缶詰。
鮭の水煮缶詰。
米。
こしあん。
佃煮。
・・・・
・・・・・
・・・・・・
その中に美しいまん丸に整えられたジャスミンティーが入っていた。

友人が訪ねて来てくれた日、早速グラスの中にお湯を注いで花が開くのを二人で待った。
スローモーション映像のようにゆっくりと開いてゆく葉が繊細な触角のように湯の中で何者かを探っているようにじんわりと動く。
やさしいジャスミンの香が開花と共に立ち昇ってくるのをじっと眺めながら待っているっていう時間はなかなかいいものだ。



このような工藝茶は味よりも目を楽しませるものらしい。
お茶の葉の花が開くと薔薇の蕾が現れるというものもあるときいた。





そういえば、
薔薇の小さな蕾のお茶を一握り友人から貰ったのを思い出した。 精神安定効果があるらしい。美味しい物ではないが薔薇の香がして気持ち良い。

赤福

2006-02-01 00:00:00 | 自然観察


毬の様な物が視界の端っこをコロコロ動き回っている。
仕事机に向っていると左目でキャッチ可能範囲に動く小さな物体X確認。
しかし振り向いた時には画面は静止状態、取り立てて異常なし。
もう一度仕事机に顔を向ける。
コロコロコロ。。。コロコロ。。
木の根元の立ち枯れ草が揺れているので目を凝らすと、土くれの影に欧州駒鳥がこちらに背中を向けている。
コロコロ動き出したのをしばらく観察していると寒い所為ですっかりふくらんでいてまるで手毬のようだ。
どうやらこの駒鳥は近所に住んでいて我が家のテラスが彼のテリトリーだという事を主張している。可愛い顔をしているが中々気が強く、クロウタツグミが追い払い攻撃を掛けても意に介さぬ風情だ。ひょいと退いてもすぐ舞い戻る。
彼がいつも陣取る辺りは両隣に住む猫たちの争い境界線で、双方の猫陣の『印』が交互に付けられる。
いわば前線なのだ。 
前線においても彼は平然と八方を油断無く監視しつつ、何かついばんでいる。
たいした奴だ。

「ほら、“あかふく”が来てるよ。」
「うう、ん? あ・か・ふ・く? あれ、美味しいねェ。」
「そうじゃなくてさ、鳥。 あれの事。」
とわが相棒は窓の外を指差した。
「。。。赤福。ああそう、駒鳥の事?」
「似てると思わない?」
「そうかな?」

勝手に名前を付けておいて、いきなり会話に挿入されても困る。いくら鋭い感を日頃磨き続け日々精進の私でも解りやしない。
姿が似ているわけではないけれど、確かに言葉の持つ響きやイメージがフックリ丸い小鳥に似合うようにも思う。
それ以来、この駒鳥は”赤福”と呼ばれるようになった。

ところでお菓子の赤福の赤は”赤心”という言葉から来ているそうだ。赤心とは真心の事だという。
なるほど真心を表す色は赤なのか。

色彩心理学についての或る本を読んでいたら「はじめに赤ありき」という項目があった。赤は人類が“色”として意識し名前を与えた初めての“色”だというのだ。幾つかの言語の中では“色”という言葉はすなわち“赤”なのだそうである。スペイン語の“Colorado=Red”などもその一つの例だ。

いつか友人と「傾向的に赤い作品は良く売れている」と言う話をしたことがある。最もこれは実にいい加減な見解で根拠は無い。
ある時私たちが或るアートメッセ会場の販売状況を見ていて気がついたことだ。
まあ偶然なのかもしれないけれど、遠くから赤いものを見つけては近寄ってみると、売れている確立がその時は高かったという話だ。あてにはならない。
しかし真心(赤)を部屋の中に持っているのは悪くないってものかな。

西洋駒鳥から赤色へと随分遠くに流れて来てしまったけれど、“赤福”の胸は春先にはもっと赤味がまして得意な歌を歌い始めるだろう。